第19話
万物を焼却する炎の厄災を前にしても、不思議と私の心は凪いでいた。
ミラーの叫びを聞いた時の不可解な胸の苦しさはもうない。有るのは何をすべきかを思い出した思考だけ。
目の前に聳える神話の怪物を眺める。
ドラゴンが発する熱が肌を焼いていく。熱された空気が肺に入り痛いほどだ。さらには視界にあるものが融解していく様がはっきりと見える。
これがただ1人の人間によって起こされているのだ。まさに偉業といって差し支えないだろう。
一体どれほどの願いを持てばここまで至ることが出来るのだろうか、私には推し量ることも出来ない。
分かるのはただ一つ。ミラーはこれほどの力を得て尚、満たされることがなかったということだけ。
魔術師とはそういうものだ。
満たされないからこそ求める。持っていないからこそ欲しがる。それは人の持つ根源的な性質だ。
それがいつしか人から魔術師を生み出した。
私はルシルからそう学んだ。
だとするならば、ミラーはいかほどの信念を持って魔術をここまで練り上げたというのか。
だがこれほどの魔術であってもミラーの心を満たすことは出来なかったのだ。
なぜそれほどまでに固執するのか。
なぜ満たされる事がないのか。
私にはまだ分からない事だ。
だが今はそんなことはどうでもいい。私が今すべきことはすでに分かっている。
(私のすべき事はミラーに打ち勝つ事。そのために使えるものは全て使う)
ああそうだ。ミラーの持つ最高の魔術である
ミラーがどれほどの覚悟と信念を持ってそれを宣言したのかは分からない。
しかし、私はその思いを踏み躙ってでも勝利をもぎ取らねばならないのだ。
それがエマとの約束だから……ただそれだけを理由に私は進む。
「すいませんね、私は何を犠牲にしても勝ちますよ。それが約束ですから」
その声はドラゴンの唸り声やアスファルトの融解する音に遮られ、ミラーに届くことはなかった。
それでいい。私たちの間で、すでに言葉は不要だ。
話し合いで何かを解決することは、今となってはもう出来ない。
いや、倉庫で会った時からその道は閉ざされていたのだろう。
……それすら違うか。
私たちは初めて顔を合わす遥か前から、言葉で何かを解決することは出来ないと決まっていたのかもしれない。
まあ、そんなことは考えるだけ無駄か。
今を生きる私たちにとって、もしかしたらの過去など何の意味もない。
それが意味を持つのは、過去の後悔か栄光を顧みる時だけだ。
「ガアァァア!!」
ドラゴンが咆哮を上げる。
どうやらゆっくりと考え事をしている暇はないようだ。
だがまあいい。丁度私も覚悟が決まったところだ。
今の私ではどう足掻いてもこのドラゴンに勝つことは出来ない。
いかに超音速で動くことが出来ても、いかに合金で出来た金属棒をへし折る力があろうとも、結局は圧倒的な力を持ったドラゴンに捻り潰されるだけだ。
だからこそ私は、その究極の魔術を打ち破るために、
倉庫では使うことが出来なかったが、今ならば心置きなく扱うことが出来る。
金属棒から手を離す。もうこれは必要のないものだ。
「ミラーさん。貴方が全霊をかけて私に向かおうと言うのならば、私も最高の力を持ってお相手しましょう!」
「……やってみろ満たされた者が……!」
ドラゴンが四肢を溶けたアスファルトに突き立て地面を掴む。体重を前方にかけたその体勢は、倉庫で嫌と言うほど見たものだ。
次に来るのは極大のビームが如き
ドラゴンから発せられる熱波が一気に高くなる。
大気が熱されたことにより巨大な陽炎が立ち上っていく。
局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折して起こったそれは、あまりの大きさからいくつもの透明な翼が新しく生えているようだ。
それは神秘的な美しさを持ちながら、同時に次の瞬間来る破壊を連想させる、破滅の翼だった。
(さて、時間もないか。必ずミラーに勝つ、そのために必要なのは……)
それを使うための
『—————————』
今回も異形の意識は、こちらの理解できない言語で私の語りかけてくる。
(……っ! 相変わらずこれはきつい……!)
