第69話

 雪原が広がっていた。

 白い結晶が絶えず地面に降り注ぎ、所々にそびえ立つ構造物まで真っ白に染め上げる。

 360°白光に満たされた情景は、見ていると自分何処にいるのかすら分からなくなる。それ程までに単調で、代わり映えなく、しかし美しい。


「…………」


 だが、少女は思う。『こんな世界消えればいい』と。


「……こんな世界、消えちゃえ」


 口に出してみたが、胸のモヤモヤは晴れない。


【それは余に対する言葉か? あるいは神への言葉か?】

「……うるさい」

【この願いの集積である天地を消す、か……悍ましき蟲ひとにでも言ったか? それは愚行というものだぞ】

「うるさい! ばか! デモのあほっ!」


 背後から響いた声へと、少女は罵倒を返す。

 今の少女は他者からの言葉に上手く対応できる程、心の余裕を保っていなかった。頬を膨らませていじける程度には。


【あの痴れ者は余に譲らなかった。余であればあの程度のナメクジは消し飛ばせるものを……愚者め。貴様はどうだ? 貴様の権能があれば余を表に出せるであろう?】

「…………」


 少女が何も返さないことを感じた《声》は、だが機嫌を損なうことなく、むしろ興味深げな色を滲ませる。


【あの痴れ者を救いたくはないのか? 余ならば叶えられるぞ。あの出来損ない……】


 抑揚の抜け落ちた、たった一言の命令。

 それだけで、世界が怯えたように吹雪が吹き荒む。

 少女が振り返ると、そこには黒いモヤが揺れていた。

 真っ白な世界に落ちた、黒い染み。

 一目で尋常ならざるものと分かるそれを前にしても、少女が恐ることはあり得ない。少女は自分が何ができるかを知っているからだ。


「お姉ちゃんは“出来損ない”じゃない。デモ。次にその言葉を吐けば、。戻ってきたら、また殺す。次も、殺す」


 モヤはその言葉に震える。

 恐怖にではない。にだ。

 故にだろう。モヤは少女の状態を覆す情報を告げた


【あの愚者は生き残るぞ】

「あり得ない。神代返りが逃がす筈がない。お姉ちゃんは、助からない」

【そう思うか? だがな、夜の香りがそう告げたぞ】


 その言葉に、少女は顔を顰める。


「……あの“夜の羽虫”が……お姉ちゃんを汚す気か……!」


 降りしきる結晶が、少女の怒りに応え動きを止める。

 

【さあどうする? 愚者はこれからも愚者のまま、余と貴様を苛立たせる。願いの在処すら気づかずにな】


 息を深く吸い込み怒りを飲み込んだ少女は、目を上と向ける。ただひたすらに白いばかりで、何の面白味もない空。そこに何を見るのかは、少女にしか分からないだろう。


「……何もしない」

【ほう、超絶の者が動き始めたにも関わらず貴様は傍観か】

「だって、デモも見守る気だったでしょう? デモはわたしより観てきたからね。デモは、


 モヤが不満を表すように震える。


【……やはり、貴様は気に食わん】

「そうなのかぁ。まあ何にせよ、今は見守るよ」


 機嫌よく鼻歌でも歌い出しそうな少女に、モヤはつまらなそうに姿を消そうとするが——


「でも、お姉ちゃんが助けを求めるなら、。お姉ちゃんを苦しめたものぜーんぶ、形も残さず粉々に打ち砕いて。繋がる《レルム》の全てを見つけ出して、神様だって、殺す。もう何も見出せなくなるまで、破壊する」


