第19話 夏休みの終わりに

 チリンと風鈴が鳴った。

 私と隼人、そして真琴は居間でそうめんをすすりながら、ぼんやりとテレビを眺めている。

 既に高校野球も終わってしまったから他に特に見たい番組も無く、適当な情報番組にチャンネルをあわせたのだが、やかましいだけであまり頭には入って来なかった。

 寝不足なのも理由の一つなのかもしれない。

 昨晩は中村君と深夜まで長電話していたし、隼人は最終戦の中村君との試合を何度も見返して結構な夜更かしをしてしまったのだ。おかげで二人して起きたのは昼過ぎで、母からは「やっぱり変なとこで双子よね」とからかわれた。

 何かデジャヴがあるが、夏休みでは昼までぐうたら寝て三食そうめんとかよくある話だ。

「やっぱ、納得いかないよなあ」

 昨日の昼間、折原から届けられた最終戦のDVDを見返して、これまで何度か聞いたぼやきが今日も漏れた。

「何が?」

「中村との試合、終盤までは俺ペースだったのになあ。飛行機投げ喰らったのは仕方ないとして、アナコンダヴァイスから逆片エビの流れがなあ」

「これで何度目。アンタの完敗なんだから、いい加減、負けを認めなさいっての」

 私は中村君の彼女なので、隼人を慰めるつもりなんかない。

「なあ、真琴。お姉ちゃん、酷いことを言うよなあ」

 急に話を振られた真琴は、そうめんを口にしたままううんと首を捻った。

「真琴も悔しかったけど、あの試合はお兄ちゃんの負けやわ」

「真琴……」

がっくりと首をうなだれて隼人は深くため息をついた。

「でも、あの時のお兄ちゃん。凄くカッコ良かったで」

「そう言ってくれるのはお前だけだよ」

 隼人は急に機嫌を良くして、あとでアイスあげるからなと真琴の頭を撫でた。

 確か冷蔵庫に入ってないから、おそらくはお店のアイスを持ち出してくるつもりだろう。

 持ち出したら、お母さんにチクってやろう。

「隼人。お店のは売り物なんだからね。勝手に持っていったら駄目だよ」

「おい、愛美のやつ、あんなこと言ってるぜ。俺がそんなことするわけないのにな。鬼だよな」

「うん。鬼やなあ」

「我々はあ、磯崎愛美の残忍なテーコクシュギテキなブベツテキヨクアツに対し、断固これを拒否し、闘うものであ~る」

「だんこ、たたかう~」

 食べ物に釣られた真琴が隼人の味方をし、村上先輩の口調を真似たようなシュプレヒコールを上げた。

 ところで、てえこくしゅぎて何なんと尋ねる真琴に、何でもきっちりしてないと気が済まないで、融通が利かない石頭てことじゃねえかなと言いながら隼人は首を傾げた。

「兄ちゃん、色々と難しい言葉を知っとるなあ」

「へへん。凄いだろ」

 感心した顔つきで目を輝かせる真琴に、隼人は得意気にそうめんをつるりとすすった。

「……」

 私は黙って隼人と真琴の呑気なやりとりを聞いていたが、隼人は〝帝国″を〝定刻″と勘違いしているのだろう。

 下手に触れると私にも関わってくることになる。

 突っ込みを入れたい気持ちにはなったけれど、私も歴史の授業で聞いただけなので、恥ずかしながらどういう意味かはよく知らないのです。

 辞書も携帯も手元に無いので詳しく説明できないから、喉に引っ掛かったもやもやとした異物を隼人し込むようにそうめんをすすっていた。

 以前なら大して気にも留めなかっただろうけど、保母さんというものを意識するようになってからは、真琴みたいに純粋な子どもが間違った知識を堂々と植え付けられる光景は自分の無力さを感じてしまう。まあ、今回の件は後で真琴に教えてやればいいとしても、何かしらとっさの受け答えが必要とされる場面に出くわすかもしれないのだ。その時、今みたいな反応ではちょっと情けないんじゃないだろうか。

 やっぱり、もっと勉強しとかないと駄目かなあ。

 勉強という言葉が浮かぶと次に連想したのは〝G・B・H″のメンバーと中村君の顔だった。

〝G・B・H″で特に親しくしているのは、〝GK″こと金沢さんだけど、夏休み中は塾通いで日中に会う機会がほとんどない。となるとやはり中村君になる。隼人と違って勉強できるし、無目的に遊んでばかりいるよりこっちの方が堂々と二人でいられる。

「ねえ。アンタらが練習再開するのは明後日からだっけ?」

 昨日の電話で中村君がそんなことを言っていたような。

「そうだよ。中村と会うの?」

 うんと頷いてから、内心を見透かされたことに気がついて、慌てて顔を上げるとニヤついている隼人と目が合った。

 クソッ、迂闊だったわ……。

「スゲえよなあ、愛美は。いつも女ばっかで集まって、雑談ばっかの青春の欠片もなかったのに。急に勝ち組になりやがって」

「あんたねえ……」

〝G・B・H″の連中が聞いたら殺されるぞ。精神的に。

「なあ、真琴。愛美のやつ、俺を倒した敵なんかと付き合ってんだぜ。酷い奴だよなあ」

「真琴、モコちゃんも優しくておもろいから好きや」

 真琴は中村君をモコちゃんと呼ぶ。

 由来はもちろんリングネームの〝モコス″からで、中村君と付き合うようになって、家に来ては真琴とも良く遊んでくれている。始めはお互いに緊張と照れでぎこちなかったけれど一時間もしないうちに真琴はすっかりなついてしまっていた。真琴にしてみると、隼人が〝お兄ちゃん″なら中村君は〝お父さん″らしく、心安げに甘えている。

