第14話 僥倖6

 夕食後は先程解けなかった問題を彼女が解説しながら解き、同じような他の問題を解き直す作業を繰り返した。


「さっきもそこ間違えたよ?」

「あ……」

「ほら、3こ以上の関数の積でしょ? こういうときはこの公式を繰り返すんだよ」

 彼女の白くて細い指がノートの上を這う。


「ああ、そっか」


 彼女は僕が間違えている箇所を的確に指摘し丁寧に解説してくれた。高校時代も彼女が先生だったら僕ももっと勉強したことだろう。看護の勉強しているって言ってたけれど教師にも向いていると思う。


 その後も一心不乱に問題を解いていると、

「ちょっと休憩しようよ」と言う。

 時計を見ると午後10時になろうとしていた。確かに僕も久しぶりに脳みそをフル回転させたので体力を使う以上の疲労感を感じていた。


「そうだ、アイスあるよ」

「うそ!」

「ほんと。買っておいたんだよ。冷凍庫――」

 彼女は僕が言い終わる前に立ち上がり冷蔵庫へ向かうと、冷凍庫を引っ張り出していた。


「チョコとバニラかあ。うーん……チョコかな」

「じゃあ僕バニラでいいよ」

 冷凍庫からアイスを取り出しキッチンでモゾモゾしている。


「スプーンも1本しか無いじゃん」

 ああ、そうだった。


「ああ、カレー用のがあるから僕そっちでいいよ」

 言ってからしまったって思った。一本のティースプーンを共有するという甘々シチュエーションを逃してしまった。


 彼女は僕の傍に戻ってきて再び僕の右隣にペタンと座る。小さいティースプーンを彼女に譲って僕は大きいカレー用のスプーンを使用した。


 アオイはカップの蓋を開け、アイスを一口食べると、

「ん……おいし」と言って目を細めた。

「うん」

 脳を酷使したからか糖分が脳にしみ込む気がした。


「ねえ、バニラもひとくちちょうだい」

 彼女は、今まさに僕がバニラアイスをすくって口に入れようとしているカレー用のスプーンを物欲しそうに見つめながら言った。


 僕は口に入れかけていたスプーンをピタリと止める。心拍数が跳ね上がった。


 ここで変に意識しては駄目だ。一瞬で覚悟を決め、こんな事なんて事ないと言わんばかりに、僕の口に入れようとしていた僕のスプーンを彼女の口へ持って行く。彼女は小さな口を中途半端に開いてそれを受け入れた。大きなスプーンに乗ったバニラアイスは彼女の上唇を撫でる様に口に吸い込まれ、バニラアイスの白いクリームが彼女の上唇に塗られた。


