ママと呼ばせてやる
「ひ、久しぶり」
千沙の平静さにちょっと面食らってしまった。
おかえりと言われたけど、ただいまと返すことができなかった。
「大変だったでしょ。とりあえず入って入って」
「お邪魔しまーす」
言われるがままに玄関から上がり、短い廊下にあるドアからリビングに入る。すると、温かな室温と家庭の空気感のようなものが冷えた俺の体に染み込んでいくのを感じた。
立ったまま室内を見回す。買い換えられている家電もあるが、大まかなレイアウトは半年前と変わっていないと思う。薄いグレーのカーペットの上にブラウンのコタツ、壁側にはテレビや濃いグレーの布製ソファーが置いてある。壁掛け時計の短針は十一時の方向を指している。それからキッチンと、他の部屋に通じる引き違い戸が一つ。
リビングの風景を眺めていると、千沙も同じように辺りを見回しながら言った。
「あれ? 朱莉、さっきまでいたんだけど部屋に行っちゃったかな。ちょっと呼んでくるね」
千沙の娘。今は小学六年生だ。
「もう寝るんじゃないのか?」
「この時間はまだ起きてるよ」
そう言って、千沙は廊下の方へ行った。
俺はとりあえず両手に持っていた紙袋と肩掛けバッグを床に置いた。それからコートと背広を脱いで適当に畳み、腰を下ろしてコタツで暖まろうとした。
まさに、その瞬間だった。
突然、コタツの中から女が俯きながら這い出てきた。
黒い髪が暖簾のように顔の前に垂れている。
「ひっ」
俺は今下ろしたばかりの腰を抜かした。
女は右手で俺の膝に掴まり、顔を上げた。
「あ……」
目の前にいるのはあどけない少女だった――というより、朱莉だった。
胸の辺りまで伸びたロングストレートの髪。将来有望ともいえる部類の顔立ち。年相応な水色のパジャマ。左手にはスマホを持っている。
俺は驚きのあまり呆然とした。朱莉は座りながら俺の顔をじっと見た。それからスマホを床に置き、軽く会釈をした。
「どうも……」
ホラー映画のような登場には似つかわしくない、腰の低い挨拶だ。
「お、おう」
俺は間抜けな声を出すことしかできなかった。
開けっ放しにされたドアの向こうから千沙の声が聞こえた。
「朱莉ー。どこー」
声と共に千沙がリビングへ戻ってきた。
「あっ、そんなとこにいたんだ」
千沙は大したリアクションもせず、そのままキッチンに行った。
「
「あ、ああ」
やや混乱した頭で生返事をする。それから、ようやく朱莉に話しかけた。
「コタツの中で何してんの?」
「スマホがいなくなったから探してたら、コタツの中にいた」
「お前のスマホは寒くなると独りで歩き出して暖を取るのか?」
「そうなのかも」
朱莉は俺の冗談をさらりと流し、立ち上がった。
「それより貞治君、大丈夫だった?」
朱莉は、十歳年上である俺のことを君付けで呼んでいる。朱莉から見れば俺は母親のいとこであり叔父ではない。だからおじさんとは呼ばないし、兄じゃないから貞治兄ちゃんというのも嫌で、親ほど歳が離れていないから貞治さんと呼ぶのもしっくり来ないらしい。
「大丈夫だよ。いきなり出てきたからビビったけど」
「そうじゃなくて、火事の方」
朱莉は心配そうに俺を見下ろしている。
「ああ、そっちか。家はもう住めないけど、俺はケガもなくピンピンしてるから心配すんな」
俺はニッと笑ってやった。
「そっか」
朱莉は大さじ一杯分くらい安心したかのように口元を緩めた。
横から千沙がマグカップを持ってきて、コタツの上に置いた。
「はい。砂糖とミルク入ってるから」
「どうも」
俺のコーヒーの好みなんて教えていただろうが。もしかしたら半年前に来たときに言ったのかもしれない。俺はそのときコーヒーを飲んだかどうかすら覚えていないが。
「それで貞治、家の方はどうなの?」
「全焼だよ。全然消える気配ないから、途中で諦めてこっち来た」
「そうなんだ……。じゃあ、何日かは泊まってくよね」
「ああ。悪いけど、夜はソファーで寝させてもらっていいか? まあ、俺のことはあまり気にしないでくれ」
夜中に目が覚めてキッチンで何か飲むこともあるかもしれないが、無用な気遣いはしてほしくない。俺としてはごく普通の発言のつもりだったけど、千沙はなぜか面倒臭そうな顔をした。
「え、別に私と一緒の部屋でいいでしょ。てか、リビングで寝られたら邪魔だし」
