バレンタインデー
バレンタインデーの前日も、いつも変わらない一日だった。この家を出て行くという話は千沙にはまだしていない。朱莉がどういうつもりでいるのか分からないからだ。バレンタインに関する話題も何も出てこなかった。俺は仕事が終わったあとネットで検索し、新しい家の候補だけ一応目星を付けておいた。
そして訪れたバレンタインデー当日。俺は会社にいる二人のおばさん社員から義理チョコを貰った。千沙に話したようなホワイトデーへの流用はさすがにする気はないので、義理チョコは千沙と朱莉にも分けてあげることにする。
夕食後、朱莉はすぐ自分の部屋に行ってしまったので俺はとりあえずソファーに座って待った。千沙はコタツに入ってスマホをいじっていた。すると、案の定俺のスマホに朱莉からメッセージが届いた。今から部屋に来てほしいとのことだ。
いよいよかと、緊張が走る。俺は千沙に怪しまれないよう、トイレにでも行くかのような自然体で立ち上がりリビングから出て行った。
朱莉の部屋のドアの前に立つと、俺の鼓動は激しさを増した。千沙にずっとこの家で暮らしたいと言ったときよりもドキドキしているかもしれない。落ち着け、ただ義理チョコを貰うだけだと自分に言い聞かせ、ドアをノックした。
「開けていいよー」
部屋の中から朱莉の声が聞こえた。いつもは自分で開けるのになんで今日は俺に開けさせるんだと思った。おそるおそるドアノブを握り、ゆっくりと開ける。そして俺は、目を見開いた。
部屋の奥にあるベッドの前に朱莉が立っていて、赤い紙が巻かれた巨大なハート型の物体を胸に抱えていた。まさかとは思うが、あれはチョコレートなのだろうか。平らだがとにかくデカい。全長三十センチメートルはありそうだ。あんな型どこで売っているんだ。
俺が部屋の中に入っても朱莉は何も言わなかった。恥ずかしそうに目を逸らしている。とりあえず何か話してみることにした。
「それはハート型のピザか?」
「……そんなわけないでしょ。バレンタインチョコだよ」
朱莉はまっすぐに俺の目を見た。瞳が少し潤んでいて、切なげな表情をしている。
「ちょっと気合入れすぎちゃったけど、これが私の気持ちだから……」
頭が真っ白になり、言葉を失った。
すると朱莉はチョコレートを胸に抱えたまま、絶句している俺に歩み寄り、近づいて――横を素通りした。
「え?」
朱莉はドアの前で立ち止まり、後ろを振り返った。
「貞治君。ちゃんと見ててね、私が大人になるところ」
そのまま部屋から出て行ってしまった。
その瞬間、俺は全てを察した。
ああ、そうか。そうだよな。お前が一番好きな相手は俺なんかじゃなくて、最初から決まっていたんだ。
またもやお前にしてやられたよ。
俺は朱莉のあとについて行き、短い廊下を歩いた。あんなに小さいと思っていた朱莉の背中が、今では大きく、凛々しく見える。
朱莉はリビングに行き、コタツに入って座っている千沙の横に立った。
「ねぇ」
「んー?」
スマホを見ていた千沙は朱莉の方を振り向き、驚いた。無理もない、謎の巨大なハートを胸に抱えているのだから。
「これ、あげる」
朱莉はチョコレートを両手で持ち、千沙に差し出した。
「え、私に?」
千沙はポカンとしながらも朱莉のチョコレートを受け取った。
「もしかして、バレンタインの?」
「うん」
「……開けていい?」
「うん」
俺も朱莉の横に立って覗き込んだ。
千沙はハート型のチョコレートに巻かれてしわしわになっている赤い包装紙を剝がした。内側にアルミホイルも巻かれていたのでそれも丁寧に剥がしていく。すると、朱莉の手作りチョコレートが全貌を現した。
大きなハート型の板チョコだが、いかにも素人が冷やして固めましたという仕上がりで角がところどころ欠けている。
そして、真ん中にホワイトチョコレートの文字でこう書かれていた。
『お母さん いつもありがとう』
千沙の肩がぴくっと震え、チョコレートを手に持ったまま動かなくなってしまった。
朱莉は黙っている千沙に向かって言った。
「これからは、ママじゃなくてお母さんって呼んでいい? ママってなんだか子供っぽいから」
「え……」
