第4話
「あなた、最近痩せてきたわねえ。病気じゃないの」
妻が心配そうな顔で覗き込む。俺が健康的な生活をしているなんて、これっぽっちも思っていないようだ。一瞬むっとするが、よくよく考えれば、肉好き酒好き運動嫌いの俺が、バランスの取れた生活をしているなんて誰も思わないだろう。
「そんなんじゃないって。最近は飲みに行くのも控えているし、会社の行き帰りは一駅分歩いているんだぜ」
「そうなんだ。もしかしたら、この間の不整脈から体調を気にしてるわけ」
「うん……。俺も若くないからな」
「ふうん」
納得顔の妻を複雑な思いで見た。言っていることは表面上間違いではなかったが、内実は違っている。
俺の心臓は健康オタクだった。酒やタバコはもちろんのこと、肉ばかり食べていると野菜を摂れと促す。夜に小腹が減って夜食を食べようとすると、激しく抵抗した。通勤時に一駅分歩けと言い出したのも心臓だ。めんどくさい奴だと思う反面、体調も良くなったのだし、悪くないだろうと思う自分もいた。
「おーい安川、今日大崎と飲みに行くんだけどさ、お前も行くか」
高村の声のかけ方が、以前は〈行くぞ〉だったが、このところは〈行くか〉になっている。このところ断る時が多くなっていたので、自然とそんな言い方に変わってきているのだ。あまり付き合いが悪いと、そのうち誘ってくれなくなる。さすがにそれは寂しいので、時々は行かなければと思う。
「おう、行こう行こう」
ドドドドッ、ドッドッ。
心臓が抗議の不整脈を始めた。
――お前なあ、サラリーマンに付き合いってものがあるんだぜ。確かに体調には良くないけど、仕事を円滑に進めて行くには大切なんだから、静かにしてくれよ――
ドッ、ドッ、ドッ……。
――そうそう、いい子だ。今日は静かにしといてくれよ――
定時が過ぎて、俺と高村大崎の三人は、ウキウキしながら行きつけの焼き鳥屋へ向かった。とりあえずビールとめいめいがお気に入りの焼き鳥を頼む。
「ねぎまとつくねの塩二本ずつ」大崎。
「俺はももとねぎまのタレ」高村。
「ねぎまと鶏皮、塩で二本ずつ」俺。
ドッ、ドッ、ドドドド。
――なんだよ――
ドッ、ドド、ドドドドッ。
――飲みに行くのは納得したんじゃないのか――
ドドッ、ドッ、ドッ、ドドド。
――もしかして、鶏皮で反応したのか――
ドッ、ドッ、ドッ。
――確かに鶏皮は油が多いけど、俺の大好物なんだからさあ。たまには食べさせろよ――
ドッ、ドドドドッ。
――うるさいうるさい。絶対食べてやるからな――
ドドドドドッ、ドッ、ドッ。
「安川、どうかしたか」
隣にいた高村が不思議そうな顔で見ている。
「えっ?」
「いきなり深刻そうな顔をし始めるからさ。仕事でトラブルでもあったのか」
「何でもないさ。気のせいだよ」
「そうだよな。お前、トラブったら逃げ足だけは速いもんなあ」
ヘラヘラ笑う高村へ、曖昧に笑い返す。
――よく考えたらさ、不整脈をさせたって俺に実害はないんだよな。もちろん、確かにお前は俺にダメージを与えられるよ。でもな、俺に危害を加えたら、お前もやられるんだぜ。わかっているのか――
ドッ、ドッ、ドッ、ドド。
――そうだろ。お前につべこべ言われる筋合いなんかないんだよ――
「鶏皮追加二本」
心の中で、にやりと笑う。
ドッ、ドドド。
――へへへ。不整脈をさせる以外に何もできやしないだろ。これからは俺の自由にさせてもらうから――
不意に目の前がちかちかした。
めまいだ。考える暇もなく、意識が飛んだ。
次の瞬間目を開けると、天井と、心配そうな顔で見下ろす高村と大崎の顔が見えた。床にひっくり返っていたのだ。
「おい安川、大丈夫かよ」
「うん、ちょっとめまいがしただけだ。何ともないよ」
「今日はそのまま帰れよ。お前も五十近いんだから、酒を飲んでて突然死にでもなったらえらいことだぞ」
カウンター席に座ろうとしたところを、高村がいさめる。
「そうですよ。注文キャンセルしときますから、今日は帰った方がいいですよ」
店の大将もカウンターの向こうから出てきた。
「うん……。まあそうだよな」
倒れた理由はわかっていたが、ここで言っても誰も信じないだろう。俺は詫びを言って店を後にした。
――お前、自分を止めただろ――
歩きながら、心の中で心臓を怒鳴りつけた。
ドッ、ドッ、ドッ。
――馬鹿野郎がっ、俺が死んだらお前も死ぬんだぞ。お前は一瞬止めただけのつもりかもしれないがな、脳がやられたらアウトなんだぞ――
ドッドッドッドッ。
――笑ってごまかすんじゃねえよ。いいか、二度とこんなまねするんじゃねえぞ。危なくってしょうがねえや――
ドッ、ドッ……。
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