第5話

 雨が降っていた。俺は傘を差し、いつものように会社へ行くため、駅へ向かった。台風が近づいているせいか、雨脚が強い。

――おい、今日はこんな雨だから、歩かないで全部電車に乗っていくからな――

 ……。

――へっ、無視かよ――

 焼き鳥屋の一件以来、俺と心臓の関係はぎくしゃくしていた。話しかけても、答えてくる回数が激減している。たまに反応しても、いかにも不満げで、もこもこした鼓動を感じるだけだ。これが他人だったら縁を切るか、しばらく冷却期間をおくのだが、体の中にいるのでそういう訳にはいかない。

――まあいい、俺とお前は一体なんだからな。俺も体調には気を遣うけど、お前も付き合いとかには妥協してくれよ――

 駅に着いて傘をたたむ。不整脈は起こらないので、電車に乗るのは容認したのだろう。俺は定期カードをかざして改札を抜けた。

 線路の向こう側にあるホームへ行くため、階段を下りようとしたときだ。

 胸に強烈な痛みが走った。左胸、心臓の辺りだ。

――おい、何するんだよ――

 胸を押さえながら、一方の手で手すりに掴まり、転がり落ちそうになるのを押さえる。全身から脂汗がにじみ出てきた。

 どうにか階段を降りきったところで嘘のように痛みが消えた。俺は荒い息をしながら、ホームの椅子へ座った。

――心筋梗塞かよ。いいか、そんなまねしたって、結局はお前自身に返ってくるんだからな。わかっているだろうな――

 ドッドドドッドッドドドドッ、ドキン、ドキン、ドドドドドドドドド、ドッ、ドッ――

 狂ったような不整脈が起き始めた。

――おいよせ、頼むから止めてくれよ。何をして欲しいんだ――

 思わず立ち上がった。不整脈が止った。正解らしい。

 再び締め付けるような痛みが襲った。胸を押さえ、思わず一歩進む。

 痛みが弱まった。一息ついたところで再び痛みがぶり返す。

――頼むよ。仲良くやっていこうぜ……。俺とお前は一体だって言っているだろ――

 一歩踏み出す。痛みが弱まったかと思うと、再び痛みがぶり返す。また一歩踏み出す。

 黄色い線まで来た。

――俺に何をさせたいんだよ――

〈間もなく、一番ホームを特急列車が通過します〉

――これ以上出たら、ホームに落ちちまうだろうが――

 次の瞬間、めまいがした。焼き鳥屋の時と同じだ。

 目の前が真っ暗になる。

 気がついたとき、俺は線路に落下していた。

 目の前に迫る特急列車。

 声を上げる暇もなかった。


 人身事故があった駅は騒然としていた。緊急停車した特急列車の先頭が、大きくへこんでいる。車両はもちろん、線路やホームにも血と肉片が飛散し、金臭い臭いが充満していた。ホームにいた客のうち、ある者は悲鳴を上げ、ある者は遠巻きにして、列車を恐る恐る見つめていた。駅員が、強ばった表情をして客に大声で指示していた。雨脚が強くなり始め、たたきつける雨粒が、列車に付着した血を洗い流していった。

 轢死体は車輪によって、腰の辺りで真っ二つに切断されていた。車輪とホームの間に、男の上半身があった。生前、安川と呼ばれていたその男は、驚いたように目と口を大きく開けたまま、自らの血と、電車から落ちる雨水で濡れている。

 胸が、痙攣したように上下に動き始めた。

 血まみれの内臓がはみ出た傷口の中で、何かが蠢き出す。

 赤い塊が抜けだしてきた。握り拳ほどの大きさで、表面はてらてらとぬめりを帯び、血管が浮き出ている。

 心臓だった。

 心臓は体を不器用に伸縮させながら、線路上にしかれた石の上を進み、ホーム脇にある側溝まで来た。

 雨水が勢いよく流れている。心臓はその中へポチャリと音を立てて落下し、姿を消した。

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笑う心臓 青嶋幻 @genaoshima

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