第23話 入眼3

 どの位眠ったのか、ふと瞼を開く。腕の中には相変わらずアオイがいて、窓から差し込む薄明りが彼女を照らしていた。腕の中の彼女は目を開けていて僕の胸を見つめている事に気付く。


「アオイ、起きてたの?」

「……うん」

「気分はどう? キモチ悪くない?」

「大丈夫。少し頭痛いけど」

 僕は彼女の髪を梳くように撫でてやった。


「水でも飲む?」

「いらない。このまま一緒にいて」

 僕はそっと彼女の頬に触れてやる。


「どうしたの? 寂しいの?」

「……遠くに行っちゃうの?」

 僕が不安に思っていた事を彼女も不安に思っていてくれたんだ。じんわりと心が温かくなる。


「どんなに遠くに行ってもアオイの傍にいるよ」

 自分でも矛盾していると思いながらそんな事を言って安心させようとした。


「うそばっかり」

 拗ねた様にそう言って僕の胸に顔を埋めた。彼女の頭を包み込むように抱いてやる。彼女の吐息が僕の胸にかかり熱を感じた。


「ねえ、真也君の好きにして……」

 ぽつりと呟いた。


「言っている意味分かってる?」

 彼女は無言で頷いた。


「もう、止められないよ?」

「いいよ」

 いつかこうなる事は分っていた。今日になっただけだ。


 僕は両手で彼女の頬を包み僕の方へ向けた。薄明りの中彼女の瞳は潤んで物欲しそうに口を少し開いている。僕はその唇にそっとキスを落とした。彼女の反応を確かめるように軽く何度も触れる。唇を離す度に彼女は目を開いて離れる事を非難するような目で僕を見つめてくる。

 もう少し深く啄む様に唇を重ねるとそれに応えるように彼女のキスも深くなった。彼女の息が乱れだしそれに合わせて僕の理性も砂場の山崩しの様に削られて行く。舌と舌が触れ合った瞬間背中に電気が走り、脳に直接官能的な刺激を受けた。お互い貪るように舌を求め絡め合う。彼女が吐く甘い吐息も、乱れた呼吸も、汗の匂いも、肌の舌触りも、全てが僕の五感を刺激しついには山が削り取られ棒が倒れた。


 初めて聞く彼女の嬌声に完全に理性を奪われ無我夢中で彼女の中に入った。女性経験は初めてでは無いけれど、明らかに今までのそれらとは違った。僕の何もかもを奪い去って行く乱れた彼女に僕を刻み付けた。





 薄明りの中、僕の横でいまだ収まらない呼吸を整えようとする彼女は陶酔した表情で焦点の会わない視線を天井に這わせていた。

 僕は右腕を彼女の頭の下に差し込み腕枕をしてやる。彼女は僕の方に寝返りをうって顔を胸に埋めてきた。


「アオイ……」

 肩で息をしている彼女は何も答えなかった。



 想いを伝えたい。



「好きです……」



 何故か敬語になってしまったけど、僕の言葉を聞くと彼女の肩がピタリと止まった。僅かな静寂の後再び彼女の肩が動き出す。


「今のは聞かなかった事にする」

 彼女から発せられた言葉は予想外の物だった。


「アオイ? ぼくは――」

「待って」

 僕の言葉を遮ると彼女は顔を上げ僕を見つめてきた。窓から差し込む街の明かりだけが彼女の表情を照らす。


「ちょっと話を聞いて」

 彼女にそう言われてしまい口を噤む。


「今からわたしの事を話すから、話を聞いてほしい」

「……うん」

「それを聞いても真也君の想いが変わらないならもう一度伝えて?」

 この前振り、いい話では無さそうだ。


「うん」

「本当に大丈夫?」

 今さら止めておくなんて選択肢はない。


「うん」

「結構、重いよ?」

 

 彼女はさらに念を押す。僕は一度大きく息を吸い込みそれを吐き出しながら、

「大丈夫」と答えた。


「理由は後で説明するね。結論から言うと、わたし子供が出来ないの、ううん、正確に言えば出来難い」

 なんて反応したら良いか判らず黙っていた。ぱっと頭に浮かんだ言葉は『不妊症』。


「高校2年生の時ね、付き合っていた人がいたの」

 今日、彼女を抱いた時にそういう人がいたんだと言う事は気付いていた。少し残念だったけど、それについては仕方のない事だと思った。僕と出会う前の事だし、ちゃんと好きで付き合っていたのなら今の僕がとやかく言う事ではない。


