第15話 なんだか胸が熱くって

 いつしか、陽の光が和らいで蝉の鳴き声が町を包みこむように響き渡り、隣家の影が庭を覆い始めていた。そのうち、トントンと二階から複数の足音がしてかと思うと、玄関から村上先輩と中村君が現れた。隼人が見送りに二人の後からついてくる。縁側に座っている私達の姿に気がつくと、中村君と村上先輩が軽い会釈を送ってきた。

「中村君、話は終わったの?」

「ちょっとのつもりだったけど、長居しちまって悪いな」

 眉をひそめて、いかにも申し訳なさそうな微笑を浮かべる中村君は相変わらず渋いのだけれども、今度は両方の鼻から鼻毛がひょっこりと顔を出し、息に合わせてぴょこぴょこと左右に揺れているのが見えた。

 こんなに人がいるのに、どうして誰も気にならないのだろうか。

「……どうしたの?磯崎さん」

「ううん……。なんでも無い」

 笑っちゃいそうだから、出来るだけ中村君の顔を視界にいれないようにしよう。

「そういや、当日のお弁当とかどうするの?良かったらウチで持って行こうか?」

 ウチには労働者向けに一個450円のボリュームたっぷりな弁当を売っている。

 あれを一個500円くらいにして売ろうかな。スタッフ含めて全員で50人以上はいるから良い商売になるだろう。商売っ気が働いて提案してみることにした。新規開拓に意欲を燃やしている父にこの話がいけば小遣いも少しは増えるというもの……。

 弁当かと村上先輩が呟いた。

「……愛美くんの温かな声援があれば、一カ月の断食でも私は耐えられるような気がする。加えて愛美くんお手製のお弁当などがあれば、きっと私はどんな困難にも打ち勝てるだろう。そして、君が私に食べさせてくれれば死をも……」

「昼興行だと余り詰めると胃が持たれて動きが悪くなるし、食う暇も無いから、選手やスタッフもいつも軽めか、早めに済ましてバラツキあるんだ。だからいいよ」

 村上先輩が何か黒いオーラを漂わしながら、ぶつぶつ呟いている横で隼人が断ってきた。

 既に当日のコンディション調整で頭が一杯らしく、中村君に開場が十二時だから十一時には済ました方がいいかなと真剣な表情で打ち合わせしている。

 ちっ、残念。

「姉たん。兄ちゃんは明日からお出掛けなん?」

 明日からの七連戦の件について知らない真琴には、今一つ内容が掴めない様子で首をひねって私に訊ねてきた。

「真琴。明日、隼人がこのお兄ちゃん達と闘うんだって」

「……友達なのに? 喧嘩するん?」

 幼児にはやはり内容がイマイチ把握できないらしく、心配そうな表情で三人を見比べている。真琴の頭上には明らかにクエスチョンマークが浮かんでいるのが想像できた。

「喧嘩じゃないのよ。ううんとね……」

 上手い説明が思い浮かばず、私が宙とにらめっこしていると、村上先輩が何を思ったのか握り拳をつくると、振り回すようにして語り始めた。

「そう……。我々は同志! 信頼があるからぶつかり合える。ぶつかり合うことでより信頼や技を高めることができる。名勝負数え唄とうたわれた初代タイガーマスク対小林邦明戦のように。八八年に行われた猪木藤波戦のように! 我々は切磋琢磨することで、日々、進化を遂げるかけがいのない仲間でもあるのだ!」

 村上先輩の激しい演説に、真琴が思わずのけぞる。

 あの、先輩。

 幼児相手に、熱弁を振るうのはやめてください。

 私は素早く傍の隼人に目配せすると隼人は小さく頷き、村上先輩の背後に素早く回り込んでチョークスリーパーで先輩をキュッと締め落とすと、その体勢のまま、そこまで送りますよと言いながらぐったりとした村上先輩をズルズルと引きずって行った。

 こんな時は不思議なもので、ジュニアスターズ並の意思疎通ができる。

「……膝の具合どうだ?」

 隼人と村上先輩を見送りながら中村君が口を開いた。

「うん。もう痛みはひいたよ。軽くなら走れる」

 真琴相手に外で遊ぶ時は膝サポをつけている。ちょっと恥ずかしいけれど安心感が半端無いから、これからは私にとって必要不可欠なアイテムになるんだろう。

「この間のバスケを見ている限りだと、隼人と同じで磯崎の軽くは危なっかしいな」

「気が乗ったからで、あん時だけだって」

「やっぱ、お前ら双子だよ。根っこのところは良く似てる。夢中になると、周りが見えなくなって突っ走っちまう」

「あの馬鹿と一緒にしないでよね」

 ムッとした気持ちが、顔にでたらしい。

 中村君は肩をすくめて悪いなと謝った。

「じゃあ、これで帰るよ。磯崎さんも暇があったら観に来てくれよ」

「ま、暇ができたらねえ」

 おどけたつもりで言ったのだが、中村君は真剣な顔つきで私をじっと見つめている。

「最終日だけでいいから観に来いよ。……最終日は隼人とあたるんだ」

「へえ?なら、あいつに負けないでよ。組技なら中村君の方が強いんだしさ」

 といっても、あの一回見た練習での印象しかないけど。

「ああ、負けねえよ」

 私の軽口を真に受けたのか、中村君は拳をつくってもう一方の自分の手のひらを打った。

パンと乾いた音が鳴った。

「……絶対、負けねえからな」

「どうしたの、中村君。気合入れすぎじゃない?プロレスって……」

 そこで私は口をつぐんで横目で真琴たちを見た。真琴はまだスイカに齧りついていて祖母と何か話している。多くの人に認知されていることだが、やっぱり普通のトーンで話しづらい内容なので、自然と私は声を潜めていた。

