第17話 え……?

 場の空気を察してレフリーが場外カウントをとらないのを見てとると、隼人は中村君を強引にリングに上げて上半身を起したまま動けないのを見てとると、隼人はロープに向かって駆け、ロープの反動を利用して勢いをつけると、スライディングするような格好で中村君のアゴをめがけて肘の攻撃がさく裂した。

〝でたあ!スライディング・ニー!〟

 田中さんの絶叫にも似たマイクが、テンポの良い声で会場に響き渡る。

隼人は衝突した勢いのまま圧し掛かるようにしてフォールを取りにいった。カウントが二までされたところで中村君の身体が跳ね上がる。だけど、中村君はそれ以上動けずまだマットの上でぐったりとしていた。

 隼人も中村君の様子を見て、ここで勝負を決めるつもりだったのだろう。隼人はコーナーのトップに素早く上がると、決め技の一つとなっているファイヤーバード・スプラッシュを仕掛けた。

 だが、隼人の全体重が中村君の身体に圧し掛かる瞬間、中村君は膝を立てた。隼人の腹部に中村君の硬い脛がめり込む。レガースを着用しているとはいえ、その衝撃は尋常ではないはずで、隼人は腹を抑えてマットに突っ伏していた。

「兄ちゃん! 隼人兄ちゃん!」

 真琴が悲鳴にも似た声を上げた。

 中村君は先ほどまでの疲労困憊した姿は演技だったかのようにスクッと立ち上がり、隼人の右足を掴むと逆片エビ固めで抑え込んだ。隼人の腰の上にしっかりと腰をおろし、足を深く持って隼人の腰や関節はもちろん、ふくらはぎの急所を執拗に攻め続けている。悲鳴を上げてマットを這いながらロープを掴もうとする隼人に対して、中村君も逃さないように必死の形相で隼人の足を締めあげている。

「磯崎君!こっち、こっちだよ!」

 折原がマットに身を乗り出すようにしてマットを叩き、手招きしながら隼人を呼んでいる。

 途中まで両方に声援を送っていた折原だが、アイツとしてはやっぱり隼人を応援したくなるらしい。隼人の名前ばかり呼んでいる。

自然と折原が隼人側、村上先輩は中村君側のセコンドにつき「逃すな!」「腰を落とせ!」としきりに叫んでいる。

 何とか隼人がロープを掴むと折原は拳を握って飛び跳ねていたし、場内からはどよめきと共に拍手が起きた。

 レフリーが2人の間に割って入り2人を離すと、中村君は立ち上がるやいなや隼人の腰をつかんで持ち上げ、強引にバックドロップでマットに叩きつける。

 豪快な音が場内に鳴り響いたのだが、隼人は鬼のような形相ですぐに立ち上がると、中村君の後ろにまわってバックドロップで叩きつける。中村君も負けずに再びバックドロップでマットを揺らした。

バックドロップのあと、二人は同時に立ち上がると今度は張り手の応酬が始まった。

 会場はますますヒートアップし、二人の張り手の音が響く度に歓声が沸く。

だが、打撃に分がある隼人の勢いが次第に増し、中村君が劣勢となったところで強烈なローが中村君の太ももを捉え、よろめいたところをハイキックが中村君の頭部にヒットし、中村君は前のめりに崩れ落ちた。

 まるで糸が切れた人形みたいに。

「中村君!」

 死んだ。

 私は思わず叫んでいた。

 何故か泣きそうだった。

「立って! 中村君、立ってよ!」

 そこまでは覚えている。

 大袈裟と思われるかもしれないけれど、その時の私はそう思わずにはいられないほど中村君は酷い倒れをして、よほど動揺していたらしい。

 後で真琴からは「相手の、お兄ちゃんの名前ばっか呼んどったな」とからかわれたほどだったのだが、そんなことは真琴に指摘されるまで全く気がついていなかった。

レフリーが駆け寄って中村君にしきりに何か声を掛けている。

 他の格闘技ならここで試合を止めているところだろうけど、やっぱりそこはプロレスで、一気に止めを刺しに行かずに隼人は中村君が回復して立ち上がるのを待っているし、レフリーは中村君にしきりに声を掛けて意識の確認をしながら、少しでも体力を回復させようとしている。