「誠実な人だったんだけど、出来ちゃったんだよね、赤ちゃんが」

 さっき出来ないと言わなかったっけ。それもこれから説明されるのだろうか。


「彼のお父さんは市議会議員で、地元でも有名な人だったの。当然、息子が彼女を妊娠させたなんて認められなかったのね。彼は認めてくれたんだけど……」

 僕はゴクリと一つ息を飲んだ。


「お母さんもね、生んでいいよって言ってくれたんだ。わたしもせっかく授かった命だし、親の都合だけでその小さな命を摘み取ってしまう事に物凄い罪悪感を感じたの。シングルマザーになる事も受け入れた。だけど、彼のご両親にしてみれば、息子の不祥事が形となって残る事がどうしても許せなかったみたいなの」

 

 彼女は仰向けになって天井を見つめた。


「費用も向こう持ち。慰謝料も出すからって中絶させられたんだ」

 再び静寂が訪れた。5秒? 10秒? 彼女の息は随分と落ち着いてきたようだ。


「アッシャーマン症候群って知ってる?」

 知らない。聞いたことも無い。知らないと正直に答えた。


「人工中絶による合併症の一つでね、まあそれが原因で子供が出来にくくなってしまったみたいなの」

 

 ふふ、笑っちゃうよねと自虐的に彼女は言った。


「当然、彼とも別れさせられ、二度と会わないように釘を刺されてさ。何も悪い事してないのにね」


「まだ、その人の事好きなの?」

 彼女は天井を見つめたままだった。遠くから救急車のサイレンが聞こえる。


「ううん、もう2年も経っちゃったし、今はもう完全に忘れられた……かな」

 僕は彼女の方を向き肘枕をして彼女を見つめた。


 正直、良く分からない。好きな人が出来て、恋人同士になれば体の関係だってあるのは当たり前だ。子供が出来ちゃって中絶したというのは不幸な副産物と言うだけで、みんなそんなリスクを抱えながら交際しているんだろう。彼女にとっては不幸な出来事だっただろうけど、彼女の行いは決して非難されるべきものではない。非難されるべきはその市議会議員とやらだ。僕がその話を聞いて彼女への想いが変わる訳もない。好きな気持ちに偽りはない。僕が気になるのはたった一つの事。


「本当に彼の事は吹っ切れたの?」

 彼女はふふんと笑って僕のほうへ寝返りをうち僕を真っすぐに見つめてきた。


「うん。わたし、真也君の事、大好きになっちゃったの。初めて見た時から、運命みたいな物を感じたの。この人しかいないって思ったもん。だから、わたしの過去の事を隠しておけなかった。ちゃんと正直に話しておきたかった。その上で真也君の気持ちが聞きたい」

 運命なんて陳腐な言葉が出て来たけれど、鼻で笑う事は出来なかった。僕も同じように感じたから。


 それと、相当もったいぶってハードルを上げたようだったけれど、彼女の話は僕にとっては大した事ではなかった。極論を言ってしまえば、元カレがいたと言うだけの話だ。少なくとも僕にとっては。中絶しただとか、妊娠し難いだとか、そんな盾なら簡単に破ってやる。


「アオイ……大好きだよ」


 無表情にそう告げると彼女の瞳が潤んだ。彼女は僕の胸に顔を埋め、背中に手を回しぎゅっと抱き着いてくる。


「本当はね、真也君が試験勉強を頑張ってたのは応援してたけど、わたし参考書や問題集にヤキモチ焼いてたんだよ。わたしより大事そうにしてたもん」

「そんな、比べる物が違うよ」

「心のどこかで、遠くに行っちゃうなら落ちちゃえって思った事もあったよ?」

「人間だからね、頭ごなしに否定できないよ」

「嫌いになった?」

 答える代わりに強く抱きしめた。


「もっかいして?」

「え?」

「欲しい……」


 僕は静かに彼女に覆いかぶさり体重を預けると唇を重ねた。

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