優しい呪いがとけるとき
六日後の三月二日、千沙の家で過ごす最後の夜が訪れた。
夕飯は千沙がハンバーグを作ってくれた。この前ファミレスでハンバーグを注文したからハンバーグが好きなのかと思われたのだろうか。正直に言ってしまえばハンバーグが好物というわけではない。ただ、俺の中ではファミレスといえばハンバーグという図式があるから注文しただけだ。
まあそれはそれとして、同じ料理でも親しい人に作ってもらった方が美味しくなるというものだ。俺は、自分では絶対に作らないであろう最後の晩餐にありがたく舌鼓を打った。
腹が膨れたあとは一番風呂に入れてもらえた。一人暮らしに戻ったら湯船に浸かることはなくなりそうなので、熱い癒しの湯をじっくりと堪能した。最後だから背中を流してくれるというようなイベントは残念ながら起こらなかった。
朱莉がおやすみと言ってリビングから出て行くと、千沙は自分の部屋で布団を敷いた。いつもは二組の布団を三十センチほど離して敷くのに、今日はぴったりとくっつけている。
「なんで布団をくっつけてるんだ?」
「今日は最後だから……」
「最後だから?」
「夜通しお喋りしようと思って」
「修学旅行かよ」
千沙は布団の中に入り、枕元に置いていたスマホを手に取った。
「電気消していいよ」
千沙はスマホを見ながら言った。俺は照明のスイッチを押した。室内が暗くなり、千沙のスマホの画面だけが白く光っている。俺は自分の布団に入り、千沙がいる方へ体を向けた。
「貞治と一緒に寝るのもこれで最後かぁ」
「そうだな」
千沙はスマホを枕元に置いた。画面は消えることなく光り続けている。それから、横になったまま体をこちらに向けた。千沙の顔がいつもより近くにあり、俺の顔をじっと見ている。
「色々あったねぇ」
「まあ、色々あったかもな」
「貞治が生まれた頃は……」
「おい待て」
「何?」
「そこから振り返るのかよ。どんだけ昔の話だよ」
「別にいいじゃない」
スマホの光に照らされている千沙の顔が微かに緩む。
「そんな調子で話してたらマジで朝までかかるかもしれないぞ」
「しょうがないなぁ。じゃあ私たちが二人でお婆ちゃんちに泊まったとき……」
俺が七歳、千沙が十七歳の頃だ。とりあえず時間を七年進めることができた。
「最後の日に貞治、帰りたくないって大騒ぎして大変だったよね」
「えっ? そうだったっけ?」
帰りたくないと思った記憶はあるが、それをどういう風に伝えたのかまではよく覚えていない。
「そうだよ」
「もう忘れた」
「今も帰りたくないって、ずっと泊りたいって思ってるんじゃないの?」
「そうだったとしても、わがままを言って他人を困らせたりはしない。俺はもう、大人なんだから」
「大人かぁ……」
千沙は俺から目を逸らし、仰向けになった。数秒ほど天井を眺め、呟くように言った。
「ねぇ」
「ん?」
「人はいつから大人になるんだろう? 二十歳になったら? 就職したら? 結婚したら? 子供を作ったら? 私にとっては、貞治はいつまでも貞治のままなのに」
実は俺にもよく分からない。自分でも大人になったという実感が湧かない。まだ子供の頃の延長線上にいて、何も変わっていないような気もする。
答えは出ないので、代わりとなる仮説を提示した。
「……家にクリスマスツリーを飾ってもらえなくなったら、もう大人なんだよ」
「なにそれ」
千沙はまたこちらを向いて微笑んだ。
「貞治、バレンタインの日に話したときも大人になったとか言ってたよね。本当は何かあったんじゃないの?」
「そうだな、あったかもな」
「聞いてもいい?」
少し迷ったが、正直に話すことにした。
「……浩司さんと会った」
「えっ?」
千沙は驚いていた。