「……プロレスて予め勝敗決まっているんでしょ? 気合入れるのはいいけど、そこまで思いつめることは無いんじゃないの? 言葉悪いけどさ」

「決めてないんだ」

「え?」

「隼人との試合は〝これ″なんだよ。知っているのは隼人。それと村上先輩に今話したお前だけ」

 中村君は手をピストルの形にして私に向けた。

 シュートサイン。

 いわゆる真剣勝負だった。

 指を立てたまま、中村君は他の人にはナイショなとその指を口元に寄せていたずらっぽく口の端を歪めてウインクした。その仕草は他の人がやっていたら、気取っているとか馬鹿見たいとか思っていただろうけど、どこか浮世離れした中村君独特の雰囲気だと似合っている上にドラマチックな悲壮感さえ伝わってくる。

「そんな心配そうな顔するなって。シュートと言ってもお客さん前にしているからな。総合みたいに闘うわけじゃない。俺達が見せるのはあくまでプロレス。お互いの技比べ、我慢比べだよ。その中での真剣勝負だ。俺たちのシュート」

「我慢比べって……、避けるんじゃなくて受けきるつもりなんでしょ?そっちの方が危ないじゃんよ」

 相手の肘や張り手を受ける。空から圧し掛かる身体を受け止める。

 関節技を耐える。

 相手の技を受けるという行為がどれほど大変か。

 傍から見ているだけではピンとこないだろうけど、中学の頃に洋平さんや小鳩プロレスの人達が控室で倒れ込み、苦痛に顔を歪ませる姿を間近で見ていた私にとっては、中村君や隼人がやろうとしていることがどれほど無茶なことか感覚で多少はわかっているつもりだ。

「なんで……。なんで、そんな馬鹿みたいなことやるの?」

「〝プロレスとは、ショーに内包されたガチである″てな」

「……え?」

「この試合で俺の青春てやつをぶつけたいからさ。……青春なんて見たことねえけど見える気がする。あいつもわかってくれている。それをお前に見て欲しいんだよ」

「でも……。それがなんで私なの?」

「こうでもしなきゃ、俺は何も伝えられねえんだ」

「……伝えるって何を?」

「当日、俺が隼人に勝ったらわかるよ」

 だから絶対に来いよと中村君はまた皮肉めいた笑みを浮かべると、私が答える前に軽く手を上げて急ぎ足に二人の後を追って帰って行った。

「あの子たち、ホントに仲良いのねえ」

 やがて中村君の背中が建物の影に隠れてみえなくなると、後ろから祖母の声が聞こえて来たが、私はなんだか切なくて、やるせなくて返事もせずに中村君が消えた路地をずっと見つめているままだった。中村君は何が言いたかったんだろう。でも、凄くドキドキする。

「どうしたの?」

 怪訝そうに訊ねる祖母の声に、自分の動揺を隠そうと小さく深呼吸をした。

「……そりゃあ、この一年以上、三人で苦楽を共にしてきた戦友だからね。仲良くない方がおかしいよ。アイツら、私が感心するくらい馬鹿みたいにやっているから」

 私の声は震えなかっただろうか。

 そっと祖母の顔を盗み見ると、若い子は良いわねえと感心した様子で頷いている。

 私は水道の蛇口を開けて頭から思いっきり水を浴び、大袈裟に顔を洗った。

 ひんやりとした水が私の中で頼りなく揺れ動いている心を、少しだけ引き締めてくれた。

 大丈夫、大丈夫だ。もう落着いた。

 陽はまだ高く空は明るい。

 気温は多少下がったものの熱は充分保っていて、ちょっと動いただけですぐに額から汗や肌から球のような汗が噴き出てくる。私にはまだ仕事が残っていた。 

とにかく自分からやり出したことはちゃんと片付けないと。

「真琴、続きをやろっか」

 思いっきり背伸びをしてから真琴を誘うと、真琴はうんと大きな返事をして、縁側からぽんと飛び降りた。それから私の真似をしようと思ったのだろう。一人で水道のところにいくと蛇口をひねって頭から水浴びしようとしたのだが、水の出し過ぎたせいで、服ごとびしょ濡れになってしまった。

「何だか賑やかねえ」

 私達がわっと大騒ぎする中、ちょうど店から戻って来たらしい母が、笑いながら台所から覗いていた。

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