カンガルーのオスに袋はあるのか?
藤 夏燦
カンガルーのオスに袋はあるのか?
カンガルーのオスに袋はあるのか?
動物図鑑を一緒に読んでいた息子から、そう尋ねられた。そんなことなんて今まで考えたこともなかったので、僕は答えに迷ってしまった。
調べてみると、どうやらオスにはないらしい。
「じゃあ袋に入れられっぱなしなんだね」
と息子は言った。
ここでいう「入れられっぱなし」は、子供のころにお母さんの袋に入れてもらったのに、大人になってから同じように子供を入れないという意味だ。
「仕方ないじゃないか。お父さんのカンガルーには袋がないのだから」
「どうして? それってなんかずるくない?」
「ずるい……、かな?」
カンガルーに限らず、オスにはオス、メスにはメスの役割がある。
すると息子が畳みかけるように言った。
「パパだってぼくを産んでないでしょ。産まれっぱなしだよ」
産まれっぱなし。その言葉に、珍しく砂粒が入ったかのように胸がざわついた。違和感があった。
「産んではいないけれど、宗太の半分はお父さんなんだよ」
「でも産んでないじゃん。産まれっぱなしじゃん」
「あのね宗太。赤ちゃんを産まないのは、いけないことじゃないんだよ」
「ぼくを産んだのはママだ。やっぱりママはすごいんだ」
僕の話なんて聞かず、宗太は図鑑の次のページをめくった。
宗太のお母さん、つまり僕の元妻とは別々に暮らしている。もともとは彼女の浮気が原因で、話し合った末に離婚することになった。
大手企業でビジネスパーソンとしてバリバリ働く元妻の負担を考え、一人息子である宗太は、男性でも育休がとれて仕事にも余裕がある僕が育てることになった。
「ぼくはママみたいになりたいな」
結婚していたころから、宗太は僕よりも妻に懐いていた。
仕事も家事も妻のほうが優秀で、叱られてばかりの僕の姿を宗太は見ていたし、なによりも宗太は幼いことから妻に甘えていた。
いつからかあの子のなかで「母>父」の不等式が出来上がり、動物図鑑を見てまでもこんな話を持ち出すまでになった。
「カンガルーのお父さんの気持ちか……」
宗太を寝かしつけたあと、僕はふと考えてみた。
子供のころから、父には父の、母には母の役割があると決めつけてきたから、袋に入れられっぱなしのカンガルーのお父さんの気持ちなんて考えたこともなかった。
父になることが決まっていたかのように、僕はいつからか理想の父親像をめざして子育てをおこなってきた。
産まれっぱなし、入れられっぱなしか。
たしかにそうかもしれない。
身体の構造上、仕方ないにしても、父と母では子を産み、育てることに関しての負担の大きさが違いすぎる。
やはり母は偉大か……。
僕はカンガルーのオスにも袋があればと思った。宗太を思う気持ちなら、僕だって負けていない。
それからしばらくして、保育園の先生から宗太に関する面白いエピソードを教えられた。
『じこしょうかい』の『しょうらいのゆめ』の欄に「おかあさん」と書いていたのだという。
先生が何度も、
「宗太くんは男の子だからお母さんにはなれないんだよ」
と指摘しても、宗太は頑なに否定を続けたという。
「やだ。ぼくはおかあさんになりたい!」
「子供さんにはいろいろな可能性が開けていますから、それ以上は否定をしませんでしたけど」
先生は苦笑いをしながら僕に言った。家に母がいないことを知っていることもあって、なんだか気まずい感じになった。
宗太もきっと心のどこかで、自分がお母さんにはなれないことに気づいているのだと思う。それでも、その事実を認められずに保育園で先生を苦笑いさせてしまうのだろう。
永遠に近づくことのできない「お母さん」という存在。宗太のなかでも、僕のなかでもそれは大きいものになっていった。
そこでふと、カンガルーの袋の意味について気になった。
調べてみるとそれは育児嚢いくじのうといって、カンガルーだけでなくコアラやオッポサムなどの有袋類のメスにみられるようだ。
中には乳首があり、寒さや外的から身を守れるので赤ちゃんにとっては快適な環境らしい。
そしてオスはその間、育児には参加しない。
「もしもカンガルーが離婚したら(笑) 子供は絶対、母親が預かるよな」
父親がいなくなってもカンガルーの赤ちゃんは生きていけるが、母親がいなくなったら赤ちゃんは死んでしまう。
子供が育児嚢いくじのうなしで生きられる年齢になっていたとして、子育てをするオスのカンガルーなんているのだろうか。
「いないな。いなさそうだ」
やはり僕は入れられっぱなし、産まれっぱなしのままだった。宗太もいずれ、そうなる。
それでも育ちっぱなしにはならないように、宗太にたくさんの愛情を注ぎたいと思う。
いつの日かこの子が、そのことに気づいてくれるように。
カンガルーのオスに袋はあるのか? 藤 夏燦 @FujiKazan
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