第2話
「おーい安川、ちょっと行こうぜ」
同僚の大崎が人差し指と中指を口に持っていく。タバコの誘いだ。
「悪い……。最近半分に抑えているんだけど、今日の分はもう全部吸っちゃったんだ」
「なんだよ。嫁さんがうるさいのか」
「そうなんだ。もう歳なんだから禁煙しろって言われているんだけど、なかなかやめられなくててさあ」
「で、妥協して半分にしているってわけか」
「そうなんだよ」
「俺も新婚当初は言われたけどな、今じゃ子供の前で吸わなけりゃ何にも言われないよ。むしろ肺がんで死んでくれれば、家のローンも保険金で払えるとか思ってんじゃねえのかな」
大崎がヘラヘラ笑いながら喫煙所へ歩いていく。俺は内心ほっとしながら後ろ姿を見つめていた。
まさか、心臓に止められているなんて、口が裂けても言えなかった。
それが起きたのは、昨日のことだった。いつものように、十一本目タバコを吸おうと、箱から出したときだった。
ドキン、ドッ、ドドド。
心臓が、激しく鼓動し始めた。
口に運びかけた手を止め、タバコを箱に戻す。
鼓動が正常に戻った。
――タバコの吸いすぎだって言うのか――
心の中で問いかける。
ドン、ドン、ドン。
ゆっくり、大きく鼓動した。
心臓のくせにしゃらくさいと思ったが、吸い過ぎなのは間違いなかった。俺もそろそろセーブしていかなきゃとは思っていたのだ。ムキになって吸うのも大人げないし、ここは心臓の言うとおりにしたがって、十本でやめることにした。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
納得したということか。確かに喫煙者は心筋梗塞が多い。タバコを吸うのは、心臓にとって迷惑この上ない話だ。
夕方になり、終業の時刻が近づいてきた。上司が席を立ったところで、大崎ともう一人の同僚である高村が近づいてきた。
「今日は残業するのかよ」
「ないない」
この二人が来た時点であらかた用件がわかっていた俺は、ニタリと笑った。
「だったら帰りに一杯どうだい」
「いいねえ」
「決まりだ」
定時を過ぎると、俺たち三人はまだ残業をしている奴らを尻目に、そそくさとパソコンを閉じ、会社を出た。
「赤井君はまだかりかり仕事していたじゃないか。お前は手伝わなくてもいいのか」
ニタニタ笑いながら高村が話しかける。
「いいって。あいつはまだ若いんだし、やらせとけばいいんだよ」
「俺らと違ってえらくなる余地はあるんだしな」
「そうそう。俺らみたいに五十近くにもなって管理職じゃなけりゃ、もう先は見えているもんな」
大崎がため息をついた。
「これで景気が悪くなったら、俺たち真っ先に首を切られるんだろうなあ」
「よせよせ、暗い話ばっかりするんじゃねえよ。これから飲みに行くっていうのによ」
前を歩いていた高村が振り向いて顔をしかめた。
「ごめんごめん。おいしいビールと焼き鳥が待っているのにな」
「いやいや、刺身とポン酒だな」
「焼肉とチューハイっていうてもあるぜ」
あれやこれやと悩んだ末に、最近開店したばかりの唐揚げがウリの居酒屋へ行くことにした。
入店して、早速唐揚げとビールを頼んだ。程なく店員が持ってきた山盛りの唐揚げに、テンションが上がる。ビールを流し込みながら、夢中で頬張った。
「丸岡の奴、次の異動で名古屋支店長に内定したみたいだぞ」
高村が思わせぶりな笑いを浮かべた。
「お前なあ、さっき暗い話をするなって言ってたのによお。自分で暗い話を振ってどうするんだよ」
「同期の動静を話題にして、何が暗いって言うんだよ」
「名古屋支店はウチの会社で売り上げトップなんだぜ。歴代の名古屋支店長がその後どうなるかなんて、お前もよく知ってるだろ」
「丸岡も、とうとう取締役が見えてきたって言う訳か」
「はあ……」
高村が今日、俺たちを飲みに誘った意味がようやくわかった。スタートラインは同じなのに、一方は取締役、もう一方は係長止まり。こんな現実を共有し、傷を舐め合いたかったに違いないのだ。
ああ、嫌だ嫌だ。今日はべろべろになるまで飲んでやる。既にジョキ二杯を開け、三杯目を頼むため、テーブルにある呼び出しボタンを押そうとしたときだ。
ドキッ、ドキッ、ドキン、ドッ、ドッ。
不整脈が起きた。
「どうした?」
呼び出しボタンに向かって手を伸ばしたまま、動きが止った俺を見て、高村が不思議な顔をした。
「いや、ちょっとね……」
「なんだ。ビールでも頼もうとしたんじゃないのか」
「どうしようかと思ってさ。今日は止めてウーロン茶にしとくよ」
「なんだよ。お前がビール二杯で止めるなんて、初めてだぞ。タバコだって午後から吸ってないだろ」
「実は、最近心臓の調子がおかしくてさ。色々セーブしているんだよ」
「病院には行ったのか」
「うん、だけど異常なしなんだってさ」
「それでも心臓の具合が変なのか」
「ちょっと不整脈気味なんだよ」
「だったら別の医者に診て貰った方がいいんじゃないのか。お前が見て貰った人が、どこか見落としているかもしれないぞ」
「そうかもしれない」
一応口にはしてみたものの、もう一度やっても結果は同じだろうなと思う。心臓が意志を持っているのだから、検査中はしらを切っているに違いない。もちろん、そんな話はできないが。
シメのラーメンを断り、俺は帰路についた。
――おい心臓、お前は俺の行動を、あれこれ注文付けるつもりなのかよ――
ドキン。
――もちろん健康は大事なんだけどな、人には付き合いって物かあるんだぜ。ま、お前にはわからないだろうけどよ――
ドッ、ドドドド。
――おいおい、怒るなよ。だってお前の相手は俺一人なんだけど、俺はいろんな奴らと付き合わなけりゃ行けないんだぜ。確かに酒もタバコも控えめにしなきゃなんないけどさ、あれこれ注文を付けられてもな、困るときだって有るんだからさあ。頼むよ――
……。
――おい、何とか言えよ――
……。
全く。都合が悪くなるとシカトかよ。
ドッドッドッドッ
――くそっ、笑いやがったな。――
腹が立ったが、心臓は俺の一部だ。俺が俺を罵倒するなんて、妙な話だ。だんだんと頭がこんがらがってくる。
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