第11話 僥倖3
「へえ、社員登用試験? それを受けるの?」
リネンを畳ませていた池上さんと合流し2人でルーム作業をしながら先程の出来事を報告した。
「うん。ずっとアルバイトのままっていうのもアレだし、今からどこか正社員の面接をする位なら良い話かなって思ったんだけど」
今の会社は僕の生い立ちとか人間性とか全てを受け入れてくれている。それでいて働いてきた3年間で信頼できる人として評価してくれた。こんなに有難い申し出はないだろう。ラブホテルの正社員と言う肩書が世間的にどうなのか良く分からないけれど、孤児の僕が今さらそんな事を気にしてもしょうがない。
「良いと思うよ! 何かに挑戦する事って素敵だよ。わたし応援する!」
素敵とか、ドキっとする事を平気で口にするなこの人は。それにもうすっかりタメ口になってるし。嬉しいから良いんだけど。それに池上さんから応援されると更にやる気がみなぎって来る。だけど不安もある。
「ただ、筆記試験があって」
「筆記試験?」
「うん、高校卒業程度って言うけど」
「科目は?」
「国語、英語、数学、政経だって」
冷静に考えると、高校卒業程度って、大学入試と同じレベルって事だ。ヘンテコな4科目とは言え、大学入試レベルの試験を1ヶ月半程度勉強したところで物になるのだろうか。
「大丈夫?」
「自信ない」
がっくり項垂れて首を左右に振る。
「教科書とか参考書あるの?」
「ないですよ」
「だよねえ。わたしも高校の教科書なんて置いてきちゃったしなあ」
教科書は無理でも、参考書くらいは買うしかないか。
池上さんは焦点の合っていない目でどこかを見つめながら何かを考えているのか、ひたすら同じ所をコロコロで掃除している。
「仕方ないなあ。家庭教師やってあげようか?」
「え!」
「なに? その意外そうな顔」
「いえ、そんな顔は……」していないと自信を持って言えないでいた。それに驚いたのは彼女の学力を疑っている訳ではなくて、彼女が家庭教師をしてくれると言う事実だ。
「わたしこれでも現役だよ?」
言われてみればそうだ。彼女は今年大学入試という試練を乗り越えてこの東京にやってきたんだ。だけど、彼女にそこまで甘えても良いのだろうか。
「物凄く嬉しいんだけど、そこまで甘える訳には……」
「もちろんタダじゃないよ?」
そう言って小首を傾げる。
「はあ……」
むしろその方が気兼ねが無いので有難い。
「そうだなあ、家庭教師一回に付き、晩ご飯奢りっていうのは?」
こういうのなんて言うんだろう? 一石二鳥? 鴨がネギ背負って来る? とにかく僕は彼女に勉強を教えてもらい、一緒に晩ご飯も食べられて、その時間一緒にいられる訳だから僕にとってはメリットしかないんだけど、彼女のメリットって何? 一食分の食費の節約? 本当に良いのだろうか。
「僕ばかり得してる気がするけど?」
「わたしだって得してるよ?」
それは晩ご飯代が浮くという意味だろうけど、だとしたら全く割に合わない仕事だと思う。
「本当にいいの?」
「わたしも大崎さんの事応援したいから。その代わり絶対受かってよね」と、いつもの首を傾げるポーズをする。
確かに、そこまでしてもらって落ちたら彼女の面目丸潰れだ。絶対に受からないと。
「ありがとう」
「じゃあ、今日バイト終わったら早速作戦会議だね」
「え? 今日?」
「だってあと1ヶ月半でしょ? とっとと始めないと間に合わないよ」
「そ、そうだね」
信じられない。昨日に引き続き今日も一緒にいられるなんて。
その日の僕はもう完全に浮かれてしまい、自分では自覚がなかったけれど、「顔、ニヤついてるよ」と池上さんから何度か指摘を受ける事となった。
バイトが終わり僕は何故か赤い顔をした池上さんと2人で並んで適当なカフェを探しながら歩いていた。僕は完全に麻痺しているので気が付かなかったけれど、よく考えたらこんなラブホ街を男女で歩いていたら勘違いされてしまうな。彼女はそれを気にしているんだと少ししてから気付いた。
