第3話 かわいい姪っ子

 恒例の〝G・B・H〟の会合が終了し、私が帰宅したのは午後6時を僅かに過ぎてからだった。

 神林駅の改札東口を抜けてタガナ橋を渡り、一つ目の信号を右に曲って麻生川沿いに徒歩十数分。『コンビニエンス磯崎』という看板が通りを照らしているのが目に入る。店内からは帰宅途中の客が頻繁に出入りしていた。

 私はいつもそうしているように表から入るのを避け、玄関のある裏口にまわった。

私の家は小さな塀と庭に囲まれた木造二階建てで、カラリと引き戸の玄関を開けてただいまあと奥に声を掛けると、そばの居間から姉たんお帰りと姪の真琴が出て来て、とことこと駆け寄って来る。真琴の家は岐阜にあるのだが、家庭の事情もあってこちらで預かることとなり、近所の幼稚園に通っている。

「姉たん、姉たん。今日な、今日な。駆けっこで一等なったんよ」

 真琴の言葉には少し独特のなまりがある。中途半端な関西弁といった感じ。

「エライねえ。凄いじゃん」

 私が真琴の頭を撫でると、そうやろと得意そうに微笑んだ。

「隼人兄ちゃんのおかげやな」

「でも……、隼人と練習したのは、あの時一回だけじゃなかったけ?」

「うん。でも、きっとあれのおかげやな」

 無邪気に微笑む真琴に返す言葉も無く、かまちを上がって居間に入ると、祖母が静かに座っていておかえりと声を掛けて来た。

 ボケているというわけではないが、このところめっきりと口数が少なくなり、居間や縁側で穏やかな笑みを浮かべたまま座っている姿が多くなった。

 私は祖母に返事をすると、鞄を置いて台所に入って冷蔵庫から牛乳を出した。まずはコップに一杯注ぎ一息に飲み干す。そしてまたコップに目一杯注いだ。今日は喋り過ぎたせいか、喉がからからだ。

「隼人兄ちゃん、よく走りに行くからついて行ったけど、エライ眠かったわ」

 私の後ろからついてきた真琴が、物欲しそうに私が手にしているコップをじっと見上げているのに気が付き、他の甘いジュースならともかく牛乳ならいいかなと思って、新しいコップを出すと牛乳を注いでやって真琴に手渡した。

「あんな朝早く、よく起きられたね」

 隼人は同好会の朝練前、身体を慣らすために、いつも早朝五時に起きて近くの公園まで軽くランニングをしている。私や両親もまだ起きていない時間帯だ。

「起きたんやけど、眠くてベンチに座っとったら、いつのまにか兄ちゃんにおんぶされて家の前に帰ってきとった。兄ちゃん、背中広くて力持ちやな」

 一等は嬉しいけどマコトにはもう無理やわと、ぼやく真琴の姿に私は苦笑いしてコップに口をつけた。

 その時、奥から母の呼ぶ声がした。

「愛美。もう、帰ったの?」

 帰ったよと私も大声で返した。

「ちょっと店、手伝ってくれない?」

「ええ? 今、帰って来たばかりだよ?」

 今日人手が足りないから、早く手伝ってという母の悲鳴に近い声に促され、着替えるから待ってと返すと、一息に残った牛乳を飲みほした。

「お姉ちゃん、お父さん達の手伝いにいくから良い子にしててね。牛乳飲んだら、コップはテーブルに置いたままでいいから」

 私のお願いに、真琴はうんと明るく頷く。

 本当に素直で良い子だ。

 私は真琴の頭をもう一度撫でると、鞄道具一式抱えて二階に上がり、ラフな私服に着替え始めた。着替えを済まし、エプロンや三角巾を付けながら持って厨房に出ると、父と母が厨房とレジを忙しく行き来していた。

「弁当の方を頼むわ」

 汗まみれになりながらトンカツを上げている父の指示に、私は厨房に入った。

バイトの滝沢さんの横に並び、上がった総菜をそれぞれのパックにとり分けて行く。交わす言葉はレジで注文をとる母が父に内容を伝え、それぞれ指示を私達に伝えるくらい。それ以外は黙々と作業をこなしていくだけだ。この時間帯は、帰宅途中の会社員や作業員が多く寄るので結構繁盛して忙しい。普段は滝沢さんのほかにバイトが二人ほどいるはずなのだが、今日は体調を崩して休みらしい。人手が足りない時はこうしてたまに店を手伝うこともあるが、今日はいつもより客が多くペースも異なって精神的にもかなりきつい。

 一時間も過ぎると客は次第に減り、店内は落ち着きをみせはじめたが、それまでの時間が異様に長く感じ、手伝いから解放された時には、ぐったりとなっていた

でも、こういうお手伝いをすると、後でおこづかいに良い感じに反映されるのだ。

「ご飯、さっき用意しといたから。お母さんと真琴ちゃんと先に食べちゃいな」

「……そうする」

 お疲れと滝沢さんに挨拶すると、今日はそうめんだからねという母の声に力なく返事をすると、ふらふらと私は居間に戻った。

『コンビニエンス磯崎』は個人経営のコンビニエンスストアで、元は定食屋だった。世の流れというやつでコンビニに改築したのだが、売りがないと生き残れないと父の意見で手作り弁当を始めた。狙いは当たり、値段も安くて量も他のコンビニよりも多いから評判が良く、定食屋時代よりも売り上げは好調だった。余裕も生まれて、もう二、三人従業員を増やし、車を使って昼間に外でも弁当を売るかという案が父から出ている。

