3人暮らしの雪だるま ~俺といとこと彼女の娘と~

広瀬翔之介

第1章

初雪と火事と、離婚について

 初雪の降りしきる夜に燃え上がるアパートというものを見たことがあるだろうか。


 俺はなかった。今日初めて見た。勢いよく立ち昇る炎と灰色の煙。空を舞い散る白い雪がオレンジの光に照らされ、星屑のように煌めいている。幻想と加虐性。あるいは滅びゆく日常の残滓。恐ろしさの中に儚げな美しさが潜んでいるような情景を、ただ呆然と眺めていた。


 これがたまたま通り掛かった他人の家ならまだ良かった。いや、良くはないが、俺はただ住民の無事を祈りつつ帰宅し、今頃はテレビでも見ながらほどほどに美味しい晩飯にありつくフライデーナイトを満喫できていたのだ。


 だが不幸なことに、誠に遺憾なことに、これは俺のアパートだ。仕事から帰って来たら自宅の周辺が大騒ぎになっていた。建物の一部から出火しているとかそういう次元ではなく、どう見ても全焼。家財の心配をするという段階はとっくに過ぎ去っていて、はっきり言って俺にできることは何もない。就職してから二年弱暮らしていたアパートの壁が燃えながら剥がれ、骨組みが徐々に見えてくるのを見守ることしかできなかった。


 火事自体見るのも生まれて初めてなのに、それが自分の家になってしまうとは。更新料払う前で良かったなと、ちょっと思ったりもした。自宅に高価なものや貴重なデータがあるわけでもない。ブランド品には興味ないし、アニメや音楽はサブスクだし、ゲームのセーブデータはネットワーク上に保存してある。財布やカードは今手元にあるし、通帳や印鑑はまた作ればいい。


 不思議なことに、こんな状況でも俺は取り乱さなかった。ちょっとしたボヤ騒ぎの方がまだ慌てふためいていたかもしれない。だがこの火事の場合は、一目見ただけで「ああ、もう終わった」と諦めざるを得なかった。全てを諦めさせるほどの圧倒的な業火だ。あるいは真冬に暖を取るための巨大なキャンプファイヤーか。


 消防士たちが必死に水をかけている。何かを叫んでいる。火が消し止められるまでまだ時間がかかりそうだ。

 俺は近くにいた警察に声をかけ、自分がこのアパートの住民であることを報告し、連絡先も伝えた。


 母さんにも電話で一報を入れると、狼狽えた声で質問攻めにされた。遠方に住む息子の一大事だから当然といえば当然の反応ではあるが。とりあえずはなんとかなるということを数分にわたり言い聞かせてやると母さんは落ち着き、通話を終了させた。

 それからようやく野次馬の中から抜け出し、住宅街を歩き、車が行き交う表通りまで出た。


 火災保険がどうとか、金や契約のことは明日以降考えればいい。それよりも真っ先に決めなければならないことがある。これからしばらくの間、どこで暮らすかということだ。


 ここは福岡県福岡市。俺は埼玉生まれだが、社会人になってから仕事の都合でこの街に引っ越してきた。近くに友達は住んでいない。だからといって会社の人に迷惑をかけるわけにはいかないし、ネカフェ難民にもなりたくない。

 やはりビジネスホテルしかないと思い、地下鉄で移動するために駅へ向かうことにした。


 歩きながら、親の他にもう一人報告するべき人がいることを思い出した。故郷から遠く離れた地方にもかかわらず、近くに住んでいる親戚がいる。いとこの千沙だ。十歳年上で、小学生の娘と二人で暮らしている。たまに連絡を取り合っているし、世間一般のいとこ同士よりは仲がいいと思う。娘ともよく一緒に遊んであげていた。

 半年前には食事に呼んでもらった。が、千沙が離婚してしまったのはその直後のことであった。もちろん俺は無関係だ。詳しい話はまだ聞いていないが、旦那に不倫されたらしい。


