明日から
翌朝、俺は誰かに体を揺さぶられて目が覚めた。
「貞治君、早く起きて」
徐々に外界とピントが合わさっていく意識の中で、朱莉に起こされているということは理解できた。
「あ、起きた」
瞼を開くと、視界のスクリーンに朱莉と部屋の天井が映し出された。
「おはよう……今何時?」
「もう九時だよ。今日は色々やることがあるんでしょ」
また俺だけ寝坊したのか、最後の日まで締まらないなぁ、と思いながら頭を横に向ける。すると、心臓が一気に叩き起こされた。
千沙が昨夜と全く同じ態勢でまだ眠っていた。布団もくっ付いたままで、こちら側に顔に向けて気持ち良さそうに寝ている。いつもは先に起きて朝食の準備をしているというのに。何もやましいことはしていないのに、朱莉に見られたらまずいもの見られたような気がする。
「おい、千沙起きろ」
千沙の頬を軽くつねった。すると、千沙はすぐに起きた。
「貞治? おはよぉ」
「起きろ、もう九時だぞ」
千沙は一瞬固まったあと、とろんとしていた目を見開いた。
「えっ、九時!?」
勢い良く上半身を起こし、こちらに顔を向ける。
「朱莉っ!?」
再び驚きの声を上げた。
「お母さん、おはよう……」
「お、おはよう。あはは……」
密室で布団をくっ付けて寝ていた俺と千沙。それを起こしに来てしまった千沙の娘。三人の間に、妙に気まずい空気が流れた。
すると、朱莉は俺たちから目を逸らして言った。
「もう、あんなにくっ付いて寝ることないのに。ホント仲いいんだから……」
呆れた顔をしている。そう言われた千沙の方は青ざめていた。
「朱莉、これは違うの。あくまで弟として可愛いがってるっていうか」
「はいはい。貞治君、お母さん着替えるから行くよ」
「朱莉ー」
朱莉は俺の腕を引っ張りながら部屋の外に出て、引き違い戸の扉を閉めてしまった。
俺は額に冷や汗を流し、朱莉に言った。
「ははは……。あまりお母ちゃんをいじめてやるなよ」
「ふふっ」
朱莉は俺の顔を見上げ、悪戯っぽく笑った。
十一時頃、俺は身支度を終えた。この家にいる間に買った服や私物も全部持っていかなければならず、はち切れそうなほど膨らんだ紙袋で両手が塞がった。
約二ヶ月暮らした家の風景を最後にもう一度見回してみる。キッチン、テレビ、濃いグレーの布製ソファー、壁掛け時計――。そして薄いグレーのカーペットの上にあるコタツは、布団が外されて普通のローテーブルになっていた。この冬の間俺たちの体を温めてくれたブラウンの布団は、もう春だからと、昨日仕舞われてしまった。
それからふと思い出した。俺がこの家にやって来たとき、朱莉はあのコタツの中から現れたんだった。確かスマホを失くしたとか言って。思い返すだけで笑ってしまいそうになる。
それだけじゃない。毎日食卓を囲ったり、テレビを見たり、年越しをした瞬間も三人でコタツに入っていた。あのコタツの中には沢山の思い出が詰まっていたんだ。
リビングの中を一通り眺め終えると、千沙と朱莉に向かって言った。
「じゃあ、俺そろそろ行くわ」
「あっ、うん」
千沙が俺のもとに来て、朱莉もそれに続いた。
玄関で靴を履き、荷物を両手に持ち直す。目の前には、見送ってくれる人たちが立っている。
俺がこの家にやって来たときは、えんじ色のどてらを着た千沙が一人で出迎えてくれた。
でも今は一人じゃない。千沙の隣には朱莉がいるから。
ちょっと古臭いどてらも着ていない。もう冬は終わったから。
俺は二人に向かって言った。
「それじゃあ、世話になったな」
「貞治君、元気でね」
「朱莉も、中学に上がっても楽しくやっていけよ」
「うん。またいつでも来てね」
「もちろん」
続いて、千沙も声をかけてくれた。
「貞治、話したいことは昨日全部話したから、あとは体に気を付けてね」
「ああ、お前も元気でな」
「うん、忘れ物はない?」
「大丈夫だよ」
お前はお母さんか、と思ったが、実際にお母さんだった。俺のお母さんではないが。
「じゃあ、い……」
