第16話 僥倖8

「おはようございます」

 明るく挨拶しながらアオイがやってきた。他にもスタッフはいるのに僕だけを真っすぐ見つめてくる。その瞳に吸い込まれそうになった。


「おはようございます」

 僕も平静を装い事務的に答える。彼女は僕に近付いてくると僕の袖をひっぱり僕の耳に顔を近付けて、

「ちゃんと参考書読んだ?」と小声で訊いてきた。

「うん。休憩時間はずっと読んでた」

「えらいえらい。毎日だよ?」と言って小首を傾げる。その仕草はズルイ。

「うん、わかってるよ」

 それを聞くとにっこり笑って、

「着替えてくるから待ってて」と言って更衣室に向かった。


 アオイと合流し客室の清掃業務に入る。随分と作業にも慣れてきた様でもはや僕が教える事などほとんど無く、それを僕は少し寂しく思った。仕事を覚えてしまったら僕の教育係としての役目も終わり再び一人でも引き下げ業務へと戻るのだから。


 平日のこの時間帯はデリヘル利用の客が多く、早い客だと1時間、中には30分で退室する客もいて部屋の回転率が高い時間帯だ。ただし満室になる程では無い。


 ラブホテルの満室と聞くと全ての客室に客が入っていると思われがちだけれど、実際はどんなに混んでいてもせいぜい7割ほどしか客は入っていない。

 では残りの3割の正体は何かと言うと、概ね掃除中の部屋である。それ以外にも客の回転に清掃が追い付いていない時などにワザと部屋をクローズして従業員の負担を減らすという措置もなされる。このあたりは従業員に対して配慮がなされていて大変有難い。ようは、『現在客室として提供出来る部屋は無い』と言うのがラブホテルで言うところの満室である。


「ねえ、これどうするの?」

 フロアを担当しているアオイから声が掛かった。見ると電動マッサージ器、いわゆる『電マ』を片手にオロオロとしている。どうするのと言うのは使い方なのか、片付け方なのか。


「使い方?」

「ち が う! しまい方! 変態!」

 随分な言われようである。僕、一応先輩なんですけど。


 僕はソレを受け取り説明した。


「まず、この先の部分をアルコールで消毒する。ここは念入りに」

 ポケットからアルコールのスプレーを取り出して先に吹きかけた。

「んで、アルコールをウエスでふき取る」

 そう言ってアルコールをウエスでふき取った。

「今度は全体的に、特にお客様が触る部分をアルコールで消毒する」

 僕は全体にアルコールを吹きかけた。

「さらに、もう一度先端もアルコールを吹きかける。んで最後に全体を綺麗なウエスで拭く」

 僕は彼女に手順を見せながら説明した。


「たまに先端に血が付いている時があるから、その時は水と洗剤で洗い流してからアルコールで消毒する」

「えぇ……」

 まあ、普通引くよね。


「コードはこうやって束ねて、んで、先端にこの消毒済みと印字されているフィルムを被せて、最後にこの専用の箱にこうやって……入れる」

「なるほど」

「これは結構使用率高いよ」

「えぇ……そうなの?」

「うん」

 本当にそうなのだ。これは男性が使いたがるのか女性が使って欲しくて催促しているのか良く判らない。だけど良く箱から飛び出している。


「みんな、こんなの、使うんだ……」

「ね」


 アオイは電マが入った箱をしげしげと見つめ興味津々なようだ。


 興味あるの? 脳内で訊いてみた。実際口に出したら鉄拳が飛んできそう。


「使ったことある?」

 そう言って僕をジト目で見上げて来る。


「ないよ」

「そう……」

 何? この空気。


 試しに使ってみる? 脳内で訊いてみた。実際口に出したら僕の首が飛びそう。


「こういうのって、男の人は使ってみたいって思うの?」

 きわどい質問だ。ここは間違えてはいけない。


「僕は思わないかな。こんなの手抜きじゃん」

 前半は嘘、後半は虚勢だ。


「えぇ……手抜き?」

 そう言って自分の掌を見つめた。何か盛大に勘違いしてるな。


「ああ、ええと、手抜きって言うのは、男が楽したい為に使うって事ね」

「あ……そ、そうだよね」


 これ以上はヤバそうだ、話題を変えようと思ったけれど。


「あ! ねえ、手抜きって事は、真也君はこんなの使わなくても……その……余裕なんだ?」

 それはテクニックって事だろうか。これは比較出来ないだろう。そもそも電マは物理的な快楽を与える為の物で精神的な快楽を与える物じゃない。より深い快楽を与える為には精神的な多幸感が必要不可欠だ。それはテクニックと言うよりも愛情だろう。だから、この問いの正解は簡単だ。