異形の意識が近づいて来るごとに、訳のわからない不快感が込み上げてきた。
胃が捻れてしまったかのように、最悪な吐き気が込み上げてくる。
全身の筋肉が引き攣ったかのような感覚が振り払えない。
肌の裏を蟲は這い回るような感覚でおかしくなりそうだ。
脳に直接息を吹きかけられているが如き違和感もある。
挙句には内臓を直接弄られるような不快さがしている。
『————、——————』
異形に意識はどこまでも楽しそうに、私に語りかけてくる。
それは限界まで不快感に苛まれている私にとって、どこまでも鬱陶しく、精神をすり減らしてくるものだ。
ああ、不快だ。
ミラーとの勝負がどうでもよくなるほどに思考が止まる。
許されるのならば今すぐにでも解放されたい。
だが、それは了承できない。
ミラーに勝つにはもはやこの手しか残されていない。
エマとの約束があるのだ。
何より、私自身がこれを止めることを認められない。
もうミラーを逃すことなどあってはならない。そのためには完全なる勝利が必要だ。
(早く祝詞を唱えろ……! お前には後で構ってやるから。だから今は私の言う通りにしろ! お前の望むものは与えてやる。私は勝利を望む!)
そう心の中で宣言すると、異形の意識が歓喜を伝えてくる。同時に、意識の侵食が爆発的に進むのが感じ取れた。
私の意識が塗り潰されていく。
それは抗いようのないもので、私の方もそれに身を任せる。
「『
自分の意思とは無関係に、祝詞が喉を震わせ、口から溢れる。
すでに私の意識と異形の意識は、境界が分からないほどまで混ざってしまっている。
私にはもう何が目的だったのかも、何のためにこんな不快感に耐えているのかも分からなくなっていた。
だがそれでも忘れないことがある。
(エマ……私は勝つ。必ず勝つ……)
これが何の意味を持つ言葉なのかももはや認識できない。
大切なことなのだろうが、それでも思い出せるのはそこまでだ。エマとは誰だろうか。何がここまで大切なのだろうか。
今の私には分からない。
だが、それを思い出すことが出来なくとも、なぜか考えるごとに胸が震える。
耐えることが壮絶な苦しみとなる不快感の中でも、忘れてしまったことに後悔と悲しみを覚えてしまう。
だがそれ以上に、やるべきことがあると、私の心が叫んでいる。
敵は分かっている。
目の前にいるドラゴンと、その下にいる男が敵だ。それだけは忘れない。何があっても忘れることなど許されない。
なぜだとかどうしてだとかは今はどうでもいい。
今やるべきことは覚えている。
祝詞を上げろ。
祝福を謳い呪いを広げろ。
「『
それが例え冒涜のカタチを降ろすものだとしても、唱えて惑うな。
敵は強大でこの世界では敵わない。
ならば創り上げろ。
敵わないなら勝てる世界を整えろ。
至らないなら振り絞れ。
私にならそれが出来る。
(は、ははは……)
愉快だ。心の底から愉快な気分だ。
何がこんなに愉快なのだろうか。これは一体、何の感情だろうか。
分からない。分からないのだが……最高の気分だ。
不快感など気にもならない。
一時の苦痛など、この快感に比べれば、道端の小石ほどの興味も惹かないものだ。
『——————、——』
音なき声が頭蓋に反響する。
これは何だ。何が私に語りかけている。
随分楽しそうな様子だが、何か催し物でもあったのだろうか。
……いや、違うか。
これは……これは私か。
私の声だ。
喉を震わせることもなく。口を動かすこともなく。それでも私は確かに《声》を発している。
『—————ん』
私はこんな声をしていたのか。
ドロリと泥のように暖かく、油のようにジンワリ心に染み込んでくる。この声に魅入られてしまえば、それは麻薬のように離し難いものだろう。
いや、私はすでに魅入られてしまっているのだろうか?
