笑う心臓

青嶋幻

第1話

 このところ、胸に違和感を感じるようになった。時折、心臓が不規則に鼓動するときがあるのだ。いわゆる不整脈という奴なのか。

「ああ、ビールはいいや」

 妻が俺を一瞬不審げに見て、手に持っていた缶ビールを冷蔵庫に戻した。

 ビールの代わりに味噌汁を一口のみ、トンカツを頬張る。甘いソースと衣のさくっとした感覚、中の肉汁が口の中で絡み合い、得も言われぬ幸福な気分になる。これでビールがあれば、もっと幸せなんだが。そこで心臓を意識しする。不安が襲ってきて、ひやりとした気分になる。

「急にビールをやめるなんて、どこか具合が悪いんじゃないの」

「そう思うか」

「だってお酒を飲まないなんて、この間インフルエンザにかかったとき以来じゃないの」

「実は……」

 俺は心臓の症状を話した。

「お医者さんに診て貰った方がいいんじゃない」

 妻が心配そうな顔をする。

「でも、半年前の健康診断は異常はなかったし、もう少し、様子を見ていようと思うんだけど」

「だめだめ、こういうのは早い方がいいのよ。症状が悪化してからだと、手遅れになるわ。だいたいお父さんがあたしにそんな話をするのは、お医者さんに行こうか迷っているからでしょ」

 確かにそうだった。二十年も連れ添っていると、俺の考えることがわかるのだろう。正直言って若くはないし、健康にいいことなんて、ほとんどやってない。一日一箱タバコは欠かせないし、仕事が遅くなっても平気で同僚と飲みに行ったりする。もちろん運動なんか一切しないから、典型的なメタボ体質だ。

 早速病院の予約を取り、半月後、精密検査を受けた。採血から始まって、CTスキャン、エコー検査、血圧脈波とかいう検査もした。心臓のみの検診だけあって、色々な項目があるんだなと思う。

 一週間後、病院から結果が送られてきた。

「ふうん、コレステロールは高いけど、ほぼ異常なしなんだね」

「なんだよ、俺が健康でなんだか不満みたいじゃないか」

 仏頂面で報告書を読む妻を見て、思わず腹が立ってくる。

「あれこれ心配して、なんだか損しちゃった気分になるのよ」

 妙な理屈をこねやがると思うが、ここで争っちゃいけない。二十年一緒に暮らしてきた教訓だ。何度くだらない言い争いが、大げんかに発展してきたことか……。

 ともかくこれで安心した。今日からは大いにタバコを吸ってビールを飲んでいこう。

 不意に、心臓が激しく鼓動した。

 まるで、俺の心を察知しているかのようだった。

 ぎょっとして胸に手を置く。

「どうかしたの」

 妻が不審げな顔をして俺を見た。

「どうって……。俺、なんか変な顔したか」

「なんだか、びっくりしたような顔したから」

「気のせいだよ」

「そうかしら」

 なおも不審げな妻の視線を避けるようにして立ち上がり、トイレに入った。スボンを脱いで便座に座り、一息つく。書斎なんてしゃれたものを作る余裕なんてない、狭いマンション住まいにとって、トイレが唯一のプライベート空間だ。

 改めて右手で胸を押さえる。反応はない。次に右手の上に左手を重ねて、強く押してみた。

 ドキン。

 心臓が激しく鼓動した。

 反射的に、両手を離した。

 まさかねえ。

 もう一度胸を押さえる。

 ドキン、ドキン。

 今度は二度大きく鼓動する。

 心臓が俺の意志に反応している。

 あり得ないだろう。

 ドキン、ドキン、ドキン、ドキン。

 鼓動が激しくなる。

 俺は大きく深呼吸し、心の中で心臓に語りかけてみる。

――お前、意識を持っているのか――

 ドキン。

――もしそうなら、二回大きく鼓動してみろ――

 ドキン。ドキン。

――今度は三回だ――

 ドキン。ドキン。ドキン。

 間違いない。こいつは自分の意志を持っている。

――ドッドッドッドッドッ――

 唖然としている俺に、心臓は連続して大きく鼓動を繰り返した。

 なんだか、笑っているみたいだった。

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