 隼人はレフリーを荒々しい手つきどかして中村君を強引に立たせると、中村君の頭を下げさせて腿に挟み込み、中村君の腰まわりを両腕で固めた。

「行くぞお!」

 隼人が咆哮すると、力を込めた両腕に血管が浮き出るのが観客席からもはっきり見えた。

〝なんだ? 行くのか、行っちゃうのかあ?〟と田中さんの実況が、観客を煽るように次第にテンションを高まっていく。

〝シットダウン式ラストライドォォ!″

 田中さんのアナウンスが終わると同時に、隼人は中村君の身体を持ちあげると、タイツの両サイドに握りを変えさらに高い位置へと抱えあげる。そこに生じたわずかな溜めによって、場内は一瞬、シンと静まり返った。

 ふわりと中村君の身体が舞った。

 高々と抱えあげられた中村君は、隼人のパワーによる猛烈な勢いでマットに背中から叩きつけられ、ドゴンと爆発したような音がマット上からさく裂した。

 飛ぶようにしてレフリーがやってきて、着地と同時にカウントを始める。

 観客も一緒になって。

「ワン!ツー!」

 スリーと言い掛けた時だった。

 いや、本当は言っていたのかもしれない。

 リングサイドでは熱くなって鬼マネージャーモードになっている折原が、「カウント3.01だろうが!」とレフリーに文句言っていたし、場内からも「ええ?」と言わんばかりのどよめきが起きている。

 でも、レフリーと私にはカウント2.9。ギリギリセーフだと思えた。

 とにかく、中村君は肩を上げてスリーカウントを免れた。

 だけど、だけど、中村君はフラフラだ。

 レフリーにすがるようにして中村君は漸く立ち上がったけれど、目の焦点も合っていないし口も力なく半開きの状態だった。

 誰の目にも終盤に近付いているのは明らかだった。

 隼人がもう一度技を決めて終わり。

 おそらくフェニックス・スプラッシュ。

 私を含めて、観客の誰もが同じ考えだっただろう。

 客席からは再び〝K・P・C″コールが起こり、折原も周りの選手やスタッフもコールに合わせてマットを叩いている。私はもういいからタオルを投げてよと思っていた。真琴は目をまん丸にして隼人を見つめている。村上先輩だけがマットを叩きながら中村君に「来るぞ、よく見て! よく見て」と周囲の大歓声に負けないくらいに怒鳴っていた。

 隼人も何か技を仕掛けてから、フェニックス・スプラッシュで勝負を決めるつもりだったんだろう。隼人は右腕をふっと伸ばした。その時は何も思わなかったけれど、あとから考えるとかなり不用意な行為だったと思う。

 中村君の身体が不意に沈んだ。

 隼人の腕をとると身体の下へと潜り込んで飛行機投げでマットに投げつけると、袈裟固めの姿勢で隼人を抑え込む。身をよじって逃れようとする隼人だったが、中村君は袈裟固めの姿勢から腕を蛇のようにからめてアームロックを仕掛けている。

 ここで、アナコンダヴァイスかよと隣の観客が感心した様子で首を振った。

 首と腕を同時に極めながら攻める中村君に、隼人はとにかく身体をよじって動いている。あれだけ動けばパワーもかなり消耗するだろうが中村君だって限界に近い。汗と疲労で次第に中村君の極めが緩んでいく。

 パワーとスタミナの残量で勝る隼人が、中村君の技を解いた瞬間だった。

 慌てて立ち上がろうとした隼人のバックにまわった。

 胴をクラッチして再びグラウンドに引きずり込むと、腹ばい状態となった隼人は中村君から逃れようと身体を這ったが、中村君は隼人の右足を抱えアンクルホールドを極めているから容易に逃さない。隼人はロープをつかもうとするが足が極められているために身体が宙を泳いでさらに引きずりこまれた。

 中村君はリングの中央まで引っ張り込むと、下半身に圧力を掛け続けたまま隼人の背にまわると反転して、逆片エビ固めで一気に締めあげた。

 マットの中央で逃れるロープも無い。態勢はさっきの逆片エビ固めみたいな容赦のない攻めだったが、さっきよりエグイ角度で隼人の腰が反っていたし足首に捻りも加わっている。

 いくら頑丈な隼人でもひとたまりもなかったのだろう。

 レフリーが問いかける前に激しくマットを叩いた。

 レフリーの合図とともにカン、カン、カンとゴングの鐘が場内に響き渡る。

「……学プロでこんな熱いの見られるとは思わんかった」

「やばすぎだよな」

 周囲の観客からはそんな声が聞こえてくる。

 試合が終わっても隼人は突っ伏したままで、中村君は呆然と天井を見上げていた。思わぬ結末に場内は総立ちで、拍手と声にならない咆哮にも似た歓声に満ちていた。

 折原と他の選手がリングに上がると、隼人に駆けよってコールドスプレーを足に噴射しながら折原が何か訊ね、隼人の頭が僅かに上下に揺れて応答していた。その横では中村君が村上先輩からアイシングを受けている。勝利の喜びよりも試合が疲れの方が大きいらしく、レフリーから勝ち名乗りを受けても立ち上がれないでいた。