千沙は朱莉の顔を見上げた。涙が一滴だけ、頬を伝っていた。
「うん、いいよ……」
そう言って涙の雫を指で拭った。
「これ、食べていい?」
「もちろん」
優しく微笑みかける朱莉。
千沙はハートの下側の尖っている部分から齧り、何も言わずに無心で食べ続けた。
「お母さん、美味しい?」
朱莉が尋ねると、千沙は口の中のものをごくんと飲み込み、手に持っているチョコレートをじっと見ながら言った。
「朱莉、これ間違えて塩とか入れてんじゃないの」
「えっ!?」
朱莉は一瞬焦った表情を見せたが、そうではないとすぐに気付いて顔を綻ばせた。
よく見てみると、千沙の瞳から溢れた涙が大きなチョコレートの上にぽたぽたと落ちていた。
今までのことを思い出して感極まったのかもしれない。不倫されたこと、離婚したこと、それ以来朱莉に距離を置かれるようになったこと――。
「美味しいけど、なんだかしょっぱいよ……」
そう言いながらも、泣きながらチョコレートを食べている。
俺と朱莉はそんな
千沙の食べているチョコレートが残り少なくなる頃、朱莉は一度自分の部屋に戻り、小さな袋を持って戻って来た。
「はい、貞治君にもあげる」
透明なラッピングの中にハート型のチョコレートがいくつか入っている。
「あ、俺にもあったのね。なんか小さいけど……」
「手作りなんだから文句言わない」
「これも一応ハートだから気持ちが入ってるってことにしといてやるよ。ありがとな」
「ひひっ」
朱莉はくしゃっとした顔で笑った。俺は、朱莉が年相応の無邪気な笑顔を浮かべているのを初めて見たような気がした。
涙で流し続けたせいですっかり目が赤くなってしまった千沙がおずおずと口を開いた。
「ごめん、私チョコレートは男の貞治の分しか用意してなかった。朱莉から貰えると思ってなかったから……」
そんなもの、俺だったら朱莉のために用意したものだと嘘をつくが、そういう馬鹿正直なところは嫌いじゃない。朱莉も明るい声で千沙を元気付けようとした。
「ううん、全然大丈夫だよ」
「ありがとう。朱莉のチョコ、ホントに嬉しかった……」
千沙は感動しすぎてしまったのか、なんだかしおらしくなってしまっている。仕方がないので俺もフォローしてやることにした。
「そうだ、朱莉には俺が会社で貰ったチョコをやるよ」
「出た、チョコレート転売ヤー」
千沙がすかさず反応する。
「少なくとも転売ではないぞ」
「大丈夫? それ本命じゃないの?」
「馬鹿、おばちゃんから貰った義理チョコだ」
「会社で貰った義理チョコあげるなんて、お父さんみたいだね」
千沙はいつもの調子が戻ってくすりと笑った。しかし、朱莉は刹那的に寂し気な表情を見せた。千沙には俺がこの家を出ることをまだ話していないが、朱莉は既に知っている。
俺は仕事用のバッグから二つの義理チョコを取り出し、朱莉にあげた。一つは手のひらサイズの箱にチョコレートが四個入っているもので、量は少ないが見てくれは綺麗だ。もう一つは袋のパッケージに猫の絵がデザインされていて、朱莉は可愛いと言って喜んでくれた。
千沙も食べかけのチョコレートを一旦アルミホイルの上に置き、自分が用意したチョコレートを冷蔵庫から出して俺に手渡してくれた。
「ほい、あげる」
白い包装紙と黒いリボンでラッピングされた小さな箱だ。千沙からもチョコレートを貰えるとは思っていなかった。
「これは義理か? それとも本命か?」
「……さあ?」
千沙はニヤニヤと笑った。このからかい勝負では千沙の方が一枚上手だったようだ。
俺たちはコタツに入り、互いに贈り合ったチョコレートを一緒に食べた。最後にまた一つ、三人の楽しい思い出を作ることができた。
就寝前、二人で千沙の部屋に入ると、千沙は布団の上に座って俺の顔を見上げた。
「今日のも貞治の作戦だったの?」
俺は照明を消そうとしていたが、千沙の方に目をやった。何かを期待しているような表情だ。壁のスイッチに触れようとしていた手を下ろし、布団の上で胡坐をかいた。
「今回のはマジで何もしてないんだ。朱莉が自分で考えて自分でやったことだ。ただ……」
「ただ?」
「朱莉は、『貞治君が大人になったから私もそうしてあげる』って言っていた」
