第4話 お風呂はゆったりし過ぎて、色々と思い出す

「……姉たん、兄ちゃんと喧嘩したん?」

 真琴の身体を流し終わり、一緒に浴槽に入ると真琴が心配そうな顔で訊ねてきた。

「違うわよ。叱ったの」

「でも、おじちゃんやおばちゃんが真琴を叱る時、あんな物を投げたりせえへんで」

「真琴にはね。でも、あいつはもう大きいから。ああでもしないとわからないのよ」

「……?」

「真琴。あいつみたいに、身体だけ大きくなった馬鹿な大人にはなっちゃだめだよ」

「兄ちゃん、馬鹿なん? 真琴に色んなことを教えてくれるよ」

 最近どこかで覚えたらしい、組んだ手のひらの隙間からお湯をぴゅうと噴射させながら真琴が言った。

「へえ……。どんなことよ」

 真琴はええとなあと唸るような声をあげて宙を見上げると、たどたどしく教えてもらったという事柄を口にし始めた。

「あんだあていかあさんは、あだ名で『じごくのはかもりにん』やとか、みさわさんとかいう人は受け身が上手いとかな。跳んだり叩いたりする試合やとかのパソコンを見せてくれたり、色んな本を読んでもらって、一生懸命教えてくれたんやけど、真琴には難しくてようわからんかったわ」

「……そんなことは覚えなくていいから」

 あいつ、子ども相手に何やってんの。

 まあ、子どもに怪しい動画見せたり、二次元美少女やネットに引き籠ってない分、まだマシだけどさあ。

 しょうもない弟だと呆れるやら哀しいやら、何だか情けない気持ちになって、ふうと溜息を洩らすと、私は自分の身体を頭まで浴槽に浸からせた。


 プロレスかあ。

 あれから4年近くになるんだなあ。

 不意にチクリと刺した胸の痛みが私を現実に引き戻した。湯船からのっそりと顔をだすと、僅かな時間の間に真琴がゆでダコのように顔を真っ赤にさせて、ぷうぷう言っている。

 姉たん、怪獣みたいやなあと、前髪が額にぴったりと貼りついている私を見てぼんやりと笑っているが、この様子だとのぼせてしまいそうだと思って、私は真琴と一緒にお風呂からあがった。

「さっき真琴な、姉たんがもぐっとる間に50まで数えたで。エライやろ?」

「……うん。エライ」

 脱衣所で真琴の髪や身体を拭いている間にも、それからの日々が次々と頭の中に浮かんでくる。楽しい日々ではあったが、最後に苦い結末が待っているかと思うと、その思い出はどうしても暗いものになる。ただ、その思い出は自分だけのもので、誰にも打ち明けた事は無い。

「姉たん元気ないな。のぼせたん?」

「そう……かな? 熱い湯に潜りすぎたせいかもね」

 私は自分の身体を拭き終わって着替えを済ますと、真琴の髪をドライヤーの冷風で乾かしてやった。冷たい風に、真琴は気持ちよさそうに声を上げて喜んでいる。

「のぼせたらな。水とか、すぽおつどりんくをゆっくり飲めて、兄ちゃん言うとったで」

「たまには、まともなことを教えるのね」

「そやで。この間のあれなんか、兄ちゃんに教えてもらって友達にエライうけたわ」

「へえ、何よ」

 私が尋ねると、真琴はにこりと満面の笑みを浮かべて洗面所の蛇口から水を一口、口に含んでプウッと宙に見事な霧を吹いた。

「ドクキリー」


 ……あいつ。


 もう、がっかりしちゃって言葉も出て来ない。

 真琴の髪の手入れが終わると、ドライヤーの風を自分に向けた。

 無意識に次々と自分の中に浮かんでくる苦い過去が忌々しく、髪をほぐす手つきが自然と荒くなった。


  ※  ※  ※


 隼人がプロレスにはまったのは中学二年の冬。

 隼人は中学時代、空手部に所属していて部活動に熱心な少年だった。今はプロレス馬鹿だが当時は空手馬鹿で、何が最強だとか、何が実戦向きだとか熱く議論が交わされた時代を過ぎても隼人はただひたすら拳と蹴りを繰り出し、汗を流す日々を過ごしていた。

 私がプロレスにはまるきっかけをつくったのは、私の膝の怪我が原因だった。

 普通に生活できるくらい回復しても、私はバスケができなくなったことで腐って遊んで過ごしていた。

 両親も心配していたが、隼人も隼人なりに心配した様子で、ある日「友達にお前を紹介してやりたいから、デートに行こうぜ」と言ってきたのだ。

 デートの相手は、隼人と同じ空手をやっている男の子で、中村君という他校の生徒だった。

 二人はライバル関係で、大会があるといつも決勝か準決勝で当たっていた。

 二年の夏、全国の合同練習した際に一緒に練習し、そこで気が合って時々遊ぶ関係にまで至ったという。どういう話の流れでそうなったのかわからないけれど、中村君が隼人を誘ってプロレスを観に行こうとしたところ、隼人は何故か私を紹介しようと思いついたらしい。