いつまでも離れ難い声だ。
この時間がいつまでも続けばいいと思ってしまう。
最後の祝詞を唱えようとする喉が、引き攣ったように痙攣しているのが分かる。私が無理矢理止めているからだ。
卵から生まれようとする雛を、無理やり押し込めるように、言葉を喉に押し返す。
まだこの心地よい場所にいても良いではないか。なぜ無理にでも外に出ていく必要がある。
私が何かやらなければならないことがあるからか? ああだが、そんなことはどうでもいいではないか。
いつまでもここにいれば良い。
『—ね—ちゃん』
体から力が抜けていくのを微かに感じる。
自分の体のはずなのだが、感覚器から伝達される情報が届いてこない。
まるで自分の体ではなく他人の体を観察している気分になる。
直接脳に届くはずの情報が、甘く
だが、何だろうか。何かが引っかかっている。
甘く蕩けそうな声の中に、何か大切なものが混ざっている気がする。
注意深く頭蓋の内に響く声に耳を傾ける。
そうすると、先ほどまで意味の分からなかった声の中身が、だんだん
泥のように頭蓋の内にこびりつくようだった声が、清澄な水が流れ込んだように変化していく。
頭の中に染み込み思考を蕩していくようだった声が、冷たい清流のように思考を昭然たるものに変えていく。
そうだ、私にはしなければいけない事があったはずだ。それは何だっただろうか。
大切な事だったはずだ。何があっても忘れてはいけないものだったはずだ。
思い出せない。まだ何か足りない。
私は一体何を忘れている?
小骨が喉に引っかかったような感覚だ。思い出すまで僅かなのに、どれほど頑張っても頭に浮かんでこない。
だが、その答えはすぐ近くにある。この頭蓋に響く声の中に答えは隠れているはずだ。
押し寄せる爽快感も、べっとりと張り付いてくる不快感も、今だけは意識から焦点をずらす。
(
徐々に澄んでいく声に意識を集中させる。
この声の内容を認識することが出来れば、大切だった何かが分かる。そんな根拠のない確信がある。
(
声が近づいてくる。
さあ、早く私に語りかけてこい。
さあ!
『起きて? 約束だよ?』
(——ッ!)
その言葉を聞いた瞬間、私が何を忘れていたのかを全て思い出した。
ミラーに勝たなければならない事。
そのために必要なこと。
エマとの約束。
そして、私がやらなければならない事。
私の意識が異形の意識に塗り潰されていた事も正しく認識出来た。
それを自覚できれば後は早い。
自分の定義を強固なものにする。
思考を邪魔していた甘く蕩けるような言葉のベールはすでに消えている。であるならば、私を阻むものなどすでにない。さらにそれに伴って、離れ難い魅惑の快感も、私の意識から離れていった。
不快感が容赦なく私に襲いかかるが、そんなもの先ほどに比べればなんてことない。
『—————、——』
私の意識から分離した異形の意識が、私に語りかける。
もう今は言葉の意味は分からなくなっているが、相変わらず楽しそうに声をかけてくる。
前を向くと、ドラゴンは体勢を変えずに、陽炎の翼を広げて熱を蓄えていた。
意識が混合した時からそこまで時間はたっていない。
私の感覚ではとてつもなく長い時間を過ごしていたような気がするが、実際は3秒も経ってはいないようだ。
だからと言って時間を無駄にすることは出来ない。
ドラゴンが熱を必要量溜めてしまえば、すぐさま
幸いなことに、後必要な祝詞はあと一節だけだ。
喉を震わせる。
異形の意識による体の支配は消えかかっている。身を任せるだけでは最後祝詞は言祝がれない。
だが問題はない、最後の祝詞はしっかりと脳裏に刻まれている。
これで勝負は終わりだ。
そして刮目しろ。これが全能の一端だ。
「『
世界が裏返る。
空間も時間も全てをねじ伏せて膨れ上がっていくのは、黒い光という光学的に矛盾した存在。それがスクランブル交差点侵食していく。
「何だ……! 何なのだこれは!?」
ミラーから聞こえるくる驚愕の声が心地良い。
これが私の切り札だ。存分に味わえ。
「ありえない!? これは……これは!?」
高々と唱えるがいい。それは幻想を現実に貶める至高にして最悪の神秘。
7つの罪源の内の1つを担う唾棄すべき奇跡。
驕り高ぶった人間の象徴にして、決してなくなることのない悪行の根源。
私の司る《傲慢》の概念によってカタチ取られた1つの世界。
魔術の最奥。
偽神の箱庭。
精霊の庭園。
さまざまな名で呼ばれるそれは魔術世界では共通の名を以て語られる。
すなわち……《
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