10年前と同じ公園で
「え――」
俺は息を吞んだ。十年前のように大声で驚くようなことはなかったが、頭が真っ白になった。
「……マジで?」
「マジで」
おそらく俺はここで「おめでとう」と言うべきなのだろう。だがしかし、俺の喉から祝福の言葉は発せられず、黙り込んでしまった。
すると千沙が慌てた様子で言った。
「ビックリさせちゃってごめん。明日詳しく話すね」
「お、おお。いや、ごめん」
俺は何に対して謝っているのだろうか。よく分からないがごめんと言ってしまった。
「それじゃあ、また明日ね。おやすみー」
「ああ。じゃあ、また明日」
千沙はそれ以上返事をせず、通話が終了した。俺は力なくスマホをポケットに仕舞い、再び呆然とすることになった。
今の気持ちには既視感がある。二十年以上前、千沙が結婚すると聞かされたときだ。
あろうことか、俺はいい大人になっても、性懲りもなく、またもや寂しさという感情を覚えてしまったのだ。
翌日は午前十時ちょうどにホテルをチェックアウトした。天神にあるリーズナブルなビジネスホテルだ。高収入ではないのでいいホテルには泊まれないが、雨風が凌げればどこでもいいと思っているから別に問題はない。
千沙との待ち合わせ場所にまっすぐに向かうと早めに着いてしまうので、駅の周辺を気ままに歩き回ってみた。今日も気温は高く、空は嫌になるほど青い。
天神に来たのも約十年ぶりのことになる。コンビニ、牛丼チェーン店、アパレルショップ、百貨店、家電量販店、その目の前にある小さな公園――。入れ替わっている店舗も当然あるだろうが、街の景色は十年前と概ね変わらないように見えた。
適当な時間になると地下鉄に乗り、千沙の家の最寄り駅まで行った。駅前にラーメン屋があったはずだが、居酒屋に改装されていた。それ以外に十年前との違いを見つけることはできなかった。俺の記憶もあやふやになっているのかもしれない。
あの頃をぼんやりと思い出しつつ、大通りから住宅街へ続く道に入っていく。街全体が静かなせいで、脈打つ心臓の音を余計に意識していた。シャツがじんわりと汗ばむ。
約束の公園には数分ほど歩いただけで着いてしまった。
俺は意を決して歩を進める。
すると、奥のベンチに一人の女性が座っていた。
千沙だ。照りつける日差しの下、数年ぶりに見る千沙の姿があった。白い半袖のトップスに青いロングスカート。髪はブラウンで、ウエーブのかかったロングヘアーになっている。傍らにはキャンバストートバッグ。相変わらず実年齢より若く見えるが、それだけじゃなく、歳を重ねたが故の美しさを身に纏っているようにも思えた。俺はその姿を目にして感慨深くなった。
千沙、俺は会いに来たよ。わざわざライブのチケットなんか買って、飛行機に乗って、カッコ悪くてもお前に会いに来たよ。あの雪だるまがあった場所まで。
ゆっくり近づいていくと、千沙もこちらに気が付いた。
「貞治!」
俺のことを見上げ、顔をぱあっと輝かせる。
「久しぶり」
「久しぶり!」
俺は千沙の隣に腰掛けた。
「最後に会ったのはいつだったっけ?」
「えーと、朱莉が大学上がる前だから……三年くらい前かなぁ」
「そっか。まさか世の中があんなことになるなんて思わなかったもんな」
「大変だったよね。ホント落ち着いて良かった」
俺も千沙もマスクは着けていない。マスクを着けずに往来を堂々と歩けるようになったのも今年になってからだ。
「朱莉は元気か?」
「うん。就職先は不動産会社に決まったよ」
「へぇー」
「家を提供する仕事がしたいんだって」
それを聞いて、俺はすぐ朱莉の真意に思い当たった。
彼女が提供したいのは、家であり、家庭というものなのだろう。
「その気持ちは、俺にも分かる気がするよ」
「うん、私も」
千沙もにんまりとしていた。
「それにしても、あの朱莉がもう就職かぁ」
「あっという間って感じだよね」
それから俺たちはしばらくの間、他愛のない話に花を咲かせた。
しかし、気が気でないせいか、ただの世間話にもどこか空々しさを覚えた。
すると千沙も同じように感じたらしく、口火を切った。
「昨日も言ったけど、私再婚するんだ」
その言葉を聞いた瞬間、言い知れぬ感情が沸き起こった。再婚の話をどう訊こうかと考えていたが、出し抜けに千沙の方から言われてしまった。
「相手は……どんな人なんだ?」
「銀行に勤めている人で、明るくて面白くて、いつも笑顔にさせてくれる……そんな人」
「ふ、ふぅん」
「実は……私からプロポーズした。三日前くらいに」
そんな最近の話だとは思っていなかった。まるで神の悪戯だ。
「お前がプロポーズ?」
「うん。私も何かを変えたくなったから」
驚いた。千沙は、重要な決断を自分でせずに他人の意思に委ねる、そういう奴だと思っていたから。他人の望みに寄り添いながら生きているのだと思っていた。かつての俺のように。
千沙は青空を見上げながら、唐突に言った。
「私、前の旦那と結婚して良かったよ」
「え……」
「朱莉を産んで良かった。不倫されて良かった。離婚して良かった。それから……」
こちらを向き、俺の目を見た。
「貞治が、うちに来て良かった」
「なんで……?」
「貞治がしてくれたこと、貞治の生き方や考え方は正直かなり影響受けたんだ」
