第2章
第22話
ペンが動くと、それに合わせて線が引かれる。右に動けば右側へ、左に動けば左側に、指揮者に従う楽器の如く正確に書き出される。
書き出された文字たちは、一定の規則性の下で文となり、そこに意味を生み出す。
文字が書かれているのは比較的大きめの端末だ。
一昔前には紙が使われていたようだが、今では記録媒体に紙が使われるのは稀だ。処理速度も扱いの単純さも容量も、端末一つの方が優れているし、何より効率が良いからだ。
尤も、今端末を前に置いているのは私ではない。
私はせっせと文字を書いている人物の前で、優雅にコーヒーを口にしているのだが。そんな私より前にいる人物の方が楽しそうだ。
「ふ〜ん♪ ふふ〜ん♪」
リビングにはペンが端末に当たる僅かな音と、楽しそうな鼻歌が反響している。
鼻歌の主は、一定のリズムで文字を書き出し続けている。
パッと画面を見た限りでは、書かれている文は破綻も矛盾もないようだ。
ミルクと砂糖をたっぷりと入れたコーヒーを啜る。
甘い。
当然だ、角砂糖を五つも入れれば甘くもなるだろう。
もはやコーヒーと言っていいのかも分からない液体だが、私はいつもこうしてコーヒーを飲んでいる。
ルシルあたりが見れば、それはコーヒーに対する冒涜だと言いそうなものだが、生憎ここにルシルはいない。今頃は一階のバーで飲んだくれているだろう。
「できた!」
カップの中の激甘のコーヒーが半分になった頃、端末の前にいる人物はペンを置き、私に端末を突き出してきた。
端末を受け取り、さっと目を走らせる。
「……良く出来ています。文脈の大きな間違いもありません」
「やった、おねえちゃんほめて?」
「はい、良く出来ました」
頭をぐりぐりと押し付けてくるのを、手のひらで受け止めて髪にそって撫でる。サラサラとした触り心地が心地良い。
「それにしても凄まじい学習速度ですね」
「がんばった」
むふー、と少女が胸を張る。
全くもって驚くばかりだ。
元々ある程度語彙があったとはいえ、僅か一週間でまともな文脈を扱えるようになり、話し言葉からもどもりが抜けた少女……エマの習得速度には目を見張るものがある。
まあ、物心ついた時には『はてしない物語』を読破していた私には及ばないだろうが。
……いけない。エマの成長能力が高すぎて、つい負けず嫌いが出てきてしまった。
ついこの前まで外の世界を知らなかったいたいけないエマに、何を対抗心を覚えているのだろうか。大人気ないにもほどがある。
とはいえ、これでエマが十分な会話能力と文章力を身につけることが出来ているのは分かった。最低限の生活を送るのに困ることはないだろう。
さて、次は何を教えようか。
国語は漢字以外はある程度できている。
教養はゼロに等しいが、社会の仕組みについてある程度の知識は持っている。
となれば、次は算数だろうか。
確認したところ関数はおろか、足し算と引き算の知識すらなかった。
まあ、ミラーの組織のところにいた時は、白い部屋に監禁されていたようだから、出来なくとも無理はないが。
とはいえ……
「今日はここまでにしましょうか。明日からは算数を学びましょう」
「うん、わかった」
あまり詰め込むような真似をしても逆効果だろう。こういうものは少しずつ確実に覚えさせるに限る。エマのように幼い人に教えるならば尚更だ。
「さて、今日は何をしましょうか」
「甘いものを食べたい、です」
「……それは後にしましょう。いくら体型や健康に影響がないと言っても、一日中甘味を食べていては常識が身につきません」
「残念無念」
「そうですね……ここ最近は外出ばかりでしたから今日はリバーシでも教えましょうか」
「リバーシ?」
「オセロとも言います。確か下のバーに置いてあったと思うので取ってきますね。その間にテーブルを片付けておいてください」
「うん」
オセロをするのは久しぶりだ。1ヶ月ほど前にルシルと対戦して以来ではないだろうか。
私は普段読書ばかりしているので、同居人のルシルと話す機会もそう多くはないのだ。まして、ゲームをする機会など1ヶ月に一回あるかないかだ。
尤も、私とルシルとの戦績は圧倒的にルシルの勝利が多いのだが。
私も弱くはないと思うのだが、如何せんルシルが強すぎる。ネットチェスで世界15位まで駆け上がったことのあるルシルは、あらゆるゲームでその実力を発揮するのだ。
ボードゲームを齧っただけの私では相手にならない。
まあ、今回は初心者のエマが相手だ。私の方が手加減することになるだろう。
とはいっても油断はできない。
日本語の正しい文脈を一週間でマスターしたエマのことだ。すぐにオセロのルールと勝利のためのセオリーを学習して、私といい勝負を繰り広げるようになることだろう。