そう言いかけたところで、俺は言葉を詰まらせた。危うく、いつものように「いってきます」と言ってしまいそうになったのだ。もうこの家には帰らないというのに。
思わず千沙の顔を見てしまう。千沙は不思議そうな目をして首を傾げている。
俺は気を取り直し、簡潔に言った。
「じゃあ、またな」
「うん、じゃあね」
千沙は頷き、淡く微笑んだ。
朱莉は何も言わず、さようならの代わりに軽く手を上げた。
外に出て、玄関の扉をゆっくり閉めようとする。扉と壁の隙間が段々と狭まっていく。千沙と小さく手を降る朱莉が、両端から見えなくなっていく。名残惜しいが、それでも手を止めるわけにはいかない。
そして扉は閉ざされた。二人の姿は完全に見えなくなり、ガチャリ、という音が妙に際立って聞こえた。
その瞬間、俺は妙な感覚に襲われた。まるで、朝目が覚めて直前まで見ていた夢の記憶が一気に霧散したときのような。音楽が鳴りやんだような。舞台の幕が下ろされたような。三人で過ごした日々が物語のように非現実的に感じられ、自分を見失ってしまいそうになった。
意味もなくアルミ製の扉の表面に目をやる。この扉の向こうで、千沙と朱莉が二人きりの暮らしを再び歩み始めようとしている。そこに俺はいないし、傍で見守ることももうできない。
少しの間立ち尽くしていたが、冷たい風に吹かれて我に返った。
「さむっ……」
思わず声を漏らしてしまい、いい加減に千沙の家から離れることにした。
渡り廊下を歩き、階段を下りる。三月も始まったばかりで、外はまだ暖かいとは言えない。
アパートの出口に着いたところで、後ろを振り返った。
「じゃあな」
慣れ親しんでいた白い二階建てのアパートに向かって、もう一度お別れの言葉を贈った。
それからようやく、後ろ髪を引かれながら敷地を出た。
駅を目指して街の中を歩く。何の変哲もない、住宅とアスファルトの道路で出来た普通の街だ。もうアパートを焼き尽くす炎も、街を白く染める雪も存在しない。
いつもの風景でなかった場所がやがていつもの風景となり、再びいつもの風景ではなくなる。明日から毎日この道を歩くこともなくなる。終わりの風景だ。
そう。
明日から、朱莉が俺を起こしてくれることもない。
明日から、千沙の料理を食べることもできない。
明日から、家に帰っても誰もいない。朝も昼も夜も。
明日から、手分けして掃除や洗い物をすることもない。
明日からは「おはよう」も「いってきます」も「いってらっしゃい」も「ただいま」も「おかえりなさい」も「いただきます」も「ごちそうさま」も「おやすみなさい」も、何も何も何もない。
疑う余地もなく、ただ純粋に、孤独だなと思った。
公園の前を通りかかる。最後だからと思い、その中へと足を踏み入れる。
公園の隅の、三人で花火をした場所まで行った。あの日、ここには雪だるまがあった。俺と千沙と朱莉の三人で雪玉を一つずつ作った、三段重ねの白い雪だるまが。だが今はもう跡形もない。灰色の砂の地面の上に、空白が浮かんでいるだけだ。
クリスマスイヴの夜に三人で照らした温かい光は、もう過ぎ去ってしまった。思い出は時が経つにつれて俺たちの記憶から薄れていき、それこそ花火のように消えてしまうのかもしれない。そのとき俺たちは、どこで何をしている? 何を想っている? 誰と一緒にいて、どんな生き方をしている?
そう思うと、自分が取り返しのつかない失敗をしてしまったような気がしてきた。あの家で暮らし続けることが本当は正解だったのかもしれない。
俺は本当に大人になれたのだろうか。
でも俺は泣くようなことはなかった。安っぽい涙を流したりはしない。俺の感傷に涙を流す価値などない。
今日は新しい自宅の鍵を受け取り、配送されてくる家具を何もない部屋に並べなければならない。どう足掻いたって、俺は俺のやるべきことを一つずつこなしていくしかない。
俺は踵を返し、公園の出口に向かって歩き出した。
明日からも、生きるということは続いていく。
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