 ——続いた少女の言葉に精神を歓喜で満たす。


【……やはり、お前は《悪足り得る神》だ。全くもって……】


 ……美しい。

 それは言葉にしなかった。

 モヤが去った後、純白の世界には一点だけ強い違和感が残っていた。


 異質な赤い双眸という不純物が。





     †††††





 その場に集っていた者達は……否、その光景を瞳に映していた者全てが、そこに起こっていた光景に目を奪われていた。

 始まりは誰もが注目していた麻上永が、声高らかに誰かを挑発したこと。

 それに呼応して現れた巨大な化け物。それは倒した筈が蘇り、今も結界の狭間に囚われている眷属を生み出した。それどころか、魔術を否定するという馬鹿げた性質を帯びた眷属精霊を呼び出し、宇宙で現実を侵食までして見せた。

 魔術を否定する性質を確認したのは、勝手に状況を動かそうとした者を含めて数百人。しかしそれ以外の者も、トップメイガスの言葉で真実だと判断した。

 だが、真に注目されていたのは大精霊なる化け物ではない。それと戦う麻上永をこそ、全ての者は意識していた。

 相手が魔術を否定するからだろうか、今日以前の比べて弱い身体強化。それでも常人を遥かに超えた身体性能を発揮する魔術。

 現代兵器の礼装に頼っていたとは言え、それを使いこなす熟練度。

 ここにあっても魔力を感じさせない静謐性。

 如何なる魔術か致命傷すら回復させる揺るぎない完全性。

 槍を持ってから一時は、東洋の鬼神の姿を幻視する程の苛烈な戦いぶりを見せていた。

 しかし、彼女の無双も長くは続かなかった。

 仲間が星になる程、眷属精霊は強くなっていく。

 それに全員が気が付いた時には、麻上永の有利は無くなっていた。


『負けるのか?』


 誰かが言ったその言葉が現実のもとして近づくのに、そう長く時間は掛からなかった。

 左腕を切り落とし、壁際に追い詰められた姿には、勝機など何処にも見出せなかったというのが、見ている殆どの者の心情だったであろう。


『誰だあいつは?]


 それを覆したのは術理定礎二言詠唱者でも、大魔術使いでも、魔術卿でもない。ただ1人飛び出した無名の青年。

 無謀だと誰もが思った。

 それなりの観察眼を持つ魔術師は、青年の纏う魔術から力量を測って。そうでない者も、単純に戦力を考慮して。

 青年が殺される未来は、避けられないものの筈だった。……考えるまでもなく、その筈だったのだ。


『何をしているんだ?』


 青年は麻上永と自らを

 それに込められた魔術的意味は読み取れても、それが戦いに何を齎したのか、それは多くの者は分からなかった。

 そして、大勢の心は同じ疑問を抱いた。


 『それに何の意味がある?』

 