 隼人はというと、真琴の意外な反応が面白くないのか仏頂面になっている。

「じゃあ、いつか俺と中村が再戦したら、真琴はどっち応援してくれるんだよ?」

 再戦という言葉の意味がわからず、問いたげな目をして私を見るので、また戦うという意味だよと教えると、真琴はああと返事をしてからモコちゃんやなと即答した。

「ええええ……」

 風船から空気が抜けていくかのように萎れて背を丸めていく隼人に、真琴が元気づけるためなのだろう握りこぶしをつくって言った。

「でもな。モコちゃんには姉たんがいるし、モコちゃんはきっと、独りになっている兄ちゃんを応援してやってと言うやろうから、またサイセンがあったら兄ちゃんを頑張って応援するで」

 なるほど。たしかに中村君ならそんなことを言いそうだ。

 私の頭の中には、まるでタイトルマッチに挑むような悲壮感を漂わせながら「あいつを応援してやってくれねえか」と、真琴の目をじっと見て微笑む中村君の姿が浮かんできた。

 想像するだけでもかっこいいじゃん、中村君。

「優しいよな。真琴は……」

 力なく涙目になって隼人が真琴の頭を撫でてやると、単純に褒められたと思っている真琴は嬉しそうにごちそうさまと言い、自分の食器や箸を持って台所まで運んでいった。タライのなかのそうめんは既に空となっている。

「真琴、中村に盗られちゃったな」

 のろのろとした手つきで、隼人は自分の食器を重ね始める。

「別にアンタが嫌われたわけでもないんだから、そんなショックを受けなくてもいいでしょ」

 自分から絡んできておいて自業自得だっつうの。

 私はナマケモノみたいにまだるっこしい隼人の手から、食器を奪い取るようにしてアルミ鍋の中の他の食器と一緒にまとめた。

「娘が嫁にいくというのは、こんな気分なのかなあ……」

「もういいから、ちゃぶ台くらい拭いてよね。私と中村君に関係をからかおうとするから、バチがあたったのよ」

「……」

 台所から居間を覗き込むと、隼人が緩慢な手つきでちゃぶ台を拭いている姿が見えた。

「姉たん。なんで兄ちゃんは急に元気がなくなったん?」

洗い物を片づけている私の隣で、居間にいる隼人を見ながら真琴が訊ねた。

「……まだ試合の疲れが残っているんじゃないの。明後日から練習だし」

 ふうんと返事をしたが本当に言いたかったのは別の話らしく、すぐにトーコちゃんちに遊びに行ってええかなと聞いてきた。

 ト―コちゃんとは同じ幼稚園に通っている矢野斗緒子という女の子で、真琴と仲が良い。

 家は出てから右手の二軒先にある。

 斗緒子ちゃんは人形遊びが好きな大人しい子だし、表の通りはともかく路地に入るとほとんど車の通りもない。これまでに何度か遊びに行っているから、私は川の傍や遠くに行かないこと。家の人に迷惑を掛けないこと。ご飯までには戻って来ることを約束させると、元気よく頷いて奥の間に掛け込み、お気に入りのつば付き帽子を被って家を飛び出して行った。

 真琴がいなくなると急に家の中が静かになり、斗緒子ちゃん家の玄関先まで見送りに行っていた隼人が戻って来て、私への報告と台所にふきんを持ってきた時を除いては特に会話も無く、私は洗い物に専念して隼人はテレビを眺めていた。

 テレビの騒音に紛れて風鈴の音がわずかな風に揺られて良く響き、撫でるようなそよ風が台所を吹き通る。今日の空はカラッとしていて、昨日のように突き刺すような日差しも和らぎ、風も涼しくて夏らしい夏と言えるような過ごしやすい天候だった。

 明日もこんな天気だったら良いなと最後の小皿を食器棚にしまうと、私は隼人がぼんやりとテレビを眺めている居間に戻った。

「まだ気にしてんの?子どもの言うことにいちいち落ち込まないでいいのに」

「ちげえよ。俺だってそこまで引きずらねえって。村上先輩のこと考えてんだよ」

「……村上先輩?」

「ああ、文化祭は村上先輩にとっちゃ高校生活、最後の試合になるからな。明後日から気合入れてやらねえとよ」

 そのことか。てっきり村上先輩に気があるのかと思った。

 私の浅はかな考えをよそにして、折原も大変だしよと隼人は幾分重々しい口ぶりで言った。

 隼人の声に幾分か緊張の響きも含まれているのはあの激戦の後、閉会式でとある事件が起きたからだった。

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