第05話 邂逅5
バックヤードに戻り時間を確認すると7時半になっていた。
あと一部屋いけるかな。
「池上さん、あと一部屋行く。疲れた?」
「大丈夫です」
松岡修造のポーズで気丈に言ったけれど、きっと初日で疲れている筈だ。僕くらいになれば一人でも1時間半で作業が終えられる。最悪彼女を椅子に座らせて休憩させてても終わらせられるな。そう思い、
「じゃあ507へ行く」と言うと、
「はい」と直立不動になって答えた。
お互いバスケットを抱えエレベーターに乗り込み5階で降りる。そのままドアを開けて廊下へ出ると、丁度、客専用のエレベーターのドアが開きカップルが出てきた。慌てて彼女の腕を掴んでバックヤードへ逆戻りする。腕を掴んで無理やりバックヤードへ引き返した為、僕と彼女の距離が近くなり必然的に彼女が僕の腕の中に納まるカタチになった。
「え?」と驚く彼女に、
「お客様とは鉢合わせない様に」と状況を説明しながら弁解した。
「はい……」と言った彼女は心無しか耳が赤くなっている気がした。僕の心臓も鼓動が早くなった。
ドアに耳を当て、客室のドアが閉まる音を確認してからそろっとバックヤードのドアを開け廊下を覗う。大丈夫そうだ。
「じゃあ行こう」と言って促した。
507号室でも池上さんには洗面所を担当させた。流石に少し作業は早くなったようだけれど、俯き加減で明らかに疲労の色が見える。小さな体で慣れない作業を修道僧のように無口な男に気を使いながらこなしたんだから無理もない。僕はフロアをとっとと終わらせ、
「疲れてるでしょ。あとは僕がやる」と言って彼女の横に立ち場所を代われという意思表示をした。鏡越しに彼女と目が合う。彼女はしばらく目をパチクリさせた。
「大丈夫です。お金頂いているのでちゃんとやらないと――」
「今日は初日だから疲れてるでしょ? ほらどいて」
僕が珍しく早口でまくし立てたもんだから彼女の動きがピタっと止まる。怖がらせちゃったかな。
だけど、渡りに船だったのか彼女は少し頬を膨らませはしたけれどすぐに笑みを浮かべ、
「ありがとうございます」と言って場所を明け渡した。彼女は場所は明け渡しはしたけれど僕の斜め後ろに立って鏡越しに僕を見つめ微笑んでくる。なんだろう。振り返ると鏡の僕から実際の僕に視線を移しなおも微笑みながら見上げてくる。
「どうしたの?」
「優しいんですね?」
そう言ってまた小首を傾げた。萌えた。こんな笑顔が見られるならどれだけでも作業を代わってあげられる気がした。
顔が熱くなり思わず僕の手も止まってしまった事に気付く。
「フロアのチェックをしておいて」と言って顔を背けるようにしてシッシとフロアの方に追いやる。呼吸を整えながらとっとと洗面所とトイレの清掃を済まし、自分自身で持ち場をチェックした。
「おーけーです」と言って戻ってきたので、
「こちらもおーけーです」と言った。
2人でバックヤードに戻ると8時40分だった。あと20分。
「池上さん、時間が中途半端に余ったらここでリネンを畳みます」
「はい」
僕はシーツやピローカバー等を作業台に乗せて畳み方を見せながら説明した。
「冬はシーツが手の油を吸収して手荒れが酷いから手袋をした方が良いです」
冬までいて欲しいと願いを込めてそうアドバイスをした。
「そうなんですね」
「ハンドクリーム必須です」
冬までいてくれるだろうか。ずっといて欲しいな。大学生と言う事はずっとここで働いてくれたら4年は一緒に働けるんだけど、仕事が辛くて辞めちゃうかも知れない。そんなのは少し寂しい。彼女とはもう少し仲良くなりたい。
午後9時になり、
「じゃあ終わりましょう」と言うとどっと肩を落とし、
「つかれたあ」と言った。
更衣室で着替えてバックヤードに戻る。彼女はまだ着替えているのか、もしくはもう着替え終わって帰ってしまったのか姿が見えなかった。
僕は少し期待をしてそのままそこで待つことにする。少しでも彼女といたかったから。
5分程して更衣室から彼女が出てきた。良かった。彼女は『MILK』という文字がプリントされたピンクのトレーナーにジーンズと言うラフな服装だった。MILKなのに何故ピンク? いっそMILKの文字の前に『イチゴ』とサインペンで書いてやろうかと思った。
「大崎さん、待っててくれたんですか?」
そんな僕の悪巧みなど知らない笑顔の彼女が小走りで近寄ってきた。なんて答えよう。本当は待ってたけれど正直に言ったら気持ち悪がられないだろうか。待ってなかったって嘘を吐くのも薄情だと思われないだろうか。
「待って、いました」
結局正直に言った。彼女は嬉しそうに、
「ありがとうございます。一緒に帰ろ?」と小首を傾げ笑顔を見せてくれた。トクンと心臓が跳ねて喉が震えた。
2人でエレベーターに乗り1階まで降りタイムカードを押してフロントの吉本さんに挨拶をしてから従業員用の出入口から外に出た。夜とは言え4月の風は柔らかく、仕事終わりの体を優しく撫でてくれる。
僕は最寄りの駅へ向かって歩き出すのだけれど、彼女も付いてきたので同じ駅なんだろう。
「大崎さん、家どこですか?」
「練馬です」
「わたし中野です」
「そう」
なんでもっと気の利いた事言えないんだろう。いつもそうだ。ここで会話が終わってしまう。もっと話したいのに。それはそうと中野と言う事は結構近いのかな。すごく気になるけど怪しまれそうで詳しく聞けない。
「あの!」
「はい?」
「中野、なんだ?」
「ふふふ、そうですよ?」
「……」
ええと、何か話さなきゃ。どうしよう。駅が近付いてくる。
「ひょっとしたら家、近いかもですね」
僕の疑問を彼女が代わりに訊ねてくれた。
「そ、そうだね」
「はあ……本当に疲れました。くたくたですよ」
「あの!」と再び声をかける。
「はい」と言って僕を見つめにっこりと笑ってくれた。
「お腹、すかなぃ?」
明らかに尻すぼみに聞いてしまった。これは恥ずかしい。さらに断られたらもっと恥ずかしい。それにいきなり食事に誘って引かれないだろうか。不安ばかりこみ上げてくる。だけど彼女は僕を見つめ笑みを浮かべたまま、
「ペコペコですよお」と言ってお腹を擦った。
彼女は笑顔で僕を見上げ僕の次の言葉を待っている様だ。決して焦らせず、慌てさせない様に。誘っても大丈夫だろうか。
「何か、食べる? 一緒に」
彼女は笑顔のまま何故か一度僕とは反対の方向を見て、それから再び僕に向きかえり、
「いいよ」と言って嬉しそうに笑った。彼女の頬まである横髪か風に揺られ唇に絡む。
再び心臓が飛び跳ねゴクリと息を飲んだ。彼女に見つめられ僕の視線が思わず揺れる。目のやり場に困り俯いて足元を見た。
「あの、奢るから」
から……から、なんだと言うのだろう。きっと奢るから一緒に食事をして下さいと無意識に思っていたんだ。
「本当! 嬉しい。やっぱり大崎さん優しい」と言って彼女は喜んだ。食事を奢るだけでこんな事言って貰えるなら安いものだ。毎日でも奢ってあげたい。
「何が、いい?」
「んー、じゃあハンバーガー」
「ハンバーガー?」
そんなんでいいのだろうか。
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