第10話 僥倖2

「仕事はどうだ?」

 唐突に三宅さんが訊いてくるもんだから少々焦ってしまう。


 どうだ? と訊かれてなんて答えればいいんだろう。質問の意図が解らずぼんやりしていると、

「楽しいか?」と続けざまに訊かれる。


 楽しいか? って、はっきり言ってしまえば楽しくない。やりがいも感じない。毎日シーツを剥がして、食器をかたずけて、風呂の掃除をして情事の後始末をしているだけだ。親子ほど年の離れたカップルを目撃しては嫌な気分になったり、色と欲望と金が男と女の間でやり取りされる現実を知って憂鬱になったり。食っていく為に仕方なくやってるのが本音である。


 どう答えて良いか分からず、

「まあ……」と答えた。


 その時、ずっと無言だったスーツの男性がすっと立ち上がると背広の内ポケットに手を入れ、黒い名刺ケースを取り出すとその中から一枚名刺を取り出し、

「大崎君、初めまして、前島と申します」と言って頭を下げ両手を添えて名刺を差し出してきた。


 こんな事は初めてなのでどう対応して良いか分からず、ひとまず僕も慌てて立ち上がり頭を下げながら差し出された名刺を受け取った。


 『取締役関東地区エリア統括部長 前島公一』


 名刺にはそう書かれていた。物凄く偉い人なんだろうという事は分った。そんな人がいちアルバイトの僕に頭を下げるもんだから恐縮してしまう。僕には勿論名刺など無いし、ひとまず自己紹介を返そうと思い、

「大崎真也です」と言って深々と頭を下げた。

 時間にして3秒ほど頭を下げてから直る。


「座って」と右手で椅子を示しながら言われるので再び腰掛ける。前島さんは穏やかな表情をしているけれど、眼光は鋭く力強さを感じた。


「三宅君から君の事は聞いているよ。真面目に業務に取り組んでくれているってね」

 僕は目だけ動かして三宅さんを見ると、ニヤリとした顔をしていた。


「いえ……」と頭を下げながら答える。


「大崎、話って言うのはな、お前、社員登用試験受けてみないか?」

 いつの間にかタバコに火をつけた三宅さんが前島さんの話を引き継ぐ様に僕に話の本筋を説明してくれた。


 社員登用試験。社員になれると言う事だろうか。この僕が? 寝耳に水の言葉にぽかんとしていると、前島さんがコホンと一つ咳払いをしてから、

「大崎君、ウチはね優秀な社員を募集している。学歴や能力が高いに越したことは無い。だけれど、優秀なだけで不誠実な奴はダメだ。むしろ優秀じゃ無くても誠実な人が欲しいんだよ。三宅君に聞いたけれど、君はここでコツコツと業務をこなし、さらにアルバイトとして入ってから一度も休んだ事がないそうだね?」


 その通り、僕は一度も休んでいない。少々の風邪くらいなら無理して出勤したし、運良く大病にも罹らなかった。そもそも休まなければいけない用事も無かったし、何より休めばそれだけ収入も減ってしまうから簡単には休めない。それを真面目で誠実かと問われると少し違う気がする。責任感とも違う。敢えて言葉を探すならば臆病なだけだ。だから僕は休んだことが無い事実だけを肯定する為に、

「はい……」と答えた。


 前島さんは少し笑みを浮かべて小さく頷く。


「社会人にとって一番大事な事ってなんだと思う?」

 難解な事を聞かれた。なんだろう? 難しい事ばかりでなんて答えれば良いか分からない。


「責任感……ですか?」

 僕は無い知恵を限界まで絞って一つの単語を捻り出した。


「うむ。そう言うのもひっくるめて、信頼だ」

「信頼……ですか」

 前島さんは「そうだ」と言わんばかりに大きく頷いた。


「大事な店を任せるのに信頼出来ない奴に任せられないだろう? 多少優秀じゃ無くても良い、信頼さえ出来ればね」

「はあ……」

 何となく解るような解らないような。簡単に頷くことが出来ない。


「信頼と言うのは大事なんだよ。そうだな……例えば、僕には高校生になる娘がいるんだ。いつか娘も大人になり、恋人でも出来て、僕にその恋人を紹介をしに来たとしよう。その恋人とやらが大手の一流企業に務めて居たり、国家公務員だったりすれば、それに越したことはない。だけれど、そいつが不誠実な奴だったら娘は絶対にやれない」


 前島さんはコーヒーを一口啜り、


「別に仕事なんて何でもいいんだ。そいつが信頼出来さえすれば。コイツなら娘を泣かせたり傷付けたり苦労させたりせず、幸せにしてくれると思えば、そういう奴に娘はやりたいんだよ。頼りがいのある奴かどうかなんだよ。いくら大企業に勤めていても頼りがいの無い奴は駄目だ。信頼って言うのはそのくらい大事なんだ」

 良い例えが思いつかなくてすまんなと付け加えて『信頼』について熱く語った。 


「三宅君から君の事を聞いてね、君は信頼できる人だと判断したんだ。勿論、簡単に社員にする訳にはいかないよ。筆記試験もあれば面接もある。だけど、信頼というステータスだけはこの3年で当社の基準を満たしていると判断したんだ」

 前島さんはそう言うと残りのコーヒーを一息で飲み干した。


「大崎、どうだ? 丁度6月に中途の採用試験があるんだ。それを受けてみないか?」

 再び三宅さんが前島さんの話を引き継ぐ。


 願ってもない話だと思った。今は若いから良いけれど、ずっとバイトで生活していくのもいつか限界がくるだろう。社員になれば収入も安定するだろうし、保障ももっと手厚くなるのだろう。

 だけれど、筆記試験とはなんだ? 高校卒業して3年もブランクがある。今さら勉強した所で受かるのだろうか。


「あの、試験とは?」

「それほど難しい物でもない。高校卒業程度の4科目だ」

 4科目。なんだろう?


「4科目ですか?」


「国語、数学、英語、政経の4つだ。高校で勉強しただろう?」

 政経……? 高校で何年生の時か忘れたけれど、1年だけ授業を受けた気がする。それを今から勉強するのか。6月と言っていたっけ。じゃあ実質1ヶ月半しかないじゃないか。間に合うのか?


 でも挑戦してみる価値はある。ずっと目標も夢もなく燻っていたんだ。昨日、キラキラした池上さんを見て羨ましいと思った。僕には無い輝きだったから。僕も彼女みたいに目標があれば輝ける気がする。いや、むしろ輝きたいんだ。彼女と同じ位に。そうでないと彼女の隣にいるのは不釣り合いだと思った。今から勉強して間に合うかどうかとか、試験に受かるかどうかとか、そんな事は関係なく何か目標に向かって努力してみたい。


「勿論、社員になれたからと言ってそれで終わりじゃないぞ。すぐに衛生管理者の資格も取ってもらわねばならん」

 

 脅しのような三宅さんの言葉も今の僕にはただの燃料だった。熱く燃えているのがわかる。どんどん燃料を投下されればもっともっと燃えそうだ。


「やります。試験、受けたいです」


 三宅さんはもう僕の答えなど初めから判っていると言う表情で大きく頷いた。


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