手を繋いだら

 翌日から俺は新しい家を借りるために動き始めた。いくつかの候補の中から一つに絞り、物件紹介サイトの問い合わせフォームから見学を依頼した。職場から近すぎず遠すぎない場所にある1Kのアパートだ。遠すぎると通勤に不便だし、近すぎるとオン・オフの切り替えが上手くできず、会社の人間が飲み会のあとや終電を逃したときに来る可能性すらある。何事もほどほどな塩梅にしておくのが一番なのだ。


 その日のうちに担当者からメールが来て、週末に見学をさせてもらうことになった。俺が決めた物件に条件が近いところも見繕ってもらえた。


 アパートの見学に行く日、身支度を済ませると朱莉が俺のもとに来て言った。


「面白そうだから私もついて行っていい?」


「話がめちゃくちゃややこしくなるからやめろ」


「冗談だってば。いってらっしゃい」


 朱莉は無邪気に微笑んだ。

 俺はあと何回聞けるかも分からない朱莉のいってらっしゃいを胸に刻み、駅まで向かった。


 それから地下鉄で移動し、福岡市内のとある駅で降りる。

 駅のすぐ目の前にある不動産屋に入ると、メールでやり取りをしていた担当者が応対してくれた。二十代後半くらいの女性で、茶髪のロングヘアー、不動産屋よりはキャバクラにいそうなくっきりとした顔立ちの人だ。

 テーブルの席で二三必要な話をしたあと、さっそく物件の見学に繰り出した。


 彼女は車を運転しながら、後部座席にいる俺に話しかけた。


「新井さんは福岡の方なんですか?」


「いえ、出身は埼玉ですよ。二年くらい前に就職してからはずっとこっちで暮らしてます」


「ああ、やっぱりそうだったんですね」


「分かるもんなんですか?」


「ええ、なんとなく雰囲気で。でもどうしてまた福岡で就職されたんですか?」


 俺は別に福岡が好きで来たわけじゃないし、今でも特別に好きではない。数年経っても出掛けるのは博多や天神のような都市部だけで、観光地には行ったことがない。思い出は色々とできたが、それはこの街や土地柄が好きかどうかとはまた別の話だ。


 ただ俺は求めていた。自分の人生がまるっきり変わってしまうような出来事を。

 例えばそれは、生まれ故郷から離れて遠い地方で就職することであった。

 例えばそれは、俺といとこと彼女の娘の三人でずっと一緒に暮らすことであった。


 だがそんな話を不動産屋の人にするつもりはない。


「自分の好きなジュースの本社が福岡にあったから、そこに就職した……。ただそれだけですよ」


「へぇ! そこまでするなんてよっぽどお好きなんですね!」


 自分のこれまでの生き方や想いを下らない理由に置き換えてしまうのは、なんだか虚しい。しかし、彼女との会話を繋ぐにはこのくらいが丁度良かった。


 数分車を走らせたところで目的のアパートに到着した。

 空っぽの部屋の中をざっと見て、ここにしようとすぐに決めた。1Kの部屋なんてチェックするべきポイントなどほとんどない。駅から自転車で数分の距離だし、日当たりはいいし、エアコンやモニター付きインターフォン、クローゼットだってちゃんとある。独立洗面台ではなく浴室の中に洗面台があるのが玉に瑕だが、致命的な問題ではない。


 他にもいくつかの物件を見学させてもらったが、どれも似たり寄ったりであった。不動産屋に戻ったあと、最初に見た物件に決めたことを伝えた。新生活に必要な準備もまだ終わっていないので、入居審査を通過したら今から二週間後の三月三日に契約手続きをして入居することにした。


 翌日の夕方、保証会社の審査を無事通過したというメールが届いた。そのタイミングで母さんにも新しい家に住むことを報告した。母さんは心底ホッとしたような声で頷いていた。



 次の土曜日、俺は必要な家具と家電を買いに行くことにした。生活に必要最低限の服や私物は千沙の部屋に置かせてもらっているが、家具と家電はまた新しく買い直さなければならない。二ヶ月泊めてもらったから金銭的にも少し余裕が生まれてきたところだ。休日の昼下がり、俺たちは天神駅の近くにある百貨店まで足を運んだ。