俺はそんなに立派な人間だっただろうか。
俺のしてきたことなんて、本当はあってもなくてもどっちでもいいような日常の一部だったのではないだろうか。
「だからこれまでのこと、どれか一つでも欠けてたら、私は自分の手で『今』を掴み取ることはできなかったと思う。全部起こって良かった。今はそう思えるんだ」
ふいに夏の風が千沙の前髪を揺らした。
二つの瞳は、未来に向かって煌めいてるようだ。
俺はこいつらと一緒に暮らせて良かったと思ってはいけないと考えていた。それは千沙が不倫されて離婚して良かったと思うのと同じことだから。でも不倫も離婚もあって良かったと、千沙自身の口から言ってもらえた。それは救いの言葉のように聞こえ、胸がじんわりと温かくなった。
凄いのは、千沙の方なんだ。
ずっと俺に影響を与え続けていたのは、お前の方なんだ。
嚙み締めていると、千沙がトートバッグから何かを取り出した。
「ねぇ、見てこれ」
それは卵型の携帯ストラップのようなものだった。どこかで見た覚えがある。
「まさか、縁結びの……?」
「そう、よく分かったね。朱莉が買って来てくれたやつ」
「うわ、懐かしい」
「これのおかげで再婚できたのかな」
朱莉と一緒に白夢神社に行ったとき、確か縁結びの由来をネットで調べたはずだ。朧気な記憶から、覚えている部分だけを掘り起こしてみる。
「伝承だと、戦で生き別れた二人が不思議な卵の力で再会できたとか、そんな話だった気がする」
話しながら、気が付いた。
俺はお守りや宗教の類は一切信じていない。が、パンデミックで会えなくなった俺たちがお互いウイルスにやられることなく無事に再会できたのも、もしかしたらこの卵のおかげなのではないか、と。
「へぇー。でもやっぱりご利益はあるんだね」
千沙にとっては、縁結びの相手は俺じゃない。再婚相手だ。
だが俺はかつての自分を意識して、明るい調子で言った。
「ま、今度は他の女に取られるなよ」
「ははは、絶対逃がさないようにするよ」
ああ。お前はやっと、そう思える相手と出会えることができたんだな。
俺は力なく笑った。千沙はちょっと困ったような笑みを浮かべた。
「貞治、私が最初に結婚したときも、そんな寂しそうな顔してた」
子供を安心させるかのような優しい眼差しで俺のことを見つめる。
そして、その言葉を口にした。
「心配しなくても、私は貞治が好きだよ」
小さく息を吞んだ。
長い間、千沙に対する感情の正体が自分でもよく分かっていなかった。でも人が人を好きだと思うのって、もっと純粋でシンプルなことなんじゃないのか? だがあの頃の俺たちは特殊な状況下で、不安定で危うい関係だったから、その意味を履き違えてしまいそうだった。恋ではないが、恋と同じくらいに好きだった。
俺たちはもう本当の意味で大人になった。だから俺は両手を組んで地面を見つめながら、静かな声で自分に言い聞かせるように言った。
「俺もお前が好きだと思う」
隣を向くと、千沙は目を見開いていた。口は半開きだ。
「あはは……。今のは軽く流してほしかったんだけどなぁ」
千沙はそう言って、照れくさそうに頬を掻いた。
「ま、アラフォーのおばさんに好きって言われても嬉しくねえけどな」
俺は不敵な笑みを見せてやった。
「そうそう、そんな感じ」
「千沙、再婚おめでとう」
やっと言えた。
千沙はまたもや小さな驚きの表情を浮かべた。
そんな彼女に、俺は右手を差し出した。
「ありがとう」
千沙は嬉しそうに、俺の手を軽く握り返した。右手だから指輪は付けられていない。何かを介することなく、手と手が直に触れ合った。
その繋がりを放すと、スマホを取り出して時刻を確認した。
「俺、そろそろ行くよ」
「あっ、そうだ」
「どうした?」
「朱莉、午後なら空港に見送りに来れるって」
「見送り?」
「来てもいい?」
「もちろん、俺は構わないけど」
空港まで来てくれるとは予想外だ。
待ち合わせ場所と時間を考え、千沙に伝える。
「分かった、朱莉に言っとく」
俺は頷き、どちらからともなく立ち上がった。
そして二人で肩を並べ、出入口まで一緒に歩いた。こういうのも随分と久しぶりだ。
公園から出たところで千沙が言った。
「じゃあ、私こっちだから」
「おお、それじゃあ元気でな」
「貞治も元気でね」
俺たちは向き合ったまま、公園の出入口で留まってしまった。もっと話したいこともあるけれど、いい加減に立ち去らなければならないと思った。
「あ、そうだ」
突然、千沙が思い出したように声を上げた。
「今度はなんだ?」
「貞治は結婚する予定ないの?」
「んなもんねーよ」
「朱莉は今彼氏いないらしいよ」
「……いらん情報、どうもありがとさん」
いつまでも経っても俺をからかいたくて仕方がないようだ。
ため息混じりに礼を言うと、千沙はケラケラと笑い、手を振った。
「じゃあ、またね」
「またな」
最後に、いつもの親しげな笑顔を見せてくれた。
そして俺たちは互いに背を向け、正反対の方向に向かって歩き出した。
俺は一度も振り返ることなく、駅へと続く道を進み続けた。
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