 居間に戻ってから真琴や祖母と夕食を済まし、自室に戻ると私はそのままベッドに突っ伏してしまった。

「……つっかれたあ」

 私はその姿勢のまま、つい眠りこけてしまったらしい。コンコンとドアをノックする音に気が付き慌てて飛び起きた。その際に変な声が漏れたが、多分「ふひ」と言ったのだと思う。

 ドアがついと開くと扉の隙間から、練習を終えて帰って来た隼人が顔を出し、借りていた教科書と言って私に向かって教科書を放り投げた。

「教科書、サンキュなあ」

 まあ、姉弟らしく、気持ちの入っていない感謝の言葉を部屋に放りこんで、そのまま立ち去ろうとする隼人に、私は「変な落書きして無いでしょうね」と言った。以前、『僕の考えた凄い技』を国語の教科書の空白ページを利用して目一杯に絵柄と解説入りで書いていたのに気がつかず、それを友人に貸して大恥をかいた経験があるのだ。

「別に変なことなんて書いてねえよ」

 ムスッと無愛想な口調で言い捨てて、隼人は荒っぽく扉を閉めた。隼人が不機嫌なのは練習で疲れているからだ。だからといって、こっちに八つ当たりされてもムカつくだけなんだけど、ここで何か言うと、自分のプロレス人生論を混ぜてきた長々とした反論をしてくるのでぐっとこらえる。

 壁の向こうから隼人の部屋の扉が閉まる音がし、私は身体をベッドから下ろして自分の勉強机に向かった。宿題が幾つか残っている。馬鹿は放っておいて予習もしておかなければ。

〝G・B・H〟のメンバーの一人、金沢さんの話だと明日の数学では抜き打ちテストがあるという。金沢さんは情報通で、これまでにも幾つかの事前情報をどこからか掴んでくる。それがいちいち的確なので、私達は彼女の情報にはかなり信頼をよせていた。

私達は〝G・B・Hの金沢〟、略して〝GK〟なんて呼んでいたりする。

〝G・B・H〟は基本的に買い食いとファミレスを拠点にした雑談集団だが、勉強を教え合ったり情報を交換したりと、なかなか面白みのある会でもあったりするのだった。私は数学の教科書を広げ、金沢さんから聞かされた範囲を予習するべく、教科書とノートのにらめっこを始めていた。一時間ほどしてドアがこつこつと控えめにノックされる。

 返事をすると、入って来たのはパジャマ姿の真琴でお風呂沸いたでと言ってきた。

「姉たん。おばちゃんから、先にお風呂入れって」

 真琴に言われて時計を見るといつの間にか午後九時を過ぎている。真琴は私とお風呂に入るのを楽しみにしていていつも誘いにやってくる。

 ちょうど区切りも良いかと思い、じゃあ行こうかと立ち上がった拍子に、風に煽られて教科書がぱらりとめくれ、何かが視界に飛び込んできた。

〝磯崎隼人・伝説の名言集〟

 と表記され、その下の空白スペースにボールペンで、

〝いつでも掛かってこいってんだ。どこでもやってやんぞ、コラァ!〟

〝ほら、やっぱね。あいつも帰ってきたでしょ?行き着くとこはプロレスなんですよ〟

〝あいつも良いものあるけどね。まだプロレスラーとしては赤ん坊かな?〟

〝ここはね。俺の庭なんですよ〟

などと、愚にもつかない文字の羅列がページ一杯に書かれている。

 グジグジとボールペンで潰して、何度も書きなおしている箇所もある。

「……」

 ちょっと待ってねと真琴に言い置いてから、私は教科書を持って部屋を出た。

 ノックもせず隼人の部屋を荒々しく開けると、パソコンを眺めていた隼人はぎょっとして私の顔をみた。

 私はパソコンの動画にチラリと視線を向けた。パソコンには古いプロレスの映像が流れている。パッとみたところ前田日明と藤波辰巳が映っていて、前田のニールキックで藤波が流血しているから1986年の試合だろう。

「……何だよ」

「変なこと書くなと言ったでしょう!」

「変なことてなんだよ」

 これよこれと、私は教科書に書き殴られた落書きを隼人に見せつけた。

「それは、変なことじゃねえだろ」

「じゃあ、なんなのよ」

「これは……、これは俺の名言だ」

「それが変なことと言ってんじゃ、バカたれぇ!」

 教科書を隼人に投げつけると、顔面に教科書がヒットしたのは覚えているが、ガシャンと物が壊れる音と「俺のパソコンがあ」と隼人の情けない叫び声がした時には、後ろも振り返らずに部屋を出て、真琴を連れてさっさと風呂場に向かっていた。


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