 友達とカラオケばかりも飽きるし、デートと聞いて心がときめいて外に出ようと思ったのも確かなので、そこだけは隼人を責めるつもりはないけれど。

結論から言うと、私にとっても中村君にとっても、そのデートは失敗だった。

 大会は郊外の市民体育館で行われ、プロレスなんて縁の薄いこの田舎町には珍しいからかアリーナはほぼ満席だった。

 試合もそれぞれ盛り上がりを見せていたが、私は試合をどう反応し、どう楽しめばいいのかわからず、いたたまれなくなって携帯をいじっているだけだった。中村君もそれを気にしていて居心地が悪そうだった。ただ一人、隼人だけは初めて見るプロレスラーの頑丈そうな身体つきや張り手の音、マットを揺るがす迫力にいちいち驚き、三人のなかで一番、試合を堪能している様子だった。隼人のように、目の前で起こる事象を単純に楽しめばいいとは思うのだが、どうしても気持ちが乗らなかった。

「おい。メインで試合していた選手が売店にいてよ。俺、握手しちまった」

 大会も終了し、私達はロビーに集合したのだが、一人、売店に行っていた隼人が興奮した様子で戻って来るなり中村君に言った。奥の売店を一瞥すると、先程まで試合をしていた上半身裸のマッチョな男が汗まみれで売り子に混じり、観客と握手を交わしている姿が見える。

「ジュースは?」

 隼人の話を無視し、手に何も所持していないのを見て私が訊ねた。隼人はジュースを買いに行ったはずだ。

 忘れたと言って頭を掻くと、俺が買いにいくよと中村君が気弱そうに笑って売店に向かった。

「おう、どうだ。あいつ、良い奴だろ?」

 中村君の背を見送ってから隼人が聞いた。

「……話すことがないからわかんない」

「あいつ、大人しいやつだしな。試合じゃ全然違うのに」

「……」

 大人しすぎだよと私は口の中で呟いた。

 中村君は緊張もあるのだろうが、人見知りが酷いし、私もどんな話をしていいのかわからず気まずい空気が流れていた。

 隼人は自分が楽しんでいるだけで役に立たなかったし、二人だけだと間が持たなくなっていた。私だって初めてのデートなのだから、瘤つきとはいえそれなりに気合を入れて来たのに、かなり損した気分になっていた。まだ午後四時前と陽は明るいし、かといってどこかに行くのも億劫でどうしようかと悩んでいると、突然、私の携帯が振動した。中味を確認すると、それはカラオケに行った友達からのメールだ。カラオケを楽しんでいる様子の写真が添付されていて、私もそっちいけば良かったと後悔していた。

「このあと、どうするの?」

 私は携帯を畳んで隼人に聞いた。

「どうって……。お前ら二人で決めろよ。俺は帰るから」

「ちょっと……。私らを放って帰るての?」

「お前、デートだろ? これ以上、余計な奴がいたら邪魔じゃないの」

 なんでこんな時に妙な気が利くのか。私は急に腹が立ち、いいからしばらく一緒にいてよと語気鋭く隼人に詰め寄った覚えがある。隼人は隼人で気を利かせたつもりで言ったのが、思わぬ反発を喰らってムッとしている。ちょっと険悪な空気が私達の間に流れ始め、買い出しに行った中村君がジュースを抱えて戻って来て私達の様子に気づくとおろおろし始める。

「ちょっと君たち、いいかな?」

 そんな時、爽やかな声が私達の頭上から聞こえた。

顔を上げると一人の青年が傍に立っている。背が高く、隼人も中学生のわりに長身だったが、そんな隼人よりも頭一つ分高い。身体もゴツゴツと異様な厚みがあって、『小鳩プロレス』とプリントされた青いTシャツを着てれば、一目瞭然で関係者だと素人の私でもわかる。それにパッと見、好青年といった感じでなかなかのイケメンだった。少しの間、中村君のことを忘れて彼をぼおっと眺めていた。

 なんだか顔や身体も妙に熱い。眺めているうちに心臓も鼓動がドクドクと速さを増し、思わずスキップしたくなるような、叫びたくなるような変な感情が沸き起こってくる。

 あれが一目ぼれなんて、空想の産物だと馬鹿にしていたけれど、実際に体験するなんて思ってもみなかった。

 その好青年の名が栗栖洋平さん。当時はまだ二〇過ぎたばかりの練習生だった。

「……はい。何でしょうか」

 隼人がプロレスの関係者に声を掛けられて、明らかに緊張した面持ちで返事をする。

 この後、暇かなと洋平さんは申し訳なさそうに眉をひそめた。

「撤収するまでに時間がなくてさ。このままだと延長料金とられちゃうかもしれないから、少しでも人手が欲しいんだ。バイト代とかでないけど手伝ってもらえる?」

 体育館の使用料なんて一回二一〇円くらいの頭しかなかったので、延長料金の存在なんて知らなかったけれど、隼人があとで興味本位に調べてみたら、あんな古びた体育館でもイベントで一日使用するのに数十万で、延長料金は三〇分で数万という金額だというから、小さな団体にとってはこれでも大きな痛手らしい。