とはいえ、今日は流石にルールを覚えるだけで終わりそうだが。
階段を降りて一階のバーに入る。
「すいません、ルシ——」
「顧問、これは重大な管理責任だぞ。あれがもたらす影響は決して軽いものではない。それは分かっているのだろう?」
「分かっているとも。だが幸いにも目撃者はおらず民間人の被害もない。これは最高の結果だろう」
珍しいことに、バーにはルシルの他にも人がいるようだ。
カウンターを挟んで、両者は顔を合わせている。
柱の影に隠れて様子をうかがう。どうにも、2人は友好な雰囲気に見えなかったためだ。
他人の話を盗み聞くのは礼儀に反しているが、ルシルの相手があの組織ならば話は別だ。どうせ私にも関係のある話である可能性が高い。
いや、ほぼ100%私に関係しているだろう。
「だがあの悪魔が白昼堂々主を冒涜する行為に及んだのは確かだ。到底許せることではない。我らが主の威光が汚されることになったのだぞ」
(……やっぱり地下教会でしたか)
『我らが主』などということを口にする人種は、日本にはそういない。せいぜい敬虔なクリスチャンか、数少ない教会にいる神父様ぐらいのものだ。
そして、ルシルの前にいるのは一応は聖職者であろう。
聖職者独特の衣装であるカソックがそれを証明している。
薄暗いバーの中において、その存在は浮いていた。バーという世俗的な場に清貧を旨とする神父がいるという状況そのものに、違和感が拭えないのだ。
それにしても聞き覚えのある声だ。
声の抑揚から主とする音域まで、私の頭に一致する人間がいる。
そう、この神父と私は顔見知りだ。
柱から顔を出し、ちらりと姿を視界に収める。
薄暗い室内であっても、私の目は必要以上にはっきりと姿を写し出す。
白髪の混ざった黒髪に、整えてはいないがはっきりとした眉。意思の強そうな瞳は、
一目見ただけでは、優しそうで好々爺然とした神父にしか見えない。
だが、私は知っている。
この顔は私が関わる事件を聞く毎に歪むのだということを。現に、その優しさが表れている顔は、今は苦渋に満ちていた。
「神の威光など私にとってはどうでもいい。神秘が秘匿され被害がないのであればそれでいいだろう。それともなんだ? そちらに不利益を起こすことでもあったのか?」
「無論だ。警察に捕らえられている魔術師からはいかなる情報も得られなかった。3人もいながら、得られたのは何らかの組織があるかもしれないという情報だけ。我らの威光が届いていないということだ」
「回りくどい言い方だな。つまりは
ルシルが鼻で笑う。
それでも神父のはルシルには取り合わず、険しい顔で話しを進めようとする。
「魔術師……いや、もはや魔術師ですらなくなった者たちからはいかなる情報すら得られん。たとえ脳を直接引きずり出そうともだ。となれば、何があったのかはあれに聞かなければならんのだが……」
「仮にも神を冒涜する奴とは話したくないと。ハッ、勝手なものだな。そんなに嫌ならお前でなく別のやつを寄越せばいいだろう」
「お前たちの管轄は私だ。下手に部下を寄越して異端に染まっては敵わん」
「私たちがお前たちに何かを強要したことがあったか? 異端に染まったならば最初からそいつがお前たちの言う異端の芽を抱いていただけの話だろうが」
「……もうこの話はいい。ここに来たのはあの悪魔に関する処分を伝えるためだ」
そう言って神父は脇に抱えていたバッグから書類を取り出す。とは言ってもそれは端末でも紙でもなかった。
茶色味を帯びたざらざらとした質感の薄い物体。
エナメル加工された優美なバッグと擦れた時の音から、それが普通の素材で出来ていないことが分かる。
皮だ。
それはどうやら動物の皮を伸ばしたもののようだった。
いわゆる、獣皮紙と言われるものだ。
今時、紙よりさらに時代錯誤な代物である獣皮紙なんてものを使う人種がいるとは、外では考えられないことだろう。
実用性のない美術的な価値しかないであろう骨董品を買い漁っている富豪ならばともかく、一般の家庭ではまず見られないものだ。
だが、こと魔術世界においては話が違う。
魔術師とは《未知》に《概念》を与えることで神秘の術を現世に降ろす者のことだ。そしてその概念の概念強度は信仰によって高まる。つまりはより多くの人間が信仰すればするほど、魔術の純度は上がっていく。
そしてその信仰は『蓄積』する。
勿論、今ある信仰が優先されるきらいはあるが。それでも積み重なった『過去』は概念強度を高めていく。
つまりは古ければ古いほど、過去の信仰が高ければ高いほど、《歴史》ある概念はよりカタチをはっきりさせていくのだ。
そして、獣皮紙の歴史は古い。
最も古い記録はエジプトの第4王朝時代の紀元前2500年ごろまで遡る。