 それは当然の疑問。正し過ぎる程に真っ当な、現実的な問い。

 魔術で2人を繋ぐ。

 魔力の補填、術式の拡大、演算力の向上、概念の固定。そのいずれであっても現状を打破する手掛かりにすらならないのは、誰の目にも明らか。つまりは無意味な行動だ。

 だが、麻上永は何を思ったか、笑みを浮かべたのだ。まるで、勝利の為の道筋を見つけたかのように。

 気が触れたのかと感じたのは、決して魔術師達が浅学だからではない。

 むしろ、魔術師達の思考は正常だ。

 が起こると、誰が予想できただろうか。


『何が……起こった?』


 それが、多くの者の心情だっただろう。

 麻上永が槍を振るう。決してそれは届いてはいなかった。

 しかし事実として、眷属精霊は殺された。

 確かに槍を持った麻上永は、魔術が効かない筈の眷属精霊に、何らかの神秘を行使していた。

 それにしてもあまりに異常。

 魔力を感じないのはもはやどうでも良い。それはもう驚くの値しない。トップメイガスの娘ならばこなすのだろう。

 しかし、これまでの彼女が行使した力は、全て単純明快な解が用意されていた。こういう術式、このような魔術、これだけの許容量、それが明確に示されていた。

 だが今回ばかりは違う。決定的に違う。

 彼女は、麻上永は、

 それは『未知に概念を与えること』。

 魔術の概念は複雑になる程、一定の行動を伴うようになる。

 分かり易いのは『術理定礎』。

 一言から三言までに別れるそれは、一定以上の魔術師は必ず必要になる。

 術理定礎の役割は未知に概念を付与する際の道標と、世界に対する宣言だ。

 アレトラとその弟子が定めた絶対の法。世界そのものに認められたそれを破る事は、万能者であっても並大抵のことではない。

 だがどうだ。麻上永は詠唱こそ行ったようだが、それは術理定礎一言ですらなかった。当然、大規模な術式を運用できる筈がないのだ。それで眷属精霊という化け物を殺せる筈がない。

 しかし、そもそもそれ以前の問題を、少数ながら優れた魔術師達は理解していた。

 魔術師は多かれ少なかれ、概念に対して共感性を持ちうる。

 そう、気が付いていたのだ。数パーセントにも満たないもの達が、確かに感じたのだ。

 麻上永の奇跡は

 その程度と思うだろうか。

 だがそれは魔術師にとっては見過ごせないものだった。

 魔術とは基本的に瞬間の積み重ねではなく、今への収束だ。

 対比を示そう。

 積み重ねるのは『科学』。過去からの集積が遥かな未来を指し示す。長く続く帯のような構造だ。

 対して《魔術》。過去の《概念》と無限の未来に広がる《未知》がぶつかる一点の現象。両側からの圧力による爆発のようなものだ。

 その性質上、魔術が干渉を起こすのは行動の後、あるいは同時。

 そうでなければ概念と未知が術者の意識の前に繋がるという矛盾を起こす。

 故に、優れた者ですら何が起こったのかを測ることはできなかった。


『……バカな……』


 だが、さらに少数。魔術を極めたと称えられるレベル、それこそ大魔術使いに比するレベルの中でも上位の者達は、そこで行われた奇跡の正体に気が付いてしまった。

 麻上永が眷属精霊にを向けた瞬間、世界を構成する全てがざわめきをやめた。まるで、全てを見透かす事を邪魔しないように。

 視られていたのは眷属精霊。しかし映像越しであっても、その威圧は理解してしまった者を圧倒した。

 その後麻上永から発せられた詠唱は、あまりにも一方的な上位者からの命令。

 そして行われたのは、《精霊》の名を冠する化け物が有していた概念をも握り潰す、新たな法則による世界の変革。

 つまりは、という馬鹿げた現実。

 それが指し示す事実。

 彼女は、麻上永という人間に見えていた一つの生命は、

 

『ははははっ! さあ、ここからが本番だぞ。魔術世界の新たなる神の誕生だ……!』

『ふ、ふ、英雄は現れた。次はあなたが示す番だ。人の大樹たる役割、支える者として定めを』


 たった2人。どちらも人を超えた超越者の領域に精神を置いた支配者だけが、その後に起こる奇跡に思いを馳せ、宿命さだめを見据えていた。

 



 舞台は整った。

 さあ今こそ宿業をさらけ出せ。

 如何なる神もこの神話を止める事はできない。

 汝はただ成すべき事を成せば良い。

 ただそれだけで、





     †††††





 息を吸う。

 モノトーンの世界から帰って来た私は、最後に成すべき事を果たすために、最後の準備に取り掛かる。

 私では資格がない筈の祝詞を口にするという行動。それが今なら許されると、何をするでもなしに感じた。

 それは先程まで顔を合わせていた少女のおかげだろうか。

 

「『無の形インテンジブル』」


 大丈夫。何の問題も無く、私は自らの意思で祝詞を言祝いでいる。法則も澱みなく降りてきている。

 不安など感じる必要はない。

 私は託された。

 私は望まれた。

 私は許された。

 さあ、後はお前だけだ麻上永。

 お前は愛してくれる者の手を振り切った。たった一度の奇跡の代償に、死ぬことを選んだ愚者だろう?