「兄ちゃん、負けたん……?」

 リングの上で何が起きたのかいま一つ把握できていない真琴は、呆然とした表情で私を見上げた。

「うん……。隼人、負けたの」

「そんなあ……。兄ちゃん、あんなカッコ良かったのに」

「でも、相手のお兄ちゃんも頑張ってたでしょ?」

「そやけど……」

 真琴は不服そうに口を尖らせ、マットの隼人に視線を戻した。

 隼人の方が先に立ち上がり、中村君に肩を貸して抱え起こしている。

 隼人がリングサイドの田中さんに何か言うと、一本のマイクが隼人に手渡された。マイクに荒い息を拭きかけながら、深いため息とともに隼人が口を開いた。

〝……本日はこの炎天天下のなか、ご来場いただき、本当にありがとうございます。……今日、俺はスゲー勝ちたかったんですけど、最後の最後でやられちまいました。……ゴメンな真琴。俺、かっこいいとこ見せられんかった〟

 真琴を彼女と勘違いしたらしい観客の誰かが、彼女はきっとかっこいいと思っているぞと叫んだ。その声に同調するかのような温かみのある拍手が場内に満ちた。

「かっこええよ、かっこええよ。兄ちゃん」

 真琴は小さな手で思いっきり拍手をしている。

 ありがとうございますと言って深々と頭を下げると、隼人は中村君を抱える腕に力を込めて揺さぶった。

〝おい、中村。この試合勝ったら言いたいことがあったんだろ。お前は勝ったんだ。はっきりと言えよ″

 頷く中村君にマイクを手渡し、隼人は中村君の身体を離した。肩で息をしながら腰に手を当てて俯いている。しんと場内は静まり返り中村君のマイクを待っている。

〝……俺、俺たちまだ高校生なんですけど、観客のいる前でこんな試合をさせてもらえるなんて数か月前まで思ってもみませんでした。この七連戦。とてもきつかったんですけど、思いっきりやらせてもらえて、今は夢の中にいるような爽快な気分です〟

「……」

 観客席は静寂に包まれ、中村君のマイクに耳を傾けている。

〝普段の俺なら無理だけど、この夢のような世界なら、今なら何でも言える気がする。今、俺はある想いをずっと胸の内に抱えていました。この試合に勝ってそれを出そうと思って試合に臨みました。俺のわがままですけど、今日はそれを言わせて下さい!〟

 大会前、中村君が勝てばわかると言ったあの言葉が私の中で浮かんだ。

 中村君は何を言おうとしているのだろうか。

 じっと中村君の横顔を見つめていると、中村君は不意に私の顔を見た。

〝……磯崎愛美!〟

「え? うん、あ、はい!」

 思わず返事をして立ちあがってしまい、周囲から好奇の視線が一身に浴びせられた。座るに座れず、変なところで注目されて顔がどんどんと熱くなるし心臓の鼓動が猛スピードで加速していくのがどうにも困る。

 中村君がマイクを持ったまま、強い足取りでずかずかと私のところまで近づいて来る。リングサイドまで近づくと片方の手でロープをぎゅっと握りしめた。

 まだ中村君の息は荒く乱れていたが、顔が急に真っ赤になって試合の疲労よりも別の理由で呼吸が乱れているようにも見える。何度目かの深呼吸の後、肺から出かかった息をのみ込んだ。

〝……中学の時、一目会った時から好きでした!俺と、付き合って下さい!〟

「え……?」

 一瞬の沈黙のあと、試合直後と同じくらいの大歓声が場内に響き渡った。

 折原や田中さんを始めとしたスタッフや他の選手も、驚きを隠せない様子で互いに顔を見合わせ、中村君の思ってもみない行動に戸惑いを隠せない様子だった。

 ただ、隼人や村上先輩は無表情のままじっと中村君の背中を見たままで、そのうち隼人が中村君に近づいて何か声を掛けている。

 私は頭の中が真っ白になって、真琴の手をつかむと逃げるようにして会場を後にした。途中で周りの人から色々と声を掛けられたけれど、ただの雑音みたいに何も頭に入っては来なかった。



 それからどれくらい時間が経過したんだろう。

 私は真琴とともに会場である体育館を抜けだしてから、少し離れた広場に設置されたベンチに座っていた。

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