4000年以上の歴史を持つ獣皮紙を使うことは、魔術師にとっては重要なことなのだ。
ルシルも普段は使わないが、金庫の中には山のような獣皮紙が納められている。
尤も、私は魔術師ではないので知識だけなのだが。
「これが今回の処分だ。……今回は受け入れてくれると信じているぞ」
神父が獣皮紙をルシルに渡す。
面倒そうに受け取ったルシルはサッと目を通すと——
「くだらない」
——獣皮紙に火をつけて燃やし始めた。
普通の火ではない。それは白い輝きを放つ神秘の炎を発生させていた。
それは煙も煤すらも出さず、的確に獣皮紙だけを焼失させていく。
あり得ない現象だ。
炎は炎心と内炎と外炎によって構成されている。
最も明るいのは内炎だ。これは、炭素(すす)が最も多く含まれているため。
だが、見たかぎり白い炎の中には煤が見られない。それどころか、炎心や外炎といった構造すら見当たらない。
ひたすらのっぺりとした距離感の掴めない不可思議な炎が獣皮紙を消していく。
化学現象に喧嘩を売っているとしか思えない。それどころか魔術法則にすらそぐわない、正真正銘論理不明の現象だ。
ルシルならではの意味不明の魔術だった。いや、これは魔術と呼べるのだろうか。浅学の私では論じることができない。
と、ルシルの魔術に目がいくが、行動も大概意味不明だ。
書類を渡してきた相手の前で、その書類に火をつけるなど、破り捨てるよりタチが悪い。酷い反抗心の現れだ。
ルシルは手の近くにまで燃え上がった炎さえ気に留めず、ついには手を炎に舐められてさえ顔色を変えずに、獣皮紙が燃え尽きるまで手を離さなかった。
「……そうか、今回も受け入れてはくれんか」
神父が苦々しい顔で溜息を吐く。最初からルシルが了承しないのを分かっていたかのような反応だ。
その様子を見てルシルは不敵に鼻を鳴らしタバコに火をつける。タバコにつけたのは普通の火だった。……魔術でつけている時点で普通とは言い難いかもしれないが。
「ハッ、当たり前だろうが。なぜお教会の命令を聞かなければならない。あいつの扱いは私に一任されている。罰も褒美も私の裁量次第だ」
「……本来儀式を持ってしか解術できぬギアスロールを燃やすとは……相も変わらず神力に愛されている」
「話を脱線させるな。私の話は理解できているのか? 話は聞いていたか? それともついに老ぼれになったのか?」
「聞いている。歳は取ったがまだまだ
「ご忠告感謝しよう、とでもいえばいいのか? 私に敵対すると言うことがどういうことか、まさか分からないとは言わせないぞ」
そう言ってルシルは口元を歪ませる。
それを見た神父は対抗するように笑みを浮かべると、右手で十字を切る。
両者は互いに視線を合わせているが、その力関係は対等ではない。
証拠に、優雅に酒の入ったグラスを傾ける余裕のあるルシルに対し、神父は明らかに緊張して気を張り詰めさせていた。
バッグを掴んでいる左手は力が入りすぎてバッグの表面が皺になっているし、全身の筋肉は無駄に緊張して震えている。
恐ろしいのだろう。
神父の前にいるのは正真正銘人を逸脱した怪物だ。魔術を操るだけではない、魔術を《隷属》させることすら成し得る。それがいかに人を超えた領域かは、神父然り、この世界に身をおくものならば理解できるだろう。
それでもルシルを前にしても折れない心は称賛に値する。
一瞬の沈黙の後、ルシルはタバコを押し潰し好戦的笑みをしまう。
「……まあいい。どうせ敵にもならない教会にお前の頭を持ち込んでも無駄だろうからな」
「……そうだな。私もこんなところで死するつもりはない」
緊迫した空気が霧散すると、神父は踵を返し出口へと向かう。
「お暇させていただく。あの悪魔の口から聞いたことは報告書に書いておいてもらおう」
「待て。その必要はない」
呼び止められた神父は怪訝そうな顔で振り返る。
だが、ルシルはその視線には釣り合わずに、二階へ通じる階段近くの柱へと声をかける。
「出てこい。話は聞いていただろ」
心の中でため息を吐く。
全く面倒なことをしてくれる。何を思って私とあの神父を合わせようと言うのだろうか。いや、おそらくは面白そうだから、とかそんな理由だろう。何にせよ面倒だ。
とはいえ、呼ばれたからのは出て行かないわけにはいかない。
柱から離れて顔を見せると、神父は僅かに驚いたかのような顔を見せる。
「……久しぶりですね、北方さん」
「永君……ああそうだな久しぶり」
多少ぎこちないが、神父……
これだ、この人物はいつもこうだ。
だから私は、この神父が少しだけ苦手だ。
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