 だったらできる筈だ。

 恐れるな。お前にはその資格は無い。

 全てを投げ打つ覚悟を持ったのならば、迷う事なく走り抜け!

 そう、それで良い筈なのに……


(……何故私は、今になって悔いているのか)


 哀れだ。

 共に立つ者がいるというのに、それでも私は恐れている。後悔している。揺れている。

 滑稽なまでに、私は真の意味での消滅を恐怖しているのだ。

 死は怖くない。元より私は人が超えなければならない原罪を持った者。その生は死の積み重ねにこそある。殺されるという偉業こそが私を私たらしめるのだから。

 だが、消滅の後には何も無い。偉業はおろか進歩すら齎せない。

 ああいや、そんな事は言い訳か。

 私はただ、人として死ねない事が望ましくないだけか。


「『栄光の謳シャイン見えざる闇オペーク』」


 だがそんな心を切り離しながら、私は正確に祝詞を紡いでいく。

 私の後悔など、私以外の者にはどうでもいいことだ。

 私の隣で痛みに耐えているパトリアに何の関係がある。むしろそんな感情は邪魔なだけ。

 だから捨て置く。

 逃げていてもいい。逃げた先も逃げなかった先も、私が消えるという事実は変わらない。

 どんなに無様でも、嘲笑したって良い。

 ただ裏切れない者の為に消えることを受け入れろ。


(最後の一節。それだけだ。後それだけなんだ。さあ——)


「ぐぃ……! がっぎ! クソッタレッ!」


 無言で痛みに耐えていたパトリアが、口を開き私を引き寄せた。

 目の前に見えたパトリアの顔は、歪み、色を失い、枯れ果てている。

 だがそれでも、瞳には諦めの色は無い。ただ決意の色が光っていた。

 

「ぐっ……! 迷ってんのかっ?」


 荒々しくも弱々しいその言葉が、私の隠されていた筈の迷いを貫いた。

 心が冷えていく感覚とは対照的に、思考はさまざまなノイズの覆われていく。

 何故分かった。この迷いと後悔は表には出していない筈なのに。

 だが、その答えを貰える程パトリアに余裕が無いことは、私の目からも明らかだった。

 そして私は超常的な思考の中で、ただ一つ感情に行き着く。

 申し訳ない。

 私は、貴方の思う英雄には成れない。

 その感情が、事実が、私の頭の上に重くし掛かる。


「それでいい……!」


 そんな私の下を向いた頭に、パトリアの押し殺した声が降ってきた。

 肯定の言葉。

 それが、醜い私にはさらに重く感じた。

 

「ああクソッ、おい!」


 それに何を思ったのか、パトリアは再び腕を引き、自分の目と私の目を合わせさせた。

 強い、強過ぎる程の決意が光る瞳。

 痛みに蝕まれながらも、なお輝く人の灯火。

 それを目に収めて、そしてふと気付いた。

 今最も身近にある感情が、パトリアの顔から読み取れた。


「すまない……後で、殴ってくれ」


 それは、申し訳なさを込めた謝罪。

 その言葉を最後に、パトリアは膝を突き、苦しみに息を喘がせる。

 左腕から伝わり全身を駆け巡る痛みが、強さを増した。

 それが示す事実。パトリアは痛みに耐えていた超人的な精神力を極限まで削り、今の言葉を私に放った。無茶をして意識はとうに限界を迎えながらも、それでも謝罪を告げたのだ。

 それを言うべきは私だというのに。それなのに、言わせてしまった。


(……ふざけるな。私は何を恐れていた……!)


 これまで感じていた『後悔』を、今生まれた『後悔』が塗り潰す。

 同時に感じたのは気持ち悪さ。

 それが『怒り』だと、私は最初気付けなかった。

 愚かさに、迷いに、未熟さに、大精霊に運命に神に私自身に向けた、今まで感じた事が無い程の強烈な怒り。

 血液が体を重く巡り、脳と共に思考が焼けているのではないかと思える。

 胃が重く吐き気がするほどに気持ち悪い。

 後悔など、成すべき事を成した後、幾らでもできるだろう。

 ただ今は、託した者に応えればそれで良いだろうが!

