第15話 僥倖7
翌朝、彼女に言われた通り参考書と問題集を全てリュックに詰め込む。背中に担ぐとずっしりとした重みを感じるけれど、不思議と嫌な重みでは無かった。
引き下げ作業中も昨日やった問題集を頭の中で再現し答えを導き出す。そのせいで引き下げ作業の手が止まる事がしばしば有った。
休憩時間も彼女の指示通り政経の参考書を読む。普段は口にしない甘いチョコも摘まみつつ参考書を読んでいると野田さんが休憩にやって来た。
「何読んでるの?」
僕は答えずチョコをかじりながら表紙を彼女に向け、それを見せる事で質問に答えた。
「政経の参考書?」
「はい」
「ああ、採用試験受けるの?」
そう言えば野田さんもずっとここでバイトしてるし、社員の話もあったのだろうか。
「わたしも去年声を掛けられたんだ」
彼女はコーヒーに砂糖とミルクを入れ、それをかき混ぜながら僕の向かいに腰掛けるとそう言った。
「受けなかったんですか?」
「うん、今はシフトで決まった時間に働けるでしょ? でも社員になると結構不規則になるんだよね。スタッフが足りないと泊まり込みでフォローしなきゃなんないし、系列店に駆り出される事もあるらしいし。ほら、三宅さんだって結構客室で寝泊まりしてる事もあるじゃない」
言われてみればそうだ。全然退室しないなと思う客室があると大抵の場合三宅さんが寝ている。だけどそれはそれで楽しそうだと僕は思う。正直、満員電車での通勤も骨が折れる。職場で寝泊まり出来るのなら僕だってきっとそうする。
「当然、保障は厚くなるし、給料も上がるしボーナスも出るしで収入的には魅力的なんだけどね。だけどわたしは今のままでいいかなって。結婚しても働くつもりだし、そうすると決まったシフトの方が良いからね」
それは一里どころか五十里くらいあるかもしれない。
「結婚のご予定があるんですか?」
「それ嫌味? 彼氏もまだいないよ」
そう言うとプイっと顔を背けた。美人なのに。
「野田さん、モテそうなのに」
「大崎君にしては珍しい事言うのね。お世辞でも嬉しいよ。だけど、なかなか出会いがね」
そう言って彼女はコーヒーを一口すすった。別にお世辞でもないんだけど。
僕と野田さんは一度だけ間違いを犯している。僕がここで働き出して半年くらい経った頃店のスタッフ同士で飲み会があったのだ。当時僕は未成年だったけれど、場の雰囲気もあり調子に乗って飲んでしまった。結構盛り上がり野田さんもそれなりに飲んでいたのだろう。だけれどお互い意識が無くなる程では無く、会がお開きになる頃には酔いも幾分醒め正常な判断は出来る程だった。
たまたま方面が同じだった野田さんとタクシーに相乗りし先に野田さんのマンションに着いた時に、「お茶でも飲んでく?」と誘われた。その意味が解らないほど僕も子供では無かった。
部屋に入るなり貪るように唇を求めあい、もつれ合うようにベッドへ倒れ込んだ。
何かの気の迷いだったのだろうか。人恋しかったのだろうか。何故野田さんがそういう気分になったのかは解らない。そして翌朝は普段通りに出勤し、昨夜の事はお互い無かった事のように口に出さなかった。
そんな事があればしばらくは僕も意識し、次を期待したのだけれどやはり恋に発展する事は無くお互い同僚という距離感のまま今日まで来た。
あれから2年以上経つけれどあの夜の事はお互い墓場まで持って行くのだろう。
「コンパとか行かないんですか?」
「誘いが無いのよ」
「浅野さんなんかどうです? 浅野さんも大学生で友達とかいそうじゃないですか?」
浅野さんという男性がいる。たしか大学3年生で僕より2こ年上だけれどこの店では僕の方が先輩だ。歳は野田さんと同い年だったんじゃなかろうか。彼なら大学の友達を誘ってコンパとか出来そうな気がするんだけど。
「彼、真面目で気難しそうじゃない? コンパとかの話なんてできないよ」
確かに浅野さんは真面目な文学青年と言う感じで口数も少なく暗い印象だ。年下の僕にも敬語で話してくるし、あまり社交的で無いのかも知れない。人の事言えないけれど。
「そうなんですね」
「ふふ、心配してくれてありがと」
「いえ……」
「大崎君は? 彼女出来たの?」
「いないです」
「そう」
野田さんは何かを思いついたのか、意地悪そうに口元を上げ、
「池上さんは? 彼女可愛いじゃん」と言った。
アオイの名前が出てきて口から心臓が飛び出しそうになった。何故アオイの名前が。僕は動揺を悟られないように、
「そんな……僕なんかじゃダメですよ」と言って手を顔の前で左右に振る。
野田さんは目を細めて「ふうん」と怪しげに口元を上げる。
「じゃあ大崎君は良いと思ってるんだ?」
確かにそうだ。あんな言い方したら僕の方は良いと思っていると白状しているような物だ。墓穴を掘った。完全に自滅した。
「そ、そんなんじゃないですよ」
今さら手遅れなのは百も承知だけれど一応無駄な足掻きをしてみる。それよりなんで尋問されているんだろう。確かに彼女の事は気になるけど、まだそんなんじゃない筈だ。野田さんはふうんと言ってなにやら含み笑いをし、それでも納得してくれたようだ。いや、目逃してくれたと言うべきか。
「だけど、大崎君、本当に良く喋る様になったね。なにかあったの?」
すぐに否定できなかった。何かあったかと問われれば確かにあった。だけど言えない。
「べつに……」
恥ずかしくなり俯く。
「素直に言えないか」
ニヤリとして僕を覗き込んでくる。
「本当に、別に、何も」
「あんまりイジメるといつもの大崎君に戻っちゃいそうだからこのくらいにしておこう」
そう言ってはははと笑った。恥ずかしくなり顔も熱くなった。
「試験頑張ってね」
野田さんはそう言うとカップのコーヒーを飲み干し席を立った。
「はい、ありがとうございます」
その後も午前の引き下げ業務に忙殺されあっという間に1時になった。
バックヤードに戻るとフロントに内線をかけ休憩に入る旨を伝える。
コンビニで買ってきたパンをかじりながらアオイに言われた通り再び政経の参考書を読む。こんなのはひたすら読んで頭に記憶するだけだ。時折出題されえる例題も解きながらとにかく読んだ。
午後からは引き下げ業務を行いながら休憩中に読んだ政経の内容を反芻しとにかく記憶という網に縫い込んでいった。
3時にもなると作業も落ち着き、引き下げてきたバスタオルやフェイスタオルの洗濯をする。洗濯が終わるまではリネンを畳んだり、洗剤やアルコール等の補充を行う。
平日のお昼のこの時間は割と暇なのだけれど、それでもぽつぽつと来客はある。ただ、平日のお昼に利用する客はすぐに退室する客が多く、部屋もそれ程荒れていない。中には風呂が使用されていない部屋もたまにある。掃除しなくていいのは楽だけれど、本来マニュアルでは使用されていなくても掃除する決まりになっている。実際はしない。
午後5時45分になり、そろそろアオイが出勤してくるのでバックヤードで待機しながらルーム清掃用のバスケットにスキンやアメニティなどを補充して彼女を待った。
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