第12話 まあ、前向きになりますよ

「残り一分だからね!」

岡田先生が残り時間を告げると歓声がひときわ高くなり、「磯崎、ガンバレ!」と幾つもの黄色い声援が私の耳に届いた。

「……磯崎さん、凄いね」

 折原にシュートを決められ、ボールを拾った鈴木さんが近づいてきた。

「ごめんね。ひとりで好き勝手にやっちゃって」

「ううん。間近で観戦しているような感じだから。こっちこそ、役に立てなくてごめん」

「それならさ……」

 私はちょっと閃いたことを鈴木さんに提案してみた。

 世界一性格が良さそうな鈴木さんは、緊張した面持ちでみるみる内に顔を紅潮させて首を激しくふる。

「そんな……、無理だよ。私なんかがやっても足を引っぱるだけだもん」

「大丈夫だよ。勝つとか引っ張るとか考えなくていいからさ。私も思いっきりやりたいだけだし」

「……」

「磯崎、鈴木。早くプレー始めな」

 岡田先生が声を聞こえた。

「ゴール狙って打てばいいから。上手くいけば凄く気持ちいいよ。せっかくだから思い切ってやろうよ」

「……うん」

 自信なさげだったが小さく頷くと私にボールを渡した。

 私は相手のコートまでゆっくりとボールを進め、周囲を見渡して状況を確信した。全得点を私に決められたものだから、折原や山田さんも全員が私だけを警戒している。鈴木さんは打ち合わせ通り、コート中央近くの3ポイントラインに立っている。マークも折原がついているが形だけでけっこうな距離がある。

「残り40秒!」

 岡田先生のコールと同時に、私はそこで初めてパスを出して、サイドに猛然とダッシュした。

 コート上の誰もが私の意図がわからず、呆気に取られて反応が鈍った。

「今だよ!」

 私が叫ぶと同時に、鈴木さんがえいと小さな、だけど必死な声でホールを放った。

 フォームはバラバラ。飛距離も短く、リングに届くかどうかといったところで、シュートとしては明らかに外れる。でも、私にはそれで充分だ。

 私はボールに向かって駆けていた。鈴木さんのパスはバッチリの距離とタイミングで、私はボールが落下し始めると同時にジャンプして、ボールをつかむとその勢いのままシュートに向かった。

 だが、そんな私の前を影が覆う。

 いつの間にか折原が戻っていて、シュートをブロックしようと私の前を跳んでいた。

 作戦を読んだというよりも身体が反応したという方が正しいのだろう。見事な反射神経と褒めたいところだけれど、今の私にはシュートを落とす気が全くしなかった。全てがスローモーションで折原の腕や身体の動きや位置もよく見える。私は跳んだまま反転し折原から背を向けると、私はふわりと背中越しにシュートを放った。

 折原のブロックを狙った手はボールをかすめ、私は床に倒れ込みながらボールの行方を追った。

 リムに弾かれたボールはバックボードにあたってリングに戻り、リムを一周しながらやがて静かに、優しい音を立ててリングのなかに落ちていった。

 ボールが床に落ち、バウンドする音がトンと響いた。

「ウオオオオオ!」

「スゲエエ!」

 爆発にも似た歓声が湧きおこって体育館の屋根が吹き飛ぶんじゃないかと思うくらい騒々しいものだった。

「ヤバ……、つっかれたあ……」

 思わず愚痴をこぼしながらも私のなかには充実感や達成感が溢れていて、周囲からこだまする歓声がとても心地いい。中学通しても感じたことがない感覚だった。疲れよりももう少しこの雰囲気を味わっていたくていて、横たわっている私を鈴木さんの影が覆った。

 興奮を抑えきれず、握り拳をつくりながら真っ赤な顔をして私を覗き込んでいる。

「鈴木さん、ナイスパス」

 私が親指立てると、鈴木さんは顔をさらに紅潮させて、なんと返したらいいのかわからないと言った感じで、もごもごと口を喘がしている。

「愛美ちゃん、凄いねえ」

 折原が傍に寄ってくると、私に手を差し伸べてきた。

「私だって、大したもんでしょ?」

「うん。参りました」

 嬉しそうに、でもちょっぴり悔しそうに折原が笑ってみせた。

 残り時間はほとんどなく、得点も四点差。

勝利は目前であとはディフェンスに専念するのみ。

 私は折原の手を借りて立ち上がろうとしたときだった。

チクリと右膝に痛みが奔った。

「どうしたの?」

「……うん。ちょっとね」

 右足に力が入らず立てない。

「何か、右膝が痛くて……」

 言っている間に右の膝に感じた痛みはどんどん強くなっていく。

 膝を擦ると、今度は錐で刺したような痛みが膝を貫いた。

 何? 何だこれ?

 さっきまであんだけ動けていたのに。

 不審に感じる暇も与えられなかった。痛みはどんどんと増してゆき、今度は肉をえぐったような激痛が私の膝に襲いかかってくる。首を絞められたかのように息もできず、あまりの苦しさと痛みに思わず歯を食いしばらなければならなかった。膝が割れそうで、喰いとめるために私はその膝を力の限り押さえつけていた。

 でも駄目だった。

 押さえつけても膝が破裂しそうで、痛くて痛くてどうしようもない。

 何、何よこれ?

「愛美ちゃん?愛美ちゃん……!」

「愛美、しっかりしろ!」

 騒然となった体育館の音響に紛れて折原と隼人の声が聞こえてくるが、それもやけに遠く小さく感じた。


 ※  ※  ※


 私は保健室のベッドに横たわったまま、ぼんやりと灰色の天井を眺めていた。膝には保険の先生に応急措置としてテーピングが巻かれその上にアイスパックがあてられている。

 部屋には隼人が椅子に腰かけていて、無言のまま沈んだ表情で床に視線を落としている。

 カラリと保健室の扉が開き、中村君と折原が入ってきた。

「愛美ちゃん。鞄と制服を持ってきたよ」

「……ありがと」

 私は天井を見上げたまま呟いた。岡田先生が自宅に連絡し、母が迎えにくる手筈となっている。折原には更衣室に制服を取りに行ってもらい、中村君には教室から鞄を持ってきてもらっていた。

「ごめんね。迷惑掛けちゃって」

「激しい運動は医者から止められていて、しかもいきなり飛ばすから。無茶しすぎだっての。休んだって文句でねえだろ」

 隼人が咎めるような口ぶりでカタカタと椅子を鳴らした。隼人が怪我したわけでもないのに、なぜか悔しそうに顔をしかめている。

「アンタの口から『無茶』なんて言葉がでてくるなんてねえ」

「俺だって人のまつ毛くらいは見えるよ」

「何それ? 意味わかんないんだけど」

 私がそっけなく返すと、隼人は憮然とした表情で今度は指でトントンと膝を叩きはじめた。

 貧乏ゆすりも指で叩く仕草も苛立った時の癖だ。

「でも、愛美ちゃん、すごかったねえ。見惚れちゃうてああいうのを言うんだね。私、愛美ちゃんがどんなことするのか、ぼおっと見ていたな」

 折原が私達の間を取りなすように言うと、中村君がああと頷いた。

「〝凄いものをみた〟というのはああいうものなんだろうな」

「……ええと。九七年の三沢小橋戦のことだっけ?」

 私がそんなこと言うと、中村君も折原も目を丸くして私に見ていた。

「愛美ちゃん、知っているんだ」

「……そりゃ知っているよ。洋平さんにビデオ貸してもらって、隼人と一緒に興奮した試合だし」

「そうなんだよ。俺もあの試合、凄い感動してさあ……」

 それから先、母が私を迎えに来るまでの30分もの間、隼人が中心となりプロレス同好会のみんなでプロレス談義が始まった。

 膝の痛みはとてもつらい。

 横になってもジンジンと鈍い痛みが膝から伝わってくる。痛くて苦しいけれど、私としては膝のことなんて忘れて欲しかったし、みんなの暗い表情をみているよりも、それよりかエプロンサイドでの三沢の切り返しだとか四二分間の超越プロレスの素晴らしさを聞いているほうがよほどマシだ。

 みんなもそんなつもりで話を盛り上げているように思える。

 それに奇妙な話だけれど、満足感や幸福感に似たものが私のなかにあった。

 行き場もなくやりたいことも見いだせずに腐っている私を、神様が「お前には力がある」と励ますためにちょっとだけ力を与えて、思い出させてくれたのだろうか。

本当に神様がいるなら、どうせなら膝を完治させてくれればいいのになんて我がままも言いたくなるので、神様ありがとうとまでは言わない。

 まあ、色々と頑張ってみますよ。

 私はくすんだ天井を眺めながら、見えない神様にむかって握り拳をつくってみせた。

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