 今は最低の気分だ。だから、少しでもいいから話がしたい。


 駅に着くまで少し時間がかかるので、向かいながら電話してみることにした。

 スマホを取り出し、千沙の連絡先をタップする。数秒コールしたあと、彼女の声が聞こえた。


「もしもしー」


「もしもし、今大丈夫か?」


「うん。どうしたの?」


「それが、ちょっと大変なことになった」


「なに、また終電逃したの?」


 千沙がまだ旦那と暮らしていた頃、終電を逃した日にたまたま近くにあった彼女のアパートにタクシーで行って泊めてもらったことがある。今となっては懐かしい思い出だ。


「いや、そうじゃなくて……火事だ。俺のアパートが燃えた」


 単刀直入に告げた。すると、千沙の返事が止まった。

 聞こえなかったのだろうかと思い、もう一度言おうとしたところで、千沙がいきなり叫んだ。


「えええええっ!」


 いいリアクションだと思った。大切な我が家を失ったのだから、せめてこのくらいは驚いてもらわないと救われない。


「だだだ大丈夫なの!?」


「心配するな、俺は仕事に行ってたからケガとかはしていない」


「良かったぁ……。あ、ごめん。全然良くないよね、家が火事になったのに……」


「いや、ホント命があって良かったと思うよ」


「うん。それで、これからどうするの?」


「とりあえず今日は天神のビジネスホテルにでも泊まろうと思ってる」


「ふうん……」


 千沙は曖昧な相槌を打ち、黙ってしまった。

 だが、俺が何か言おうと思ったタイミングで再び言葉を発した。


「よかったらだけど……うちに来る?」


「えっ……」


 不意を突かれ、一瞬言葉に詰まってしまった。

 別にそういうつもりで電話したのではなく、ただこの悲劇の話をしたかっただけなのだが、気を遣わせてしまっただろうか。


「いやいや、俺は大丈夫だから」


「でもビジネスホテルだってお金かかるでしょ」


「うーん……」


 確かに、この状況下ではできるだけ出費を抑えたいところではある。俺は少しの間逡巡してから遠慮がちに尋ねた。


「本当に俺が泊まっても問題ないのか?」


 千沙が離婚して以来、泊まったことはない。仲の良い親戚とはいえ、女しかいない家に男が飛び込むことになる。そのことについてよく考えてもらわなければならない。


「まあ、数日くらいならいいよ。非常時なんだし」


 千沙の返事は意外なほどあっさりとしたものであった。


「……分かった。それじゃあ、悪いけどとりあえず今晩は泊めてくれ」


「うん、了解」


「ちょっと遅くなってもいいか? 飯食って、必要最低限のもの買って行く。歯ブラシとかお風呂セットもちゃんと持ってくから」


「明日は休みだし、大丈夫だよ。ていうか、ご飯ならこっちで用意できるけど」


「いや、大丈夫。部屋の片付けでもしていてくれ」


「ああ、確かに女の園みたいな状態になってるけど……ハハ……」


 どういう状態なのか、俺にはいまいちピンと来ない。


「よく分からんが、それじゃあまた後でな」


「うん。気を付けてね」


「ああ、じゃあな」


「はーい」


 千沙の声を聞き届け、通話を切る。

 予想外の展開だが渡りに船だ。近場に身内がいて良かった。今後の方針も決まったので、さっそく行動を開始することにした。


 まず地下鉄で天神に行った。福岡で買い物をするならここだ。九州でも有数の繫華街で、平日だろうと休日だろうと昼だろうと夜だろうと、多くの人で賑わっている街である。


 何でもかんでも買っていたら持ち運べなくなるので、とりあえず何日かやり過ごすのに必要なものだけを揃えることにした。低価格のアパレルショップで服や下着を見繕い、小さな公園の前にある家電量販店で電気シェーバーを物色し、コンビニで旅行用のシャンプーセット、歯ブラシセット、スポンジを手に入れる。


 両手がいくつかの買い物袋で塞がったところで、今日の物資調達は打ち切った。

 そのまま近くの牛丼チェーン店に行き、玉子入りの牛丼大盛りと和風ドレッシングのサラダを掻き込む。


 それから再び地下鉄に乗り、千沙の家の最寄り駅まで行った。

 駅前のロータリーへ出て、年季の入ったラーメン屋の前を通り過ぎ、まっすぐに千沙のアパートを目指す。千沙が離婚してからは、初めて訪ねることになる。人通りの少ない静かな住宅街を歩きながら、千沙の家族のことについて考えてみた。


 新井千沙という女の名が如月千沙に変わったとき、寂しくなかったと言えば嘘になる。

 千沙は俺にとって特別、というのはちょっと違うか。いとこだが、憧れのお姉ちゃんみたいな存在であった。

 あいつは覚えているだろうか。子供の頃一緒に婆ちゃんの家に泊まったとき、一緒に寝ながら千沙は「ずっと一緒に泊まれたらいいのにね」って言っていた。俺だって本気でそう思った。それくらいの仲だった。

 でも千沙はそのあと結婚して子供を産み、遠い存在となった。学生だったのが一気に大人になってしまった。

 旦那さんもいい人で、家に食事で呼んでもらったときも優しく接してくれた。娘の朱莉が「パパ、夏休みはどこに行こうか」って楽しそうに話していた。

 絵に描いたような幸せ家族に見えた。

 俺には眩しかった。眩しすぎるくらいに。


 それなのに、離婚するとはな。

 俺は独身だから結婚生活というものについてよく分かっていないとは思うが、正直な感想を言わせてもらえば、子供がまだ小学生なのに随分と思い切ったことをしたものだ。


 十分ほど歩くと千沙のアパートに到着した。

 白い外壁の二階建て。賃貸だが古い物件ではないので、見てくれは小綺麗だ。

 階段で二階へ上がり、201号室の玄関扉の前に立つ。


 千沙たちと会うのは今年の夏以来、半年ぶりだ。

 前回とは違い、今はお互いに特殊な事情を抱えている。俺は少し緊張しながら、紙袋を持った手でインターフォンのボタンを押した。


 ベルが鳴り、数秒後に中から鍵を開ける音が聞こえた。

 俺の高度百七十センチの目線の十センチほど下で、茶髪のボブの女が扉の隙間から童顔を覗かせた。冷え性なのだろうか、グレーのスウェットの上にえんじ色のどてらを着ている。


「おかえりー」


 千沙は穏やかな笑顔でそう言った。「久しぶり」とか「大丈夫だった?」とかではなく、「おかえり」と言った。まるで火事だの離婚だの、そんな煩わしい問題など始めからなかったかのようだ。もし俺も結婚していて奥さんがいたら、毎日こんな笑顔で迎えられるのだろうか。少々年寄りくさいどてらを着ている千沙が、なぜか新妻のように見えた。

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