俺はどこかで言ったことがある。子供に何かをやらせるには、大人が手本を見せればいいって。俺が前を向いて歩き出したから、朱莉も同じように進んでくれた。俺が自分の気持ちを正直に話したから、朱莉も素直に感謝の気持ちを伝えてくれた。俺がちょっとだけ大人になったから、朱莉もちょっとだけ大人になった。
「貞治が大人になった? どういうこと?」
俺がこの家を出ると決意したことを知らない千沙にはちんぷんかんぷんだろう。朱莉が千沙のことをお母さんと呼び結果的に俺の使命も果たすことができたし、今こそ千沙に伝えるべきときだ。
「それなんだけどさ……俺、やっぱりこの家を出て行くことにした。新しい家決めるのはこれからだけど」
千沙は小さく息を吞み、ぼうっと俺の顔を見たあと、少しだけ俯いた。
「そういうことか……残念だな」
「残念なのか?」
「うん。でも、いつまでもこうしてるわけにもいかないもんね」
理由を詳しく訊く気はないようだ。朱莉と違って大人だから、この生活が正常じゃないということはちゃんと分かっている。
「話がコロコロ変わってごめん。朱莉にはわけあって一昨日話した」
「そっかぁ……それで朱莉も大人になったのかぁ」
千沙は天井を見上げた。何かに頭を巡らせているような目をしていた。
そのまま数秒間じっとしてから、こちらに顔を向けた。
「結局、どうして朱莉は離婚してからママって呼ぶのやめたんだろ?」
朱莉がママと呼ばなくなった理由、か。
正直に言えば、浩司が朱莉に向かって「毎日パパって言われるのが苦痛だった、パパと言われなくなるのが嬉しい」とか抜かしたことが、原因として最も可能性が高いと思う。でも俺の口からそんな話はしたくない。
最初、俺にしばらくこの家にいてほしいって言い出したのも千沙のためで、ママと呼ばなくなったのも千沙に嫌がられたくなかったから。朱莉は千沙が好きで、全ては千沙のための行動であった。
これは朱莉が千沙のことをちゃんと信じられるようになったとき、朱莉自身から話すべきことだ。朱莉ならいつか必ずそうしてくれると俺は信じている。
だから、今は代わりとなる可能性を提示してみることにした。
「それについては俺も教えてもらってないんだが……案外、ただママという呼び方が恥ずかしくなっただけだったりしてな」
そうだとしたら、自分で大した理由じゃないとは言っていたが本当にその通りだ。でも他人にとってはどうでもよくても、自分にとっては譲れない大切なことだってある。人は人と関わることで互いにそういうものがあるということを知っていく。朱莉は、朱莉の大切な想いを千沙に差し出してくれた。今日はそういうことにしておこう。
「そんなオチなの?」
千沙は微笑んだ。それからまた少しの間、口を閉ざした。今度は喜びと愛しさを嚙み締めるような沈黙だった。
「ねぇ」
まだ話があるというのか。でも千沙と布団を並べて寝るのもあと数えるほどしかないから、付き合うことにする。
「なんだ?」
「まだちゃんと言ってなかったんだけど……」
「うん」
「ありがとう。貞治がいてくれたから私たちは……ううん、誤魔化すのはもうやめるね」
千沙は一度目を逸らし、一呼吸置いた。
そして、再び俺の目を見た。
「貞治がいてくれたから、
「千沙……」
俺は千沙を救うことができたのか。そういえば、俺が最初に泊まらせてほしいという電話をしたあと千沙は嬉しそうにしていたと、朱莉が言っていた。でも俺はそのためにこの家で暮らしてきたわけではない。結局のところは、俺がただ一緒に暮らしたいからそうしてきただけなんだと思う。だから、何と答えたらいいのか分からない。
すると、千沙が先に口を開いた。
「……もう寝る?」
俺が話す前に、話が終わってしまった。何かしらの返事を求めていたわけではないようだ。
「そうだな」
俺は立ち上がり、千沙の体ではなく白い四角形の無機質なスイッチに手を触れ、照明を消した。
「……おやすみ」
暗闇の中から千沙の声が微かに聞こえた。俺は何も言わずに布団の中に入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます