猫曾木団地ファイトクラブ
猫曾木団地は、どんな匂いがするか試してみようと真夏に二週間置きざらしにしたハムみたいに死臭が漂っていた。またどこかの部屋で誰かが死んでいるのだろう。八百世帯以上が住む、高齢者率がやたら高いこの巨大な貧民窟では年に何度かあることだ。大半は孤独死。警察は来ないし、誰も呼ばない。役所も同じだ。連中が俺たちの味方でないことは住民の誰もが分かっていた。
俺は、払い遅れの自治会費をお袋に握らされ、四十九号棟の会長のところまで直接納めに行くところだった。ぴったり千円で駄賃はなし。厚い葉がこんもり繁った木が無造作に植えられた敷地はやたらに湿気てかび臭く、夏になると異様に蒸す。そこに死臭が混じり合い、団地は不穏な静けさをたたえている。
「508のバカ息子」
駐輪場のところに205号室の吉田のおっさんがいた。ガキの頃から俺のことをこう呼ぶが、名前を覚える気もその能力もない男だ。
「お前のかーちゃんのケツは一体どこまでデカくなるんだ」
「ほっとけ」
いつもの挨拶だ。このオヤジはいまだに俺のお袋に気があるらしい。すれ違う度にお袋のケツを振り返っていたから子供の俺でも気がついた。それから三十年。おっさんももう還暦近いはずだが、一度として働いているところを見たことがない。どっちにしろ、ケツのことは本当だった。お袋のケツは年々膨れ上がる一方で、今やまるで片方のケツに一人ずつ子供を身籠っているみたいになっていた。
吉田のおっさんが染みだらけの灰色のパーカーのポケットから何か掴み出し、クッキーみたいに齧った。その何かがジジとネジ式の玩具のような音を立て、おれは思わず目を細める。
「くそっ、蝉かよ!」
「蝉で何が悪い」
おっさんはもう片方の手に持ったレモン汁を胴体だけとなった蝉に数滴垂らし、ひょいと口に放り込んだ。見るのもおぞましい活火山のような吹き出物のあるたらこ唇の間から、乾いた咀嚼音が漏れる。
「レモンの味がするぜ」
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