「別についてこなくても良かったのに」


 家具売り場に入ったところで、隣を歩く千沙に言った。


「いいじゃん。面白そうだし」


 親子で全く同じことを言う。血は争えないなと思っていると、背後から朱莉の声が聞こえた。


「お母さん、私机とか見てきてもいい?」


「いいけど、うちは買わないからね」


「見るだけー」


 そう言い残し、一人で机の売っている場所に向かって行ってしまった。


「貞治の家具は私が選んであげるから」


「なんでお前が選ぶんだよ。俺が使うんだから俺が選ぶっつうの」


「いいからいいから」


 家具を買うと言っても、すぐに必要なものは二つしかない。テーブルとベッドだ。千沙の家では布団で寝ていたが実はベッド派だし、ベッドの下に収納があるタイプを選べば衣類などを仕舞うこともできる。

 とりあえずメインディッシュは後回しにして、先にテーブルを選ぶことにした。


「貞治、これなんかいいんじゃない?」


 千沙は隅っこにある妙なテーブルを指差した。二匹の木製の象の背中にガラスの天板が載せられているというデザインのものだ。


「お前が真面目に選ぶ気はないということだけは伝わったよ」


 このテーブルは即却下し、無難な黒いローテーブルを選んだ。会計はベッドとまとめてするので、商品の置いてある位置だけ記憶しておいた。


 それからベッド売り場に行き、多種多様なベッドを眺めた。どれにしようか迷っていると、どこからともなく店員が現れ話しかけてきた。おそらく四十代くらいで、眼鏡を掛けた小太りの女性だ。


「ご夫婦で使うベッドをお探しでしょうか?」


 ある意味では期待通りの誤解だ。だから千沙と朱莉は連れて行きたくなかったのだ。

 訂正しようとしたら、俺より先に千沙がにこやかに答えた。


「はい、そうです」


「お二人はスリムでいらっしゃるので、ダブルベッドなどはいかがでしょうか? 今ならセール中の商品もございますよ」


 思わぬ提案をされた千沙が俺の顔を見上げた。


「だってさ。どうする? 思い切ってダブルにしちゃう?」


「どこからツッコんだらいいのか分からんが、仮に夫婦だったとしても俺は絶対にダブルなんかにしないぞ」


「えー、どうしてさ」


 バツイチのお前がそれを言うかと言いたくなったがなんとか飲み込み、店員に向き直った。


「すみません、今日はシングルのベッド買いに来たんでシングルでお願いします」


 俺は腰を低くして言った。こちらが意味不明な会話をしていたのにもかかわらず、店員は笑顔を崩さずに対応してくれた。馬鹿なカップルの相手をするのにも慣れているのかもしれない。いつの間にか朱莉も戻って来ていて、店員の後ろでクスクスと笑っていた。


 木製のベッドフレームにグレーのマットレスというオーソドックスなベッドを選び、先ほど見たテーブルと一緒に会計をした。合わせて四万円くらいだったが、現金はそんなに持っていないのでクレジットカードで支払う。来週に新しいアパートに配送されるように手配もした。


 家具売り場から出るとき、千沙に向かって言った。


「いい歳して、ああいうの恥ずかしいからホントやめてほしいんですけど」


「ごめんごめん。でもいいじゃん。こんな風にバカやるのも、もう最後なんだから」


「えっ」


 千沙は淡い笑みを浮かべている。顔は笑っているのに、俺にはなぜか切ない表情に見えてしまい、言葉を詰まらせた。


 そのあとは家電売り場に行った。買おうと思っているのは洗濯機、電子レンジ、冷蔵庫だ。できればテレビも欲しいけど、テレビ台も必要になるし、出費がかさむから次の機会に取っておく。一人暮らしを始める人をターゲットとしたセット商品が売られていたのでそれを買うことにした。色は無難な白で統一されていて、冷蔵庫もやや小さめで使いやすいサイズだ。お値段は八万円だった。


