第24話 入眼4

 2回目の彼女は僕の腕の中で何度も押し寄せる大波に飲まれ、その度に何度も溺れた。最後の波は殊更大きかったようで彼女の意識は宙に浮いた。



 気怠そうに僕の腕の中に収まり、うっとりした顔で呼吸を整えている。


「アオイ、良かった?」

「んもう、そんな事聞かないで」

 そう言うと顔を隠すように僕の胸に顔を埋めた。愛おしい。僕は彼女の髪を梳く様に撫でてやる。


「アオイに溺れそう」

 そう言うと顔を上げ一度僕を見つめると再び強く抱き着いてきて、

「もっともっと溺れて、わたしに溺れて」と言って額を僕の胸にグリグリ押し当ててきた。



「アオイ、僕の話も聞いてくれる?」

 何の話か気付いたのだろう、彼女はすぐに反応した。

「……今、話してくれるの?」

  

 彼女を東京案内する時に話すと約束していた事だ。試験勉強でずっと先送りにされていたけれど、話すなら今だと思った。


「結構、重いよ?」

 彼女の受け売りの言葉を吐く。


「どんなにハードル上げたって、わたし、その下をくぐっちゃうから大丈夫。ほら、わたし小さいし」

 物は言いようだなって思った。


「本当に大丈夫?」

 最後通告をする。


「大丈夫。どんな話でも、大丈夫だよ?」

 僕は一度彼女の額にキスを落とした。


「僕はね、児童養護施設育ちなんだよ」

「児童養護施設?」

「まあ、身寄りの無い子供とか、捨てられた子供とか、あとは両親がいても虐待されている子供とかを保護する施設だよ。孤児院とでも言った方が分かりやすいかな」


「みなしご? 虐待されてたの?」

「初めから全て話すから聞いて」

「……うん……でも辛い事なら話さなくていいよ?」

「それは大丈夫」

 僕は彼女の頭を撫でてやった。施設育ちと言うのは余程同情を買うのか、大抵の人が哀れみの目で見て来る。僕にとっては全然大したことじゃないんだけど。そう思うのは物心ついた時からそういう環境だったからだろうか。自分自身、ツイていなかったなとは思うけれど、僕の生い立ちが不幸だなどと思った事は無い。


 僕はこれまでの生い立ちを努めて明るく話したけれど彼女の瞳は揺れていた。


「いつからそこにいたのか、何故そこにいたのかはっきりは判らないんだ。物心ついた時にはそこにいた。僕の両親が誰なのか、どこにいるのか、生きているのか死んでいるのか、それさえ判らないんだ。僕の大崎真也って名前も後から付けられた名前なんだよ。今は裁判所が大崎真也と言う戸籍を作ってくれたけど、本当の僕の戸籍が別にあるのかも知れない。でも、本当の名前は判らないんだ。いや、覚えていないんだ。年齢も保護された時に推定で3歳だろうって事なんだ。だから本当は僕は21歳じゃ無いのかも知れない。本当の僕がどこの誰だか判らないんだよ。ひょっとしたら日本人じゃないかも知れないまである」


「そんな事が……あるの?」

 彼女の言う通り、現代の日本でこんな事が起こりえるのか疑問だ。一方では神隠しの様に子供が消え、片や一方では地面から飛び出した様に子供が現れた訳だ。きっと捜索願が出されている子供との照合もされたのだろうけど、それらに合致する事も無かったのだろう。穴の開いた靴下みたいにもう要らないと言ってぽいっと捨てられたのだろうか。