 

「『万象は偽りとなれフェアノール!!』」


 世界に叩きつけるように、最後の一節を謳い上げる。

 そこから始まったのは、大精霊から広がる宇宙を端から食い潰していく黒い光という、神話の終末が如き光景。

 だがミラーの時とは違い、黒い光の後に万色の光が追従している。

 世界というキャンパスが黒に染め上げられた直後、ありとあらゆる要素が真性悪魔の名の下に塗りたくられる。

 空間、時間、光、現実、神秘、概念の全てをねじ伏せて、虚栄にして願望たる箱庭が構築されていった。

 地を埋め尽くす財宝が、視界の一割を占める程の大月が、大精霊の宇宙すら霞む光輝の星々が、神代の世界にも匹敵する幻想がそこに顕現していく。

 だが、以前とは光景が大きく異なっていた。

 本来の意味とは違うが、その光景を言葉で表現したならば、『白夜』が最も相応しいだろう。

 北極や南極で見られる穏やかな白夜ではない。

 星々や月をも霞ませる一瞬の雷光が数多暗闇を引き裂き、白き極光が世界を焼き尽くしていく。

 その白雷が縦横無尽に空間を貫く白夜はあまりにも暴力的で、あまりにも幻想的で、あまりにも人の理から離れていた。

 

(まだ足りない……今感じる怒りはこんな優しくはない……!)


 後一つ、欠けたピースが嵌ればこの世界は完成する。

 唯一無比の輝ける全能者は聖書の中で、世界を明確にする要素として光を生んだ。

 だが光が原初の要素とは言い難い。なんせ、光を生む際に『光あれ』と

 すなわち《音》。この世界にはまだ音が無い。

 誘惑と破滅、そして願望渦巻くこの世界は、音を生み始めて完成する.


「早く生まれろ……そして私に力を貸せ。お前の価値を私に示せ……!」


 私が怒りのまま《レルム》へと言い放つと同時に、世界が轟音に包まれる。

 極光が世界を染め上げる。

 雷轟は世界を震わせる。

 私の求めたたった一度の奇跡が、ついに完成したのだ。


 ぎょおおぉおおおぉォォぉオオオ!!!


 上に目を向ける。

 そこでは大精霊が身悶えていた。

 宇宙という領域は剥奪され、雷光に目を焼かれて、轟音に体を震わされ、叫びを上げている。

 暫く放っておいても問題はないだろう。

 

簒奪さんだつの雷よ、ここに在りなさい」

 

 手のひらを上に向けたまま前に出せば、そこに赤い雷電球が生み出される。 

 膝を突いたまま荒い息を繰り返すパトリアに目線を合わせ、赤雷球を持った右手を彼の胸に近づける。それは何の抵抗も無くパトリアに引き寄せられ、その肌に赤い残滓を走らせた。

 そこからの回復は目に見えて進んだ。

 意識の色を失いかけていた瞳には光が戻り、土気色だった顔には血の気が戻る。轟音が思考に届いたのだろう、驚いて顔を上げる余裕さえ戻っている。


「ぼ、くは……なんで……自己暗示もないのに」

「私が痛みを奪いました。気分はどうですか?」


 私達に届く轟音を軽減してから、私は声を掛ける。

 