 俺の買い物が完了すると三人で百貨店の中をぶらぶらと回り、六時頃、レストランフロアにあるファミレスで少し早めの夕食をとることにした。テーブル席で千沙と朱莉が隣同士に座り、俺は向かい側に座った。


「朱莉、お子様ランチのメニューはこっちだぞ」


「はいはい」


 軽くあしらわれてしまった。朱莉は、俺には目もくれずにメニュー表を見ている。なんだか俺の方がガキみたいで、悲しい気持ちになりお子様ランチのメニューを隅に追いやった。


「私、ボロネーゼにする」


「何がボロネーゼだ。子供らしくミートソースって言えコノヤロー」


「そう書いてあるんだから別にいいでしょ……」


 朱莉は面倒臭そうな目を俺に向けた。すると、千沙も口を挟んできた。


「貞治、ボロネーゼとミートソースは別物だから。味付けとか、麺の種類とか」


「へぇ、それは知らなかった」


「まったく。困った貞治だねぇ、朱莉?」


「うん」


 朱莉は千沙に同意しながらも、ちょっと嬉しそうに頬を緩めた。朱莉の気持ちは俺にもなんとなく理解できた。

 俺はハンバーグセット、千沙はシーフードドリアのセットを頼み、この三人では最後となる外食を楽しんだ。



 地下鉄で最寄り駅まで帰り、階段を上って地上に出ると、頭上に冬の夜空が広がった。外気の冷たさを頬に感じながら、静まり返った夜の住宅街を三人で歩いていく。朱莉が真ん中で、その両脇に俺と千沙が並んでいた。もう会話がなくなっていたので、俺は今日の出来事を思い返しながらひとり言のように言った。


「お子様ランチってさ、なんで夕食でもランチって言うんだろう。お子様ディナーにすればいいのに」


「え? うーん」


 朱莉は唸ったが、そのあとに続く言葉が出てこない。


「ああ。それは、ランチってのは元々昼食って意味じゃなくて、洋食の軽食とか定食を指す言葉だからだよ」


 千沙が流れるような説明をしてくれた。俺はそんな彼女の顔をまじまじと見てしまった。


「な、何よ」


「……千沙って結構物知りなんだな。もっと馬鹿なのかと思ってた」


「なんだと、そういうこと言ってると家から追い出すぞ」


「いや、だからもう出て行くから。そのために今日買い物したんだろうが」


「あっ」


 千沙は思わず声を上げた。それから少し俯き、苦笑いを浮かべた。


「そうだよね、何言ってんだろ私……」


 ちょっと重苦しい空気になってしまった。そんな風にするつもりはなかったのだが、俺たちの間に気まずい沈黙が流れた。


 何と言ったものかと考えていると、いきなり朱莉が手袋に包まれた右手で千沙の左手を握った。


「朱莉?」


 千沙は驚いて朱莉の方を見た。朱莉は何も言わずに、はにかみながら左手で俺の手も握った。俺たちは三人で手を繋いで歩いている形となった。

 俺は朱莉の手の形と柔らかさを感じながら、呟くように言った。


「朱莉、こういうのって……」


 まるで、本当の三人家族みたいじゃないか――。


 そう言ってしまいそうになったが、気恥ずかしくなりすんでのところでやめた。くすぐったいが俺は俺らしく、このいたいけな少女をからかうことにした。


「なんか朱莉が連れ去られる宇宙人みたいだぞ」


 すると、朱莉は手を握ったまま俺の脇腹を小突いた。

 千沙が小さく笑う。

 顔を向けると千沙と目が合った。

 街灯に照らされた彼女の顔は、心の中で幸せを抱き締めているように見えた。


 三人とも手袋を付けているから直接手を握っているわけではない。

 でも、それもなんだか俺たちらしいと思った。

 直に触れてはいないけれど確かに繋がっている。

 触れていないのに温かい。

 俺たちは今までもこれからもそういう関係なのかもしれない。

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