第13話 僥倖5
「数学、どのあたりまで思い出せる?」
難しい質問。正直どれをどの学年で勉強したのかすら思い出せない。行列計算かなんかでオカマの法則とかあった気がするけど、あれは数学の教師が勝手に名付けただけだろう。
「三角関数とか、サインコサインタンジェント、微分積分」良い気分はなんとか言い留めることが出来た。
「大崎さんの高校って文系コースとか理系コースとかあったの?」
「一応」
「どっちだったの?」
「理系」
彼女は少し目を丸くし、
「へえ、意外」と言った。実際僕は、数学は割と出来た。逆に日本史や世界史と言った、勉強時間イコール学力という科目が苦手だった。それは授業以外で勉強をする事が無かった僕には当然とも言える。
「じゃあ数学に関しては復習って感じになるね。良かった良かった」
何が良いのか分からないけれど彼女は一人で納得しているようだ。
「とにかく、授業の様にはやってられないから、どんどん問題集をこなしていこう。解けない問題があったらその都度説明していくから」
「わかりました」
実践あるのみ。彼女はそう言って僕に問題集を解かせた。解らない問題があるとそこで「これはこの公式をつかうの」と丁寧に説明してくれる。その都度彼女の顔が僕に近付いてきて髪から彼女の匂いを僕の周りにまき散らした。
1時間ほど集中して問題を解いたり、説明を受けたりして、
「ちょっと休憩」と言ってぐーっと伸びをした。僕も釣られて同じように伸びをする。
「大崎さん、思ってたより覚えてるね?」
「そうかな」
僕は殆ど氷の溶けたコーラのグラスを口に近付けつつ答える。
「うんうん、数学に関しては心配ないかも。正直、数学が一番心配してたからちょっと安心した」
そう言った彼女は僕の方に寄り掛かるように左手を床に着けるもんだから距離が接近して心臓がうるさく音を立てた。休憩の時くらい僕の向かい側へ行けば良いのに彼女は相変わらず僕の右側にペタンコ座りをしている。パーソナルスペースもあったもんじゃない。友達よりは明らかに近い距離でまるで肩を抱けと言わんばかりの位置に彼女は座っている。彼女は僕とこんなに近くにいて抵抗ないのだろうか。信用しすぎじゃないだろうか。僕だって男なのに。
だけど深く考えるな。変な意味はない。これが彼女の普通なんだ。これが普通で良いのかと少し心配になるけれど、これが彼女の普通なんだ。僕は邪念を振り払うようにグラスに残っているコーラ味の水を飲み干した。
「じゃあ、ここからここまで解いておいて。解らない問題は後で説明するから飛ばして解ける問題だけやっててくれればいいから。わたしその間にご飯作るね」
そう言って彼女は僕に指示を出すと、「よいしょ」と言って立ち上がりキッチンへ向かう。僕の右側の温度が急激に下がった。
冷蔵庫を開けて、今日僕が買ってきた食材で何を作るか思案している様だ。しばらく彼女の後ろ姿を眺めていたけれど、ふと我に返り問題を解き始めた。
彼女は料理を作る傍ら、時折僕の様子を見に来てくれて僕が解けなかった問題についてヒントをくれる。バイト初日に彼女の大学を訊きそびれたけれど、彼女は思いのほか勉強が出来る人なんだと認識させられた。彼女の教え方やヒントの出し方が、数か月前まで真剣に大学受験の為の勉強に取り組んできたという事実を顕著に表している。そんな彼女を見て劣等感が沸いた。高校時代、夢も目標も無く何も努力してこなかった自分自身が心の底から恥ずかしく思えた。
「わたしのお茶碗ないじゃん!」
不意に聞こえた声に首を向けると、頬を膨らませた彼女が仁王立ちして僕を見ていた。あ! そう言えば食器類は茶碗や皿など一組しかない。
「一緒に食べるって言ったのにさ」