 声を掛けているのは私達だけではないようで、そこかしこで同じTシャツを着たスタッフや試合に出た選手が他にも同じ様に声を掛けている光景があった。既にスタッフに連れられて会場に向かっている人もいた。

「どうかな?」

 洋平さんが再度訊ねてきた・

 隼人が口を開く前に「もちろん手伝いますよ!」と息巻いて名乗りを上げたのは私だ。

 洋平さんは私より隼人や中村君に手伝ってもらうつもりだったのだろう。意外そうな面持ちで私の着ている服をじろじろ眺めると、次に心配そうな表情を浮かべていたのが思い出に残っている。

「いいけど……。汗もかくし、油や埃もつくから、せっかくの良い服が台無しになるよ?」

「いいんです。これ、見た目より安物ですから」

それでも洋平さんは思案している様子だったが、時間もないし人手はひとりでも欲しい状況だったようで、じゃあ頼めるかなと言った。

 撤収作業は時間内に無事終了し、手伝った人達には帰り際に出場した選手から、その場でサインしたパンフレットが配られた。ホントは洋平さんのサインが欲しかったけれど、まだデビューしてない練習生からねだるのは見え透いているようで恥ずかしく、誰のかはよく覚えていないけどとりあえず有難く受け取っておくことにした。 

 今、そのパンフレットがどこにあるか私は知らない。

 あの大会以降、私と隼人はせっせと『小鳩プロレス』の会場に足を運んだ。

 隼人は、あの手伝いの一件で洋平さんと気が合い、プロレスにはまりだしていったし、私は私で洋平さんに会うためからだった。

 気さくな人柄で話しやすい人だったし、洋平さんも自身がプロレスラーであるだけに、プロレスに関してはマニアックな知識を持っていて、話を合わせるため、隼人とともにプロレス関係の動画や書籍を読み漁り、買い漁ったものだ。

 皮肉にもこの時期が姉弟の関係がもっとも良好で、ずっと二人でいることが多く、休日も『小鳩プロレス』観戦のためにいつも二人で出掛けていた。

 娘が外に出るようになって最初は喜んでいた両親だったが、家に帰れば隼人と一緒に部屋に籠っていたために、今度は別の心配を始めた両親が何かと理由をつけて覗き込んできたものだ。

 私と隼人はそんなプロレス三昧の日々を過ごしていたが、私にとっては恋に燃える日々でもあった。好きな人と話し合い笑い合い、夢に向かってひた向きに進んで行く洋平さんの姿は、キラキラしていてダイヤモンドのように輝いて見えた。

 デビュー当時から洋平さんの女性ファンは既に何人もいたけれど、彼女らの中で私だけがスタッフとして会場の手伝いをする機会も多かったから、洋平さんとも親しく話すことが出来たし、私だけが特別だと思っていた。

 一日一日が本当に充実して楽しかった。

 でも、そんな日々も一年も経たずに終わりを告げる。

 突然知らされた洋平さんの結婚。

 相手は『小鳩プロレス』の事務で働いていた女性の職員だった。一緒にいる姿をよく見掛けたが、仕事柄当たり前だと思っていたし、私の印象としては、彼女はどこにでもいるような平凡な女。家事が得意。料理が上手いとか子ども好きとか聞いているけど、実際のところなんかわかったもんじゃないし、笑顔に変な魅力があったから、洋平さんはそこに騙されたのかもしれないと思っていた。

 洋平さんは結婚式に私と隼人を呼んでくれたけど、私だけは行かなかった。

 私のことなんて眼中に無かったのがショックだったし、よその女の幸せなんてちっとも嬉しくない。なんで私じゃないの?

 結婚式に行かなかったことで隼人とも喧嘩したし、それが理由で関係も一時、かなり険悪だった。

 洋平さんへの情熱が冷めるとともにプロレスへの関心や興味もどこかに消え去り、余計な無駄知識だけが廃工場に放置されたままの鉄くずのように私の頭のなかに残っていた。

 だけど、当時の思い出が苦い過去となっているのは単に失恋したからではない。

 私がいかに子どもで、ミーハーで思い上がっていたかという後ろめたさからだった。

 親切にしてくれた人を、一方的に拒否した私の傲慢さ。

 隼人が言うには、今でも時々私の話が出て、たまには家で一緒にご飯でも食べようと誘っているらしいが、私はその誘いを何のかんの言って誤魔化し断っている。

 こうやって、人と人は疎遠になっていくんだろうか。

 結婚式くらい行けば良かった。

 後悔と言うには大袈裟すぎるけれど、残念と言うにはちょっと軽すぎる。

 そんな中途半端な心残りが、高校生になった私の背中をいじわるに突っついてくるのだった。

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