「お前……」


 パトリアは私に焦点を合わせてから、周囲の光景に目を剥いた。


「こ、ここは何処だ……僕達は闘技場にいた筈だぞ!?」

「これが奇跡です。《レルム》……私の全能者としての権能。これを貴方に見せたかったのです」


 パトリアは一瞬呆けた顔を晒してから、安心したように笑みを浮かべた。


「……なんだ。やっぱり英雄だったんじゃないか。神だとは思わなかったが……ああ、悪くない。むしろ最っ高だ」


 そう言って立ち上がるパトリアを支えながら、私は彼の頭に手を当てて、未だ完全とは言い難い意識に干渉する。

 パトリアの痛みは取り除いた。だが記憶として焼きついた痛みは消えていない。それをパトリアが認識すれば、今まで通りに生きることは難しいだろう。

 だから、少しだけ意識の形に干渉する。

 痛みに対する認識の在り方を切り離し、画面越しに見るかのように肉体の記憶を隔離するのだ。

 少なくとも今の生を生きている間は、彼が苦しまないように。


「もう法則を伝える必要は無いのか?」

「ええ、ここに至ってしまえば私だけで構いません」


 パトリアが魔術を解く。だが、手は握ったままだった。


「……最後まで一緒に居させろ。お前の軌跡を何も見落とさないように」

「……ありがとうございます」


 ああ、これなら安心だ。

 パトリアならばここで私が果てても、いつまでも覚えていてくれる。


(後は、貴方を始末するだけだ)


 やり残しは望ましくない。ここで終わらせる。

 未だ身を焼かれ続ける大精霊を見据えながら右手を掲げる。

 私達の頭上に白雷が凝縮され、徐々にその姿を表していく。大精霊よりも尚巨大な形を現すそれは、ある程度顕現すると同時に一つの鳴き声を上げる。


 ゴオオォォオオオオ!!


 雷轟を束ねたかのような音と共に、それは雷の迸る空に

 それは鳥類の形をしている。

 だがその特徴は誰の目にも明らかだった。

 平らな仮面のような顔。丸くて大きな頭。頭部の前面に並んだ双眸。

 

 それは白雷で形取られたフクロウだった。

 それは大精霊まで一羽ばたきで辿り着くと、鋭い嘴を開く。

 その口内からは闇が漏れ出していた。

 パトリアはその闇に注目していた。否、無意識に恐怖さえしていたのだ。


「あれは、何だ?」

「さて、私にもわかりません」


 嘘だ。私がこの領域で視えないものなど存在しない。

 それは傲慢の果てに虚無に消えた善性の成れの果て。

 薪のように善の炎を守っていた心の証明、それが燃え尽きた先に現れた何よりも深い澱み。

 傲慢が生んだ世界で最も重い罪の証だ。

 それに、呑まれれば存在そのものを消滅させられるナニカに、大精霊が消えていく。

 白雷に焼かれていた時とは比べ物にならない、生命が冒涜されることによる叫びは、敵である私にさえ重く響いた。

 そして大精霊を飲み込んだフクロウは、世界を裂く稲妻全てを自らに取り込みその体躯を膨張させると、最後には一点に収縮され消えていった。


「……終わりか?」


 静けさを取り戻した世界で、パトリアがつぶやいた。


「いえ、まだ残っています」


 私が死ぬという仕事が。

 それは、言葉にしなかった。


「ですが、それはあちらに戻ってからですね。さあ、戻りましょう。貴方は見届ける資格がある」

「おい、それはどういう——」


 パトリアの言葉が形を成さない内に、《レルム》が崩壊を始めた。

 外の世界からの光が、私達に降り注ぐ。

 それを見ながら私は感傷に浸っていた。



 ああこれが、私の終わりだ。

 結局、面白おかしくは生きられなかった。

 だが、私は尊いものを幾つも見つけた。

 ならば、勝負は負けていないだろう?

 せいぜい引き分けだ。

 次があるのならば、また勝負をしよう。

 何処からか私を見ていた、神という全知全能の唯一存在さん?

 お前から勝利をもぎ取って、世界に証明してやる。


 私が見てきた人の輝きを、神でさえ汚せない本当の尊さを……私には無かったからこそ焦がれた、美しき者達ひとの明日を。


 人類が磨き上げた最高傑作を、高みの見物をしているお前に叩きつけてやる。


 それまではせいぜい、運命を与えては気取っているがいいさ。

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