ぷんすか! という音が聞こえてきそうな表情で言う。
「そうだったね、ごめん」
「もう、しょうがないなあ。もうフライパンをお皿代わりにして、この小鉢にご飯つけるからいいよ」
ブツクサ言いながら、それでも本気で怒っている感じではない。
「テーブル空けてー」
そう言われて慌てて問題集やノートをテーブルからどかす。
ちゃぶ台に運ばれたフライパンのままの豚の生姜焼きにお椀とマグカップに注がれたお味噌汁。茶碗と小鉢に入ったご飯。水切りのザルに入ったままのキャベツの千切り。僕の箸とフォーク。なんとかある食器類で取り繕った。
「じゃあたべよ?」と言って首を傾げる。ご飯が喉を通らなくなりそうな程愛らしい仕草。彼女といたらダイエットになるか下手したら衰弱するかも。そんな事を思いながら料理に箸を付ける。
「おいしい?」
「うん、すごいおいしい」
本当に美味しい。僕も独り暮らしなので当然自炊するけれど、やはり同じ料理でも作る人によって全然味が違う。彼女の生姜焼きは本当に美味しかった。
「お代わりあるからね」
「うん」
なんか同棲してるみたい。そんな事を考えるとまた胸が詰まって食事が喉を通らなくなる。
「ほら、こぼしてるよ」
キャベツの千切りが箸からこぼれ落ちる度に彼女の左手が僕の方に伸び、テーブルに落ちたキャベツを拾っては自分の口に入れる。
それは唐突に現れた。胸に突然沸いた温かい気持ち。じわっと広がる感情。女性の優しさ。生まれて初めて感じる温もり。これは……?
「どうしたの?」
彼女に見惚れていた様で箸が止まっていたようだ。
「あ、ううん。料理、上手いんだね」
動揺を悟られない様に料理を褒めた。ただ、僕は今、千切りのキャベツを無心で食べていて、そこを突っ込まれないかヒヤヒヤしたけれど。
「お母さんが仕事で遅かったからね。代わりにわたしがやってたの」
確か母子家庭って言ってたっけ。また変な事思い出させちゃったかな。
「そうなんだ。良いお嫁さんになれそうだね」
「大崎さんの?」
「ええ!」
「あははは、冗談だよ」
心臓止まるかと思った。でも、冗談か……そうだよなあ。
「毎日ちゃんと食べてる?」
マグカップに注がれたお味噌汁を飲みながら彼女が訊いてくる。
「それなりに」
「ちゃんと野菜もたべなよ? 冷蔵庫野菜全然ないじゃん」
「うん……」
僕の体を心配してくれているのが伝わって来る。その度に心に温かい物が広がる。これは完全に初めて抱く感情だ。僕に母がいればこんな感じだったのだろうか。
「木曜日も来るからね? もっと野菜買っておいてね?」
「うん」
木曜日も来てくれるんだ。嬉しさを噛み殺して頷いた。
「それと」
彼女は箸の代わりに持っているフォークを止めて真っすぐに僕を見つめてきた。
「毎日参考書と問題集はリュックに詰めて持ってきて。バイトが休みの月曜日と木曜日以外はバイトの帰りにわたしの家で1時間だけでも勉強するからね。いい?」
「えぇ……」
彼女の家にも行ける。それにそれだと毎日会えるじゃないか。でも大丈夫だろうか。僕は良いんだけど、彼女の学業に弊害が出ないだろうか。
「でも、池上さん、寝るの遅くなっちゃわない? 僕は良いんだけど」
「わたし土日のバイトは午後からだし、水曜日は午前の講義がないんだよ。それに一生続く訳でも無いじゃん。1ヶ月半くらい大崎さんに協力するよ」
そこまでしてもらってもいいのだろうか。何故、そこまでしてくれるんだろう。心の奥底、本当に奥の奥に、ひょっとしたら僕に気があるのかも……なんて気持ちがミジンコ程の大きさで沸いた。
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