僕は何気なく上野方面へ歩きまだオープンしているカフェに入った。
「お腹空いてない? なにか食べる?」
「昨日もご馳走になったから今日はいい」と彼女は遠慮するので、僕は自分の飲み物と彼女の飲み物を注文した後に勝手にミックスサンドを一つ頼んだ。
空いているテーブルを確保し、「良かったら食べて」とミックスサンドをすすめると「ありがとう」と言って手を伸ばした。
「とりあえず参考書を買いに行こう」
口の周りにマヨネーズを付けてミックスサンドを頬張りながら彼女は言う。
「うん」
「月曜休みだよね? 学校終わったら一緒に買いに行くから待っててくれる?」と言って首を傾げる。口の周りに付いたマヨネーズが滑稽すぎて吹き出しそうになる。
「ぷっ、いいの? せっかくの休みなのに……んぶっ」
「いいよ、どうせする事無いし……どうしたの?」
「いや、なんでもない。本当にありがとう、ぷっ!」
後でまた拭ってあげよう。
「どこで待ってたらいい?」
そう言えば彼女の大学を知らない。
「大崎さんの家、練馬でしょ? わたし家の近くまで行くよ?」
「え? 家の近くに?」
「だってどうせ勉強するのは家でしょう?」
「――僕の家っ!?」
心臓が口から飛び出るほどに驚いてしまった。その声に他の客が僕たちを見つめる。慌てて口を押さえた。
だけど、よく考えたらお互いのどちらかの家か図書館くらいしか勉強をする場所はない。
「だめ? じゃあわたしの家でもいいよ?」
わたしの家でもって、なんでそんなにも無警戒なんだ。大丈夫かなこの人。
「いや、僕の家でもいいんだけど……」
「だけど?」
「その……いいのかな?」
「なにが?」
「僕、一応男だし、その……家で二人だけって……」
「あ……」
彼女もその事実を忘れていたらしく、ようやく気が付いたのか顔を赤くしてぽかんとし、
「べ、べつに変なことしないでしょ?」とあたふたして言う。
「し、しないけど……」と僕も赤くなる。
彼女はジト目で僕を見ながら、
「するの?」と声を低くして訊いてくる。
「し、しません。断じてしません」
「じゃあいいよ」
でも、下心が1ミリも無いかと言えば噓になるけど。どっちかって言うと1ミリどころじゃないし。
「僕の家でもいいけど、帰り一人で帰らせるのも心配だから出来れば池上さんの家がいいかな?」
「ええ? 送ってくれればいいじゃん?」
そう言ってほっぺを膨らませる。なるほど、そうか。さらに一緒にいられる時間が増える訳だ。
「そうだね、僕送るから僕の家にしようか」
もうどっちでも緊張するからどっちでも良くなった。むしろ頭を冷やす為に彼女を家に送る方が良いのかも知れない。
「じゃあ決まりだね。駅周辺に本屋ってある?」
確か駅前にあった気がする。そう伝えると、
「じゃあガッコ終わったらLINEするから駅で待っててよ」と言った。
「あ、あの、報酬の晩ご飯はどうするの?」
彼女はいつもの首を傾げる仕草をしながら「うーん……」と考え、
「適当に食材買って冷蔵庫に入れておいて。私が作るから」と言う。
「そんな! 悪いよ」
「だって毎回外食してたらお金勿体ないし栄養も偏るよ? 大丈夫、大崎さんが練習問題解いてる間に冷蔵庫にある食材で適当に作るから」
そんなの、本当に僕にはメリットしかないのでは。ご褒美ばかり受け取って僕は彼女に何も返せないじゃないか。何故、ここまでしてくれるのだろう。きっと深い意味はない。何も無いんだ。何も期待してはいけない。僕が気にしすぎているだけだ。彼女はただ好意でしてくれているだけなんだ。
「本当にいいの?」
「いいよ。その代わり絶対受かってよね」
「はい、わかりました」
僕にはそう答えるしか選択肢は無かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます