第72話

「最初に言った通り、私の妹は魔術世界には何の関係もない人間です。魔術を見せることも教えることも禁じます」

「了解しました!」

「ふん、そんなつもりなんて最初からない。魔術っていうのはな、秘されるべきものなんだよ」


 仙台駅内を歩きながら、私は最後の確認をしていた。

 私の妹は純粋な人間だ。悪魔でも天使でも魔術師でもない、全ての能力が人間の域を出ない一般人である。

 魔術師組はそのことに驚いていたが、まあ何とか飲み込んでくれた。納得はしていないようだが、下手なことはしないだろう。

 いくら私が人外の化け物でも、妹は何の特異性も持たないことがそんなにおかしいだろうか。いや確かに、姉妹だから共通点があると考えるのは当然のことかもしれないが。

 それでも外部パーツを生体に埋め込むこともできる現代、やろうと思えばいくらでも進化できるだろうに。まあ、魔術師である2人には馴染みのないことかもしれない。

 そうしている間にも、待ち合わせ場所が近づいてきた。


「いいですね。くれぐれも桜華に望ましくない影響を与えないように。万が一のことがあれば、私は貴方達に地獄を見せます」

「それも20回は聞いた。過保護かお前は」


 しょうがないだろう。私の唯一の肉親なのだ、心配に決まっている。

 と、懐かしい背中が見えてきた。

 心持ちとしてはこっそり近づいて驚かせたいが、それが不可能だと私は良く知っている。

 10メートル程まで近づくと、彼女は振り返って、私達を視界に収める。

 同時に向けられたのは、私に対する喜びの笑顔だ。


「お姉ちゃん!」

「桜華」


 駆け寄ってきた勢いのまま、私達は抱き合った。

 私は少し手加減をしながらだが、桜華は持てる力を込められるだけ腕に込めて私を圧迫してくる。当然この程度では私がどうにもならないことを、彼女は良く知っているからだ。

 私としても、この遠慮のなさが嬉しい。私を誰よりも知っているからこその行動が、私を満たしていく。


「ああ、ちっちゃい。可愛い。綺麗。なんでお姉ちゃんはこんなにお人形さんみたいなんだろう。うふふふ」


 頬をすりすりしてくるのがまた愛らしい。

 私に似て大理石のような肌の感触が、彼女が桜華本人だと伝えてくる。いくら美容整形しても、この感触には遠く及ばない。


「すべすべでふにふに、でも少しかたい。少し痩せ気味なところも変わらないなぁ。くふふ」


 夏物特有の薄い生地越しに感じる柔らかさが、何とも言えぬ懐かしさを呼ぶ。

 ベリー系の甘い香りが鼻腔をくすぐる。桜華がいつもつけている香水の香りだ。私が好きな香りと知っていてつけてくれているのだ。嬉しくないわけがない。

 なんて愛おしい妹なのだろうか。


「髪も絹みたいで癖一つない。宝石みたいな瞳も輝いているなぁ。ああもう、なんて罪深いお姉ちゃん。どんな人だってイチコロだよ。うへぇ」


 何だか体がまさぐられている気もするが、きっと私の健康状態を調べているのだろう。姉思いの妹だ。


「なあ、あいつが妹だろ? なんて言ってるんだ?」

「さあ、私も日本語は勉強中なので。エマさんなら分かりますよね?」

「お姉ちゃんが可愛いって言ってる」

「ほんとにそれだけか? 表情とか手の動きとかが性犯罪者のそれだぞ。姉にする行動じゃないだろう」

「お姉ちゃんが大好きな音がしてる。悪い音じゃないから問題なし」


 エマ達の会話が聞こえたのだろう。桜華が私越しに3人に目を向けた。


お姉ちゃんシスター? お姉ちゃんが、お姉ちゃん? どういうこと?」

「もごもご」


 胡乱気な声をだす桜華に説明しようとするが、胸に口が当たって上手く喋れない。目も肩に当たっているので見えない。

 そろそろ放してくれても良いのだが、彼女の腕からは全く力が抜けない。

 

「貴方達は誰ですか? お姉ちゃん以外に来る知り合いはいないのですが」

「英語で助かる。僕たちはそこのアサガミに連れてこられたんだ」


 肩を叩いて合図してみるが、気付いていないのだろうか。そろそろ呼吸がしたい。布越しなので多少はできるが、それでも苦しいものは苦しいのだ。


「お姉ちゃんが? 友達すら満足にいないお姉ちゃんに誘われた? そうですか、とうとうお姉ちゃんも動物と赤ちゃん以外に友好関係を結ぶことが。私も嬉しい」

「むぐむぐ」

「あーその、そいつをそろそろ放してやってくれないか? 息ができていないようだぞ」

「え、もうちょっとだけ」

「息ができてないって言ってるだろうが!?」


 やっとこさ放された私は深めに呼吸をして息を整え、何処か不満そうな桜華の手を引いて3人の前に移動させた。


「紹介します。彼らは私の仲間であり、友達であり、妹のような人です」

「妹?」


 背筋に悪寒が走った。

 自分の感情がまだ処理しきれない私でも分かる、私は何か選択を間違ってしまったようだ。それが起こした結果も私の隣で形を成している。

 つまり、桜華がとても不機嫌になっている。


「お姉ちゃん? 妹は私1人だよね。なのに勝手に妹を増やさないでほしいな。一体何処から出てきたのかな。私には何の相談もなかった気がするのだけど。私が忘れているのかな?」

「いえ、妹のようなというだけで本当に姉妹なわけでは」

「言い訳はいいよ」


 バッサリと言葉を断たれた。これは相当お怒りだ。

 どうしたものだろうか。桜華が怒っている理由は分かっている。それが正当なものであるということも。しかしそれでエマの立ち位置を変化させるのもおかしなことだろう。彼女を今の位置に動かしたのは、他ならぬ私だ。

 桜華の前でだけ建前を変えるのは、それはそれで納得できない。

 エマはエマだ。

 私に与える者であり、私が捧げる者であり、私がいつか見出すナニカを秘める者。決して手放すことの許されない、誓約の匣のような人。

 ただ今は、妹のように思える愛し子。

 彼女には、偽ることはできない。たとえそれが、桜華のご機嫌をとる為でも。


「お姉ちゃんを責めないで?」

「貴方が原因なのですよ」


 ふしゃーっと猫のように威嚇する桜華に、エマはふわりとした笑みを変わらず向ける。

 まるで桜華に言い聞かせるように、エマはゆっくりと口を開いた。


「お姉ちゃんがね、私を拾ってくれたの」

「……拾った?」


 桜華の顔に、疑問の色が浮かぶ。


「私はずっと1人で、白い所に居たの。たまに色のあるものに出会っても、すぐに消えちゃう。いい音なんてしなかった。だからね、私は何も分からなかったの」

「…………」


 怒りが、消えた。


「大切なものなんて何もない。ただ座っているだけ、ううん、生きてるだけ。それが私だったの。それなのに、今なら分かる。あれは、悪い音だった」

「それは……」


 変わらぬ笑み。それに合わない、聞くだけで悲惨さが伝わる言葉。

 具体的な言葉ではない。いや、これが具体的にした話だったのか。エマの語ったものが、以前の彼女の全てだったのだろう。

 

「でも、私は何も分からないから、何もしなかった。しようとすら考えなかった。疑問も、苦痛も、悲しさも何にもない。それでも私には、それが聞こえた。何にもない私には音だけがあった。苦しい音が、私の全てだった」


 桜華もパトリアも、いつもならばスクープに飛びつくシルバーナでさえも、ただ黙ってエマの言葉に耳を傾けた。

 私でさえも初めて本人の口から聞いた、あまりにも残酷な話。詳細なことを知らない人間にさえも憐憫を抱かせる、エマの抱える過去という重い事実。いつも笑っている少女の抱えた、大き過ぎる闇そのもの。笑みの裏にそんなものが隠れていると、一体誰が分かるだろうか。

 しかしエマは「でも」と続ける。


「見つけた。初めて出会った、いい音のする人。何処までも吸い込まれそうなぐらい深いのに、小さな水溜まりみたいに密やかで、なのにすっごく柔らかい。まん丸で小さな虹の音も混ざってた。それが嬉しくて、私は幸せになったの」


 笑みが深くなる。

 その視線こそ桜華に向けていたが、誰に宛てたものかは簡単に分かる。

 私だ。エマは私に伝えるために、こんなに詳細に語っているのだ。

 

「お姉ちゃんは私を知って、それでも拾ってくれた。全部もらったの。私の全てをお姉ちゃんが使いつぶ……知らない限り、私はお姉ちゃんの大切な人になれる。だからね、それまでは妹でいさせて? 絶対に、お姉ちゃんを守るから」


 花のような笑みを浮かべながらも、言葉に込められたのは絶対の意志。それはきっと、この場にいる全員が悟った。

 その苦難を、歓喜を、その端にでも気付いてしまえば、誰も彼女の言葉を笑うことはできない。もし彼女の言葉を笑う者がいるとすれば、きっとその人間は共感力を欠いている。

 そしてこの話を聞いてなお、怒りを向けることは桜華にできないと、私は良く知っている。彼女は誰よりも優しいのだから。


「ひぐっ、そんな、そんなことって、ううう〜、えぐっ」


 ハンカチで涙を拭く姿に、私は既視感を抱いていた。

 そうだ、桜華はこうやって泣く。それが当然のことのように、悲しみを抱くことができる。憐れみではない、ただ涙を流す程に、何かを想うことができる。顔を知らない人であっても、彼女は誰かのために泣けるのだ。

 それは、私にはなかった人の輝き。

 ああ彼女は本当に変わらない。その優しさから騙されやすいと自覚しながらも、誰かのためになるのならばと手を差し伸べる。それがどれ程得難いものか、桜華は分かっているだろうか。


「大丈夫だよ? でも泣いちゃうよね。優しい音の人だもん。お姉ちゃんの、ただ1人の妹だもん」

「いいえっ」


 ぐすんぐすんと鼻を鳴らしながら、桜華は否定を口にした。

 5センチばかり背の低いエマに視線を合わせ、桜華は彼女の手を取る。

 はらした瞼で、それでも精一杯の笑みを浮かべ、桜華は柔らかな声でエマに語りかけた。


「貴方もお姉ちゃんの妹です。そして私の妹」

「そうだよ? 形だけだけど……」

。私達は本当の姉妹です」


 はっきりと、桜華はエマを受け入れる。彼女にとって大きな意味を持つ、『家族』という枠組みへ。


「私達も孤児だったんです。貴方もそうでしょう?」

「それはそうだけど。でも、私は外から来た誰かも分からないもので、厄介者だよ? お姉ちゃんに拾われただけなのに……」

「私達は院長さん達に救われました。生まれて間もなかった私達2人を、ただそこにいたからって拾ってくれた。でも、貴方は私よりももっと複雑で。最近まで貴方は何も分からなかったのよね? そしてお姉ちゃんに救われた。そしてお姉ちゃんは貴方を妹のようだと言った。なら、妹で何が悪いの?」


 珍しく困った笑みを浮かべるエマに、桜華はキッパリと言い切った。

 そこに憐れみはなく、ただ喜びと優しさだけが浮かんでいる。


「お姉ちゃんもそれでいいよね?」

「ええ、構いません。今日からエマは私達の本当の妹です」


 桜華がそう望むのならば、私が反対する理由は何処にもない。

 エマにしては珍しく、少しだけ頬を染めている。それは決して不快感からではない。嬉しいからこそ、彼女は照れているのだ。

 だから私にそれを拒む意味はない。会ったばかりでこうも仲良くなった2人、それを引き裂く意味が何処にあるものか。

 それ程までにその光景は、私の心を暖かくさせた。愛しい者達が互いを認め合った。それが嬉しくないわけがない。


(でも、私はそこに入る資格がない)


 ただ、少しだけ罪悪感があるだけ。

 胸の底に沈んだ澱みが、僅かに私を息苦しくさせる。


(私は、私はいつかエマを使い潰す。この光景を壊すのは、他ならぬ私だ)


 それが現実。

 そうなれば、桜華は私を憎むだろうか。それは仕方ないことだ。

 いや、いっそ憎んでほしい。怪物だと、化け物だと、悪魔だと、人間ではない異形だと、私の全てを否定して憎悪してほしい。

 その時心が引き裂かれたならば、私は確かに本物の心で犠牲を悼むことができるだろう。私は、そんな壊れた人外でしかないのだ。

 

「やった! 私、妹がいたらって想像してたんです。名前、教えてくれる?」

「エマ。漢字は無くて、Emmaでエマ」

「じゃあ今日から麻上エマですね」

「いいの?」

「勿論、当然でしょ。だって妹なんだから」


 尊い光景。それは後を思う程に儚く、だが確かに輝いている。

 きっと彼女達はそこに私を受け入れてくれるだろう。エマは、その意味を知っていても。桜華は、知らずに。

 その事実が、私の醜さを何処までも晒していくようだ。


「2人とも。そろそろ移動しませんか。周りから見られていますよ」


 桜華が慌てて周りを見渡す隣で、エマは泰然自若の構えで変わらぬ笑みを維持していた。

 だが、互いの手はしっかりと結ばれている。新たな家族の存在を確かめるように、あるいは決して遠くへ行かないように。

 それを私は、とても美しいと思った。何ものにも代え難いと感じた。

 今ならば分かる。これは紛れもない『幸せ』の一つだ。

 私は親しい人間が嬉しければ嬉しい、報われても喜ばしい、讃えられていれば感動する。そして、その姿に幸せを感じるのだ。


「そうだね。私にマンションに行こうか。道すがらそこの2人のことも聞かせて?」

「分かりました。パトリアさんもシルバーナさんも思慮深い方々ですよ」

「(たく、いちいち釘を刺すなよ)」

「(仕方ないですよ。妹さんが心配なんです)」

「2人とも、自己紹介してくださいね」


 私は言葉に少々の圧を込めると、魔術師組は背筋を伸ばしてYesと答えた。この様子ならば何の問題もないだろう。

 と、エマと桜華が手を離してこちらに近づいてくる。


「私は左、にする」

「じゃあ私は右にする」


 私を挟んだ2人は、それぞれの手で私の手を絡め取った。


「むふー、この触感。たまらない」

「同感」


 嬉しそうなのは結構なのだが、これでは私が身動きできない。


「あの、これでは私の荷物が運べないのですが」

「僕たちが運ぶ、心配するな。存分に仲良くやってくれ」

「あ、エマさんのケースも運びます。ついでの撮影の許可は……」

「やめとけ。ここで邪魔したら後がこわい」


 まさかの援護射撃に、私の退路は断たれた。

 左右の2人が歩き出せば、私からの抵抗はできない。気分はエリア51に連行されるグレイだ。違うのはそれが親愛を以て行われているというところだろう。


 この後私は、マンションに入るまで拘束されたままだった。

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