「実際、僕の存在がそれを証明しちゃってるんだけどね」

 彼女の疑問にはそう答えた。


「アオイはさ、小さい頃の記憶、何歳まで思い出せる? というか、一番古い記憶って何歳の時の物?」

「ええ? どれが一番古いかなんて判らないよ。3歳くらい?」

「普通はそのくらいなんだろうね。でもさ、僕の場合、間違いなく自分の記憶だって自信を持って言える一番古い記憶は小学校の入学式なんだよね」

「ずいぶん遅いね」

「そうなんだよ。3歳の時に保護されて、その後の3年も記憶が無いんだ、というか、覚えてないんだ」

 これは決して記憶喪失とかでは無くて、単純に覚えていないのだろうけど。


「名前、本当に覚えてないの?」

「うん、僕は物心付いた時から大崎真也なんだよ。それ以前の名前は思い出せない」

「その、施設に入る前の記憶は全くないの? どんな些細な事でも」


 僕は少し迷った。確かに微かに記憶があるのだけれど、それが本当に僕が経験した記憶なのか、どこかで見た光景を記憶と勝手に認識しているだけなのか判断が付かないから。


「記憶なのか、夢で見た光景を記憶として認識しているだけなのか、どこかで見た写真などの光景を記憶と勝手に思い込んでいるだけなのか判んないけど、微かにある。だけどそれが何歳の頃の物なのかは分からないけど」


「どんな記憶?」


「とにかく、寒かった。寒さを耐えているんだ。凍えるような寒さの中、何かから逃げて来たような気がする」

「ふむ……」


「あとは、唯一思い出せる光景として、道が真っすぐ一本あって、両サイドが田んぼだと思う。少し先に橋の欄干のような物が見えて、左前方にお墓が見えた。ずっと先には山があって、その稜線が見えて、太陽はその山に沈み、空はオレンジ色で、山は逆光で真っ黒だった」


「そんな所、東京にあるの?」

「無いと思う。だからこれは記憶じゃないのかも知れない。夢とか、テレビとか、写真とか、何かで見た光景を記憶と思い込んでいるのかも知れないけれど、どちらにしても古い意識なんだよ」


 彼女はまるで推理小説を読んでいる文学少女の様に目を輝かせて僕の話を聞いている。


「あと、これは施設の人に聞いた話なんだけど、僕が保護されたのは市場、ええと、築地市場の中らしいんだ。僕の顔や体には殴られたような痕や痣が沢山あったらしいし、栄養失調気味だったらしい。指先は凍傷になりかけていたとか」

 

「なんか虐待でも受けてたのかな?」

「分からない」

 だけれど、その状況だけで見れば虐待されていた可能性は高いのかも知れない。


「ご両親の顔とか、名前とかも思い出せない?」

「まったく」

 本当に何も手がかりが無いのだ。唯一あるのが先程の曖昧模糊な記憶だけだ。


「なんで市場にいたんだろう?」

「さあ?」


 彼女は顎に手を当ててなにやら思案し始めた。


「考えられるのは、食べ物を求めてやって来たか、両親と一緒に訪れたけど迷子になったか、あとは……なんかあるかな……」

 名探偵気取りの彼女は一人でブツブツ言いながら推理を働かせている様だ。


「アオイ、僕の出生の謎なんてもうどうでもいいんだよ。アオイがこんな僕を受け入れてくれるかどうかが大事であって」

「もう2回も受け入れたし、わたしは真也君の物だよ?」

「いや、その体の事だけじゃなくてさ」

「わたしにとっては真也君がどこの誰だっていいよ。それよりも、突然どこかの大富豪が現れて、君は私の息子だとか言ってわたしの真也君を連れ去っちゃう事の方が恐ろしいよ」

「そんな事がある訳ないでしょ」

「そんなのわかんないじゃん。とにかく、捨てられたのなら、わたしが貰っちゃう、いや、もう貰った。もうわたしのもんだもん。いまさら返してなんて言われても、わたし絶対返さないから」

 小さな拳を作って胸の前で握り締めながら決意表明する彼女がとても可愛かった。


「アオイも僕の物だから離さないよ」

 そう言って彼女を引き寄せ抱きしめた。


「……もっかい言って?」

「…………アオイは僕の物だから離さないよ」

「……嬉しい……キスして?」


 僕が顔を近づけても彼女は目を閉じなかった。僕たちはお互い目を開いて至近距離で相手を見つめたままキスに溺れた。

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