終章

10年後

 俺は、ロックバンドのライブというものを見ていた。

 ステージの上で、巨大な火柱が一斉に何本も立ち昇った。

 同時に、バンドが演奏している曲が一番盛り上がるサビの部分に入り、ドームの客席にいる観客たちが頭上に手を突き出した。

 アリーナ席と呼ばれるステージに近い位置からその演出を見ていた。

 十本以上はある火柱が横一列に並び視界いっぱいに広がる光景に、感動や圧巻というよりも、十年前に起こった自宅の火事が思い起こされてしまった。

 初雪の降りしきる日にアパートが放火され、壁や骨組みが燃え上がり朽ちていったあの残虐で儚い情景を。

 それから俺はライブに集中することができなくなり、贅沢にも人気ロックバンドの演奏をBGMにしながらこの十年間の出来事に思いを巡らせていた――。



 放火犯が自首したのは、俺が千沙の家を出てから数日後のことであった。良心の呵責に耐えられなくなったらしい。二ヶ月以上も捕まらなかった犯罪者の自首ということもあり、ニュースでも大々的に取り上げられた。


 犯人は二十代後半の男で、自分の恋人である女が浮気をしたから彼女のアパートに火を放ったそうだ。なんともはた迷惑な話である。俺の家と同じ建物でそんな愛憎劇が繰り広げられていたとは寝耳に水だ。


 だがその女が浮気をしたおかげで俺は千沙や朱莉と一緒に暮らすことができたと考えることもできる。それと如月浩司の不倫。この二つの浮気は、俺にとって起こって良かったのかどうか。答えは今でも俺の中にない。


 その一年後、俺は会社を辞め、関東に戻ることになった。今度は環境や生き方を変えたくなったとか、そういう理由ではない。単純に仕事がつまらなくて、辛くなったからだ。今思えば、千沙の家でずっと暮らしたいと思ったのも、無意識的に仕事の辛さを癒そうとしていたのかもしれない。如月浩司にも、千沙と朱莉と一緒に暮らす前の俺は生気がなかったと言われた。だから俺は自分の心を守るために会社を辞めた。これは逃避ではなく避難だ。


 千沙と朱莉は浩司の転勤のために福岡に引っ越して来たわけだが、離婚したあともずっと福岡に住み続けた。都心と比べて物価や家賃が安く、美味しい食べ物があり、適度に栄えている地域性が気に入ったらしい。


 不思議なことに俺は、次の仕事をまた福岡で探すということが頭の中で選択肢に挙がらなかった。関東に戻るのが当然だと思っていたし、会社の人間や両親や千沙と朱莉でさえもそれが自然なことだと理解しているようであった。


 結局、千沙の家を出てから福岡を去るまでの一年間にあの二人と会ったのは三回だった。六月に遅すぎるホワイトデーということで高い菓子を持って行き、正月には東京で会った。そして仕事を辞めるときに、また千沙の家でささやかな送別会を開いてもらった。その三回だ。それが多いのか少ないのかは俺にはよく分からない。


 俺は故郷の埼玉でまた一人暮らしを始め、新しい仕事を見つけた。小さなIT系企業の営業職だ。給料は高くないが、前の職場より労働時間も気苦労も少ない。贅沢な生活はできないけれど、ずっと続けられそうだという予感はあった。


 ともかく、こうして俺と千沙と朱莉は、特別とも言えた関係性から正月に会うだけの普通の親戚同士に戻った。連絡を取り合うことも少なくなった。かつて俺と千沙の仲が良かったのも、同じ地方に住んでいるという物理的距離感が心理的にも作用していたからなのかもしれない。


 それから数年後、人類に未曾有の危機が訪れた。新型のウイルスが世界中に広まり、猛威を振るったのだ。飛沫感染や接触感染により容易に拡大し、発熱や倦怠感のような軽い症状から呼吸困難や運動機能障害といった重篤な症状まで、様々な苦痛が撒き散らされていった。人々はマスクを着ける生活を強いられ、飲食店をはじめとする店舗や各種イベントは営業を制限された。


 千沙と朱莉も正月の集まりには参加しなくなってしまった。朱莉はその頃にはもう大学生になっていた。パンデミックが起こってから一年が過ぎてワクチン接種が始まると、今度は朱莉の就職活動も始まり、大事を取って東京には来なかった。千沙と朱莉に会えない寂しい期間が何年も続いた。


 俺の方はと言うと、突如ウイルスが現れたことを除けば何も変化のない生活を送っていた。結婚はおろか、恋人を作ることすらしなかった。かつて千沙に話した通り、俺には人を好きになる理由がなかったから。


 俺は灰色の日々と呼んでいた生き方をずっと続けていた。でももう生き方を変えようとはせず、灰色をそのまま受け入れ、消化し続けた。俺の人生はどこかに向かうことをやめ、停滞した。生きることがなんとなく嫌になることもあった。「将来の夢は、自分の人生が終わることかな」と、冗談交じりではあるが同性で同い年の同僚に口走ったこともあった。


 やがてワクチンの普及と摂取が常態化し、マスクを着ける人が少数派となり、パンデミックは収束に向かった。俺の家族や親戚は一度も感染せず、婆ちゃんもまだまだ元気なままだ。


 とある春の日、俺はコンビニでロックバンドのライブのポスターを見かけた。ここ数年は聴かなくなってしまったが、昔好きだったバンド。千沙と朱莉と一緒に年越しした日に音楽番組で見たのがきっかけで聴くようになった。


