離婚の理由

 話が一段落付くと、千沙が追い焚きしてくれた風呂に入れさせてもらえることになった。コタツから出て立ち上がり、着替えやスポンジやシャンプーセットが入っている紙袋を持った。ここへ来る前に天神で買ったものだ。


「場所分かる?」


「豪邸じゃないんだから、大体分かるよ」


「んー」


 リビングから出て廊下へ行くと、洗面所はすぐに見つかった。扉を閉め、服を脱ぎ、風呂場に入る。お湯に浸かると、足指の先まで優しさに包み込まれるような心地がした。

 今までは一人暮らしということもあって、湯船にお湯を溜めて入るということはなかった。シャワーだけのカラスの行水だ。だからこうして風呂に入るのは随分と久しぶりだ。

 用意しておいたシャンプーセットとスポンジで髪と体を洗ったあと、風呂から上がり、黒いスウェットに着替えた。新品だからちょっといい匂いがした。

 リビングに戻ると引き違い戸が開いていて、その中で千沙が布団を敷いていた。


「ベッドじゃなくて布団なんだ」


 千沙の部屋を覗き込んで言った。


「ベッドだと部屋狭くなっちゃうしね。離婚する前はこの部屋旦那と二人で使ってたから」


 室内を見回すと、他には小さなデスクとタンスと化粧台があった。確かに、二人分のベッドまで置いたら部屋がパンパンになりそうだ。


「これでよしっ」


 千沙は二組の布団を少し離れた位置に敷いた。今からこいつとここで一緒に寝ることになるが、とりあえず気にしないようにした。深く考えたら負けだと思った。


「俺、歯磨いてくる」


「うん」


 新品の歯ブラシで歯を磨いている間も、気持ちが妙に落ち着かない感じがした。さすがに鼓動が高鳴るほどではないにしても、修学旅行でホテルに泊まるときのようにそわそわしているのを認めざるを得ない。こういう感覚も久しぶりに味わった気がする。


 口の中をスッキリさせ、リビングに戻る。

 キッチンに立っている千沙はえんじ色のどてらを脱いでいて、グレーのスウェットだけになっていた。シンク越しに俺の方を向く。


「もう寝る?」


「ああ。あと、スマホの充電借りるぞ」


 俺は千沙の部屋に行き、コンセントに挿してある充電ケーブルを自分のスマホに繋いだ。千沙もリビングの照明を消してから来た。


「貞治はこっちね」


「あいよ」


 千沙が指差した方の布団に潜り込む。他人の家の布団は、自分のものとは少し違う匂いがする。


「消すよー」


 千沙は壁にあるスイッチを押した。部屋の照明が消え、何も見えなくなった。感じ取られるのは、千沙が自分の布団に入る音と気配だけだ。


「こうしてると、二人でおばあちゃんの家に泊まったときを思い出すね」


 あとはもう寝るだけだと思っていたが、千沙が話しかけてきた。


「そうだな」


 俺が小学生で、千沙が高校生だった頃だ。ばあちゃんの家に泊まって、二人で布団を並べ、今そうしているように小声で話をしていた。


「あの頃の貞治は可愛かったなぁ」


 暗闇の中で、千沙の声だけが優しく響く。それは子守唄のように安らかに聞こえた。


「今は可愛くないのか?」


「今も可愛いよ、少しは」


「少しってなんだよ」


 千沙が微かに笑う声がした。

 ああ、そうだ。昔もこんな雰囲気だったような気がする。子供の頃から姉弟のような仲だった。今俺たちは、あの頃に戻ることができたのだ。

 だから、ずっと気になっていたことを思い切って訊いてみることにした。


「なあ」


「なあに?」


「離婚したのって、不倫されたからって言ってたよな」


 俺はまだ、不倫されたということしか知らず、詳しい話は聞かされていなかった。


「ああ、そうだね。ちゃんと話しておかなきゃね……」


 千沙は少しの間黙った。俺は千沙が話し始めるのを、耳を澄ませながら待った。


「半年前にちょっとしたきっかけで気付いちゃってさ。問い詰めたらあっさり認めた」


 半年前というのは、俺が食事に呼んでもらったときの直後のことだ。

 あの日見た幸せな家族の光景は、崩れ去る前の最後の時間であった。


 千沙の旦那であった浩司さん。細身で洒落た眼鏡をかけていて、物腰の柔らかい人。

 今でも信じがたい、あんなに優しい人だったのに……。

 でも同時に、そう思うこと自体がよくある話だとも思った。一見離婚しなさそうな理想的なカップルに限って意外と不倫とかをやらかす。いかにも離婚しそうな夫婦は逆に離婚しないのかと問われると、それはそれで結局離婚する。どうせみんな離婚する。


「それですぐに別れたのか」


「子供が一人立ちするまでは、別れずに我慢する人もいるけどね。でも離婚しようかと言われたから、その場で同意した」


「……どうして?」


「ただ二股かけただけとか、性欲に負けたとかだったら、もしかしたら許すこともできたのかもしれない。でもあいつは、私のことがもう好きじゃないと言った。だから離婚した。まあ、慰謝料とか養育費も払ってくれてるし」


 家族のために生きるということに飽きてきた頃、タイミング悪く手頃な女と出会ってしまったといったところか。


「浮気されたのは気の毒だけどさ、結婚したあともずっと恋愛みたいに好きなままでいる方が稀なんじゃないのか。十年も経てばそんな感じでもなくなるだろ」


「なにそれ。結婚したこともないくせに、偉そうに」


「よく聞く一般論だ」


「そりゃあ多少は落ち着くけど、私には無理だった。はっきりと好きじゃないって言われたまま一緒に生きていくのは。母親である前に、妻である前に、私は私だったから」


「そうか、そうだよな……」


 俺は結婚という事柄について何も分かっていないのに軽口を叩いたことを少し後悔した。


「……浩司さんは今どこに住んでるんだ?」


「詳しくは知らない。私物と分与されたお金だけ持って出て行った。福岡にはいるらしいけど」


「マジか。街中でばったり会っちゃったら嫌だな」


「そうだね……」


 夜目が利いてきて、部屋の風景が薄っすらと見えてきた。

 千沙の方を見てみると、彼女も顔をこちらに向けていた。

 俺は息を吞んだ。

 千沙は泣きそうな顔をしていた。

 話し声では悟られないように抑えていたが、顔と心では泣いていたのだ。

 俺は気付かないふりをした。


 離婚について朱莉がどう反応したのかということも訊こうと思っていた。でもやめておこう。千沙は今、朱莉に好かれているという自信も失くしている。千沙に対する朱莉の態度は離婚したことが原因だと思っている。余計に落ち込ませることになる。

 俺は千沙の気持ちと真逆の言葉を彼女に伝えた。


「旦那は知らんが、朱莉はお前のことが好きだよ。だから大丈夫」


 もちろん根拠はない。だが、この世に確かな根拠がある事柄なんてのはそれほど多くないというのが俺の持論だ。


「朱莉に、お前のことをママと呼ばせてやる」


「うん、ありがとう……」


「話は大体分かったよ。もうそろそろ寝よう」


「うん、おやすみなさい」


「おやすみ」


 千沙はまた微笑み、やがて瞼を閉じた。


 朱莉と千沙を仲直りさせ、ママと呼ばせる。

 半ば思いつきだったけど本気で叶えてあげたいと思った。

 それが今、この女に必要なことだと思うから。

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