リビングにある引き違い戸を指差した。そこが千沙の寝室らしい。俺は目が点になった。娘の前で何を言っているんだと思った。
「いやいや、そういうわけにもいかんだろ。俺ももう大人の男なんだから」
「大人の男ねぇ……。ぷっ」
俺の反論も空しく、千沙はニヤニヤと笑った。
「なんだよ」
「貞治なんて、私がオムツ替えてあげたこともあったのに。一丁前なこと言うようになって……。ぷぷぷ」
俺が生まれたとき、千沙は十歳だった。赤ん坊のお世話なんてさぞ楽しかったことだろう。当然俺は覚えていないし、物心が付いていないときの話を持ち出すのはずるい。
何を言っても無駄なような気がしたので、今度は朱莉の方を向いた。
「朱莉よ、お前は俺がお母ちゃんと同じ部屋で寝てたら嫌だろう」
「別にいいけど……」
「つれないなぁ」
「気にしないで」
俺は警戒心というものを持たれていないのだろうか。健全な若い男なのに、狼ではなく野良猫的な存在なのだろうか。逆にこちらが不安になりそうだ。
「じゃあ千沙の部屋で寝ちゃうぞ」
「そうするといいよ。私ももう寝るから」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
朱莉はそう言って、リビングから去ろうとした。
すると、千沙も声をかけた。
「おやすみー」
朱莉はこくりと頷き、何も返事をしないままドアを開けて出ていった。
リビングの中は俺と千沙の二人だけになった。
千沙もコタツに入り、俺はコーヒーを口に運んだ。
「朱莉も大きくなったなぁ。もうすぐ中学生か」
コーヒーの温かさが喉を通り過ぎていくのを感じながら、何の気なしに呟く。
だが、千沙の方は表情を曇らせた。
「うん。なんか素っ気なくなっちゃったし」
「なんだ、反抗期か?」
「それが、離婚してからなんだよね。私に対して態度が変わっちゃって」
さっきの短いやり取りではよく分からなかったが、言われてみれば朱莉は千沙に対しては言葉を発していなかった気がする。
「そういえば、ちょっと前までは、ママー、ママーってよく言ってたな」
「うん。でも、もう私のことママって呼んでくれなくなっちゃった」
「何て言ってるんだ?」
「呼ぶときは『ねぇ』とか、そんな感じ。私のこと嫌いになっちゃったのかなぁ」
「年頃の娘なんて、そんなもんじゃないのか?」
「うん、そうだよね……」
千沙は寂しそうな笑みを浮かべた。こういう表情をしているのは初めて見た。俺は明るい千沙しか見たことがなかったから。
何でもいいから励ましてやるべきだろうかと考えていると、千沙が再び口を開いた。
「ねぇ、貞治」
「ん?」
「何日とかじゃなくて、もっと長くうちにいてくれないかな? その……朱莉がそうしてほしいって言ってたから」
「朱莉が?」
「うん。なんでなのかは教えてくれなかったけど、しばらく貞治にいてほしいって」
意外だった。年頃の女子である朱莉は内心では俺が泊まることを嫌がっているかもしれないと思っていたから。だが、朱莉の方からそう言ってくれているのなら願ったり叶ったりだ。
「分かった。じゃあ、次の家が決まるまでそうさせてもらうよ」
「ありがとう」
なぜかお礼を言われてしまった。感謝すべきなのは俺の方なのに。
どこかもどかしい気持ちになり、コーヒーをもう一口飲む。すると、妙案を思いついた。
「そうだ。家に泊めてもらうお礼に、朱莉がお前のことをママと呼ぶようにしてやるってのはどうだ?」
「……え?」
千沙が驚き、瞳を少し見開いた。
「俺がこの家にいる間にお前らの仲を取り持って、ママと呼ばせてやる」
「ホントにそんなことできるの?」
「ああ、約束だ」
千沙は言葉を失っていたが、やがて息を漏らして微笑んだ。
「ふふっ。じゃあ期待しちゃおうかな」
「ああ、お前はただ俺を泊めてくれるだけでいい」
「あっ、悪いけど食費だけは貰っていいかな。慰謝料とかはあるけど、そんなに余裕あるわけじゃないから」
「やだなー、僕が母子家庭の家にタダで居座るような鬼畜なわけないじゃないですか。ハハハハハ」
千沙に言われるまで、食費やお金のことはすっかり忘れていた。
二人しかいないリビングに、噓くさい乾いた笑いがこだました。
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