 ただライブを開催するだけであれば気にしなかっただろうけど、その会場は奇しくも福岡にあるドームであった。開催されるのは七月の初旬。


 千沙が離婚し、俺のアパートが放火されたあの年からちょうど十年が経っていた。俺は三十二歳になった。俺と同居していた頃の千沙と同じ歳だ。だから十年後の福岡という場所に対してどうしても因縁のようなものを感じざるを得なかった。


 俺は思った。このライブに行けば、福岡で久しぶりに千沙と朱莉に会えるかもしれないと。


 わざわざライブに行かなくても、福岡にはいつでも行ける。だが、ただ二人に会うために俺が埼玉から出向くのも重いし、気恥ずかしい。ライブのついでという口実があれば気負わずに会うことができる。実にせこい。けど、情けないことにこれが今の俺にできる精一杯であった。


 その日のうちにチケットの抽選を申し込み、後日、ファンの人たちには悪いが良い席が当選してしまった。こうして俺は数年ぶりに飛行機に乗り、福岡まで足を運ぶことになった。



 ライブが終了し会場から出ると、体が夏の蒸し暑い空気に包まれた。周囲の観客たちが興奮した様子で感想を語りながら、各々の帰り道を歩いて行く。俺は人だかりの中で呆然と立ち尽くした。出演していたのはベテランのロックバンドで、ライブの内容はきっと素晴らしいものであったのだろう。でも、申し訳ないが俺にとっては彼らの演奏より、自分が今福岡にいるという事実の方が心の中を支配してしまっていた。


 これからどうしようかと考える。俺が福岡に来るということは、実は千沙や朱莉に話していない。俺が本当にあの二人に会いたいのかどうかというのも、自分でよく分かっていなかったから。都合が悪くて会えないと言われたら別にそれでいいとも思っていた。


 いや、それも自分に嘘をついているだけなのかもしれない。本当は怖いのだろう。会いたいと思っているのが自分だけで、二人はそう思っていないという可能性が。


 子供の頃、千沙と一緒に婆ちゃんの家に泊まったという思い出についてはもう思い出さなくなった。しかし、今度は千沙と朱莉と一緒に暮らした日々が俺の心にずっとこびりつくことになってしまった。新たな優しい呪いのように。


 でも十年前にたった二ヶ月半、一緒に暮らしたことをいつまでも大切に想っているのは俺の方だけで、二人はもうそんなこと大して覚えていないのかもしれない。それを事実として突きつけられるのが怖い。第一、俺たちは家族でも友達でも恋人でもないのだ。ただの親戚だ。別に俺が一緒に暮らさなくても、俺が何もしなくても、朱莉は自然に千沙のことをお母さんと呼び、仲直りしていたかもしれないじゃないか。


 俺はドーム前の広場の人が少ない隅の方へ移動し、スマホを取り出した。午後八時過ぎ。十年前、火事に遭って千沙に電話をかけたのもこれくらいの時間だったと思う。


 福岡、火柱、午後八時の人だかり。

 俺は十年前との奇妙な一致を感じ取った。

 次の瞬間、千沙の電話番号にコールしていた。


 パンデミックのせいで何年も会えなかったが、やっぱり俺は千沙と朱莉に会いたい。たとえ二人が俺と同じように想っていなくても。


 千沙を呼び出す音が聞こえる。この電話番号は使われているようだ。俺の鼓動もコールと同じくらいの音で高鳴った。


 そしてコールが途切れ、声が聞こえた。


「もしもし」


 紛れもなく、千沙の声だ。


「もしもし」


「貞治? 久しぶり!」


「お、おう。久しぶり」


「どうしたの? 元気だった?」


「ああ。実は今福岡に来てるんだ。明日帰るけど」


「えっ、そうなの?」


「折角だから久しぶりに会わないか?」


「それなら、前もって言ってくれれば良かったのにー」


「悪い、無理なら別にいいんだ。今度の正月はもう東京に来れるんだろ?」


「うん。それはそうなんだけど、今夜はダメだから……明日は何時の飛行機で帰るの?」


「午後二時ちょうど」


「そっか。朱莉は大学に用事があるみたいだけど、私は午前中大丈夫だよ」


 朱莉とは会えないのか。まあ、こちらが急に言い出したことだから仕方がない。千沙に会えるだけでも充分だ。


「分かった。千沙の家に行けばいいか?」


「……そしたら、あの雪だるまを作った公園に来て」


「雪だるま?」


「昔公園で、私と朱莉と貞治の三人で雪だるま作ったでしょ」


 千沙がそう言った瞬間、頭の中で十年前の記憶が火花のように弾け、甦った。俺たち三人は公園で雪だるまを作った。千沙が下の玉、俺が真ん中、朱莉が上の玉を作り、三段重ねにした。クリスマスイヴの夜にはそこで花火をした。様々な色の花火で雪だるまを照らし、俺たちだけのイルミネーションを朱莉に見せてあげた。


「お前、覚えていたのか」


「え? さすがに忘れはしないでしょ」


 千沙は何でもないことのように言ってのけた。

 ああ、確かにこんな感じだった。俺と千沙の会話。こんなやり取りでさえもなんだか懐かしく思える。


「オッケー。じゃあ、午前十一時にその公園でいいか?」


「うん。じゃあそれで」


「雪だるまがあった場所で待ち合わせだな」


 話がまとまったので、俺は通話を終わらせる言葉を伝えようとした。が、その前に千沙が言った。


「貞治」


「なんだ?」


「一応、先に言っておきたいことがあるんだけど……」


「ああ、どうした?」


「私、再婚することになった」

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