「保険の写真を撮りに前のアパートに行ったとき、偶然会った。で、ちょっと話した」
あいつはあまりにも突然に俺のもとへやって来た。季節の分かれ目に現れる邪悪なもののように。
「そうだったんだ……」
千沙の表情が曇る。
「話の内容聞きたいか?」
「私が聞いておくべきことがあるなら」
どうだろうか。浩司が言っていたのは、千沙に悲しい記憶を呼び起こさせるような話だけだ。それに、あれは俺と浩司の間だけに交わされるべき個人的な会話だったとも思える。その中身が千沙と朱莉に関することであったとしても。
俺は間を置いて考えたあと、静かな声で返事をした。
「千沙が知っておくべき内容は、含まれていない」
千沙に必要な話は、朱莉の口から語られるべきだ。
「じゃあ、その言葉信じるよ」
「もう吹っ切れてるんだな」
「貞治がうちから出て行くって急に言い出したきっかけが分かったから、それで充分」
浩司と会ったあの日、俺は帰宅したあと千沙に事実婚をしてもいいと告げた。が、千沙はそのことには触れなかった。単純に忘れたのか、敢えて触れないでいるのか。いずれにせよ助かったと思った。
「ねぇ、もっと楽しい話がしたい」
「そうだな――」
俺と千沙は、俺がこの家に来てから起こった出来事を一つずつ振り返った。
三人で雪だるまを作ったこと。
千沙が朱莉のために、夏にできなかった花火をクリスマスイヴにやったこと。
朱莉が千沙のために縁結びのお守りを買ってきてくれたこと。
バレンタインに三人でチョコを贈り合い、一緒に食べたこと。
「あのときは私、失敗したなー」
千沙は困り笑顔を浮かべて言った。
「何がだ?」
「バレンタインのとき、折角朱莉がチョコ作ってくれたのに、私は貞治の分しか用意してなくて」
「ああ、そうだったな」
「私、朱莉のためにもっと色々してあげなくちゃ」
その考えには一つ思うところがある。
俺はちょっとだけ黙って考えてから、再び口を開いた。
「それもいい心掛けなんだけどさ、お前、朱莉のチョコに何て書いてあったか覚えてるか?」
「もちろん。『お母さん、いつもありがとう』でしょ」
「ああ。千沙が一番頑張ってきたことって、その『いつも』の部分なんじゃないかな」
「いつもって?」
「毎日飯作ったり、洗濯したり、仕事も頑張ったり。朱莉が一番感謝して嬉しく思っているのはそのことだと思うよ」
「でも、そんなの当たり前のことだし、どこの家でもやってるし……」
「それでも、俺は凄いと思う」
千沙はハッと息を吞んだような表情になった。が、すぐにいつもの穏やかな顔に戻った。
「ありがとう」
小さな贈りものを手渡すように、一言だけ言葉を返した。
そのあとも俺たちは色々なことを話した。いくら話しても話題は尽きなかった。
朝方近くになったところで、千沙がようやく眠りに落ちた。千沙の寝顔をしばらく眺めていると、点けっぱなしにされていた千沙のスマホの画面が消えた。充電が切れたのだろう。
薄暗い部屋の中、千沙の寝息が微かに聞こえる。その小さな声は、俺が小学生の頃に一緒に婆ちゃんちに泊まったときのことを想起させる。
しかし、「ずっと一緒に泊まれたらいいね」と囁いたときの千沙の顔と声が上手く思い出せなくなっていた。あのときのイメージだけはずっと思い出の壁にこびりついていたというのに。俺の記憶の中に泊まり続けていた高校生の千沙はいなくなっていた。優しい呪いは、もう解けたのだ。
自覚すると急激な眠気に襲われた。
俺は瞼を閉じ、やがて意識がなくなった。
夢は見なかった。今の俺には見なければならない夢などない。
こんな風にして、俺たちの最後の日の夜明けが訪れようとしていた。
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