「さあ、愛があればこんなの必要ないんじゃないかな?」 知らんけど。


 実際、これがどれほどの威力なのか僕も分からないから答えようが無い。女性も大半が演技だって言うし、そもそも女性の感じ方なんて男性の僕に解る訳ないのだ。だから試しにちょっと使ってみたいと言うのは正直ある。まあ相手がいないんだけれど。それより、そろそろ話題を変えよう。いやいや、作業に戻ろう。


「はい、じゃあ作業に戻ろう」 

 そう言ってパンと手を叩いた。


 それにしても、外でアオイと会う時は照れ臭くて決してこんな話出来ないのだろうけど、環境とは恐ろしいものだ。


「ねえ、これさあ、どういう意味?」

 彼女は有料のスキンを指差して言う。またなんか変なスイッチ入っちゃったかな。


「この0.01って……」

「これはゴムの厚みだよ」

「厚み?」

「うん、サービスのは0.02ミリなんだよ」

「薄いって事?」

「そうだね」

「なんで薄いと有料なの?」

「値段が高いからじゃない?」

「なんで?」

「薄い方が良いからでしょ?」

「どう良いの?」

「着けていない感が上がるんじゃないかな?」

「生感覚って事?」

 生感覚って……生々しい事言うんだな。環境とは恐ろしい。


「そうだね」

「ふうん……使った事ある?」

「ないよ」

「ふうん……いつもは0.02ミリなの?」

 いつもって……そんないつもって言うほど機会無いよ。それにこの質問、どう答えれば正解なんだ? 肯定すると遊び人みたいだし、否定すると責任感のない奴みたいだし。


「内緒だよ」

 彼女は明らかに浮かない表情になった。なんだろう? 怒ってる?


「僕、彼女もいないし、そんなの使う機会滅多にないから」

「滅多に?」

 ああもう。


「全然ない」

「ふうん……じゃあいいけど」

 一応納得したようだ。何なんだ。


 その後もあれこれアダルトグッズについての説明をする羽目になった。彼女はこういう所に来た事は無いんだろうか。そんな事を思うと心がモヤモヤした。なんだろうこの不快感。物凄く気になるけれど聞けないでいた。出来れば来ていて欲しくなかった。


 9時までの3時間はあっという間に過ぎた。一人だと長く感じるのに彼女と一緒だとすごく早く感じる。でもこの後さらに彼女の家に行って勉強をするんだと思うと心が弾んだ。


 2人揃って店を出て彼女の家の最寄り駅まで電車を乗り継いだ。


「買い物していくんだよね? スーパーあるの?」

「うん、近くに『ゆあばすけっと』があるよ」


 駅から北へ少し歩いた所にスーパーがありまだ開いていた。呼び込み君の音楽に出迎えられ店内に入る。


「時間無いからすぐできる物にしよ?」

「そうだね」

「麻婆豆腐でいい?」

「うんうん」


 麻婆豆腐の材料を買い彼女のマンションへ向かった。スーパーからさらに北へ5分くらい歩くと彼女のマンションが見えてきた。三階建てのRC構造。外観はそんなに新しくなさそうだけれど、良い場所だ。彼女に続いて階段を上がり2階の一部屋が彼女の部屋の様だ。

 ドアの前で鍵を開け、彼女に続いて部屋に入る。女性の部屋は初めてでは無いけれど彼女の部屋という事で緊張する。


「じゃあご飯作るからまた問題集解いてて?」

「うん」


 部屋は8畳くらいのワンルームで外観の割に室内はキレイで新しかった。僕はローテーブルに数学の問題集を広げ昨日やった問題の続きから解き始めた。


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