「ん……おいし」

 彼女はバニラアイスを満足そうに飲み込むと上唇に付着した白いクリームを舌で舐めとり、

「チョコもおいしいよ?」と言って一口すくうと僕の口に近付けてきた。再び、こんな事なんて事ないと言わんばかりに僕もそれを口に含んだ。


「おいしい」


 僕たちはお互い見つめ合って同時に笑みを浮かべた。なんだろう、この気持ちは。ただ、アイスをお互いに食べさせただけなのに心臓が激しく鼓動し胸が苦しい。


 その後も僕たちはひとくちごとにお互い自分のスプーンを相手の口に近付けそれを受け入れさせた。


「こうすれば半分こずつ食べれるね」

 合理的な考えだと思った。でも、僕のスプーンの方が大きいんだけど。



「さ、あと1時間がんばろ?」

 アイスを食べ終えほっと一息吐いたところで彼女が首を傾げて言う。


「はい、先生」

「先生なんて呼ばないで」

 ぷっと膨れる。

「ははは、ごめん、池上さん」

「それもやだ」

 そう言って頬を膨らませた。


「え? じゃあなんて?」

「アオイでいいよ、呼んで?」

 彼女の名前……あおいだったな。いやでもしかし。照れ臭い。


「ア、アオイ……」

「ありがと、真也しんや君」

 心臓がギュっと音を立てた。嬉しい……いやでもしかし。


「バイト先では今まで通りでいいよね?」

「ええ? 特別感がないじゃん」

「でも、やっぱりバイト先ではちゃんとした方がいいよ」

 うん、きっとそう思う。


「じゃあ2人きりの時は名前で呼んでね」

「うん」

 特別感か……確かに今まで名前で呼ばれた事なんて無いから変にくすぐったいけど、特別感は沸いてきた。


 その後1時間、アイスクリームで糖分を補給し少し復活した脳みそをまたフルに使って問題集と格闘した。


「つかれた……」

 僕はばったりと床に仰向けに寝転がった。


「わたしもつかれた……」

 そう言ってアオイも僕の右側に仰向けに寝転がる。予想以上に距離が近かったせいか僕の右手の甲に彼女の左手の指が微かに触れた。

 彼女は特に反応せずそのままだったので僕も手を動かさなかった。


 彼女は手が触れている事に気付いていないのだろうか。気付いているけど気にしていないのだろうか。このくらい良いやって思っているんだろうか。それとも意気地なしって思っているだろうか。

 彼女の本心は窺い知る事は出来ない。口に出して訊く事なんて当然出来ない。だから僕は現状維持を選択する。言ってみればヘタレだ。


 手の甲から伝わる彼女の体温。触れている部分なんてほんの僅かなのにそこから全身に熱が伝わり体中が熱くなってくる。特に下半身。


 手を握りたい……当然湧き上がって来る欲望。それは彼女に対する恋心なのか、雄としての性的欲求なのか今の僕には判断出来ない。


 ほんの少しでも手を動かせば彼女の手を握る事だって出来るのに僕には勇気がなかった。拒絶されたら堪えるだろうし、明日からも続く勉強会だって気まずくなるだろう。だから僕は手を動かさず細く長く続く幸せを優先した。それは安全策という名の逃げ。


 これがアオイじゃなかったらどうだっただろう。適当な行きずりの女性ならば体を求めていたのだろうか。いや、そんな相手ならこんなに心臓が忙しくなることもなかっただろう。そのくらい息苦しい。

 少し触れているだけでもこんなに心臓が苦しいのに、手を握りなんかしたら本当に心臓発作で死んでしまうかも知れない。


 ――だからこのままでいいのだ。


 勝負しなかった。


「今日はありがとう」

 僕は寝ころんだまま天井を見つめて言った。


「ううん、明日からもがんばろうね」

 彼女も天井を見つめたままそう答えた。


 首を曲げ時計を見ると午後11時を過ぎていた。


「こんな時間だよ。送るよ」

「……うん……そだね」

 彼女は冴えない表情で身を起こす。その動作で彼女の指が僕の手の甲から離れた。急速に冷えて行く体温。戻って行く心拍数。萎えて行く気持ち。これでいいのだ。


 マンションを出て並んで歩いた。


「分かってる? 参考書と問題集をバイトに持ってくるんだよ?」

「うん」

「休憩中は政経の参考書を読むんだよ?」

「うん」

「バイト終わったらわたしの家で1時間だけでも勉強するからね?」

「うん……でも本当にいいの?」

 横にいる彼女は首を曲げ僕を見上げて、


「いいよ」と言って首を傾げた。


「池上さんの家で勉強する時は、ご飯どうする?」

「池上さん?」

「あ! アオイ……」

 彼女は満足そうにふふんと笑う。


「問題集解いてる間に作るよ?」

「でも、そうすると食費が……」

「帰りに一緒にスーパー寄って買ってくれればいいじゃん」

「あ、そうか、そうだね」

 もういっそのこと一緒に住んだ方がいいくらいじゃ無いだろうか。当然そんな事は提案出来ないけど。


「木曜日は休みでしょ? わたし午後の講義が無いから終わったらすぐに行くからね」

「はい」

「じゃあ木曜日の午前中の宿題」

 そう言うと彼女は僕に体を向け右手の人差し指を立てた。


「はい……?」

 なんだろう。


「わたしの食器一式買っておくこと!」

 あ!


「はい、わかりました!」

 

 彼女は僕の言葉を聞いて白い歯を見せた。

 

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