第2話

 薄い、多分誰も気付かないくらいを意識して、でも口紅を塗った。

 朝の職員室の、やるぞ、が七割、まだエンジン掛からない、が三割の空間は、交響曲のように私を鼓舞する。いつもは一日の仕事へのエールだけど、今日は違う。三割側で燻る私は今日はいない。垂石先生は机で作業をしている。

 まだ始業のベルまで時間がある。

 何かをしている人にとって他者の介入は常に邪魔の要素を持つけど、関わる側には関わるだけの理由がある。私には理由がある。

 朝のシンフォニーの中を泳ぐように渡って、彼の横に立つ。

「垂石先生」

「あ、おはようございます」

「昨日はありがとうございました。何か困ったことがあったら、いつでも言って下さいね」

「はい。頼りにしてます」

 私は自分の席に戻る。私の行動はこの部屋の音楽を乱さなかっただろうか。

 いずれベルが鳴り、それぞれが現場に向かう。

 授業になるとスイッチが入って、その間は雑念が入らない。

 昼休みが終わろうとしている。

 私は目を閉じて、上空へ向かう。

 向かったのに、突然の引力でカクッと急降下、私の横に、中身の私が立つ。とことこと垂石先生の席へ行き、じっと彼を見る。

「野城先生、今日も冊子はありますか?」

「あります。……お願いしてもいいですか?」

「もちろんですよ。ああやって廊下を歩くのもいいものですね。自分一人だと次の授業のことしか考えてないですから」

「大変じゃないですか?」

「いえいえ、他でもない野城先生のためですから」

「それは、どういう意味?」

 彼は頬を赤らめる。

「ここではちょっと。放課後に少し時間ありますか?」

「……もちろんです」

 彼の瞳には決意があって、ああ、決断力のある人っていいなーー

「野城先生!」

「え!?」

「もう昼休みは終わりですよ」

 原野はらの先生が困ったような顔をして横に立っている。どうして垂石先生じゃないの? サッと視線を走らせたら、彼はいなかった。

「ありがとうございます」

 私は一人で冊子を抱えて、音楽室に向かった。

 授業が終わり、事務仕事も今日の分は終えて、帰路に就く。雨が振り出しそうな重い雲、この街に蓋をしたみたい。

 校門を潜るところで、後ろから小走りの足音がして、振り返ると垂石先生だった。大きく手を振る彼が私に追い付く。

「偶然ですね。駅まで一緒に帰りませんか?」

 顔がキラキラしている。

「もちろんです」

 私もそうかも知れない。

 彼が左、歩く。少しの沈黙で私の勇気は十分充填された。

「垂石先生は、どうして私に親切をしてくれるのですか?」

「困っている人を見たら当然です、ってのは建前で」

「建前?」

「祖父の教えに従ってるんです。『恩は複利』って言うんですけど、借りた恩も貸した恩も複利計算のように放っておくと大きくなる。それは人生を圧迫する程に。だから、必ず恩は返す。渡せる恩は渡す」

 なるほど、と私は頷いて、だったら、と継ぐ。

「合理精神に則って、私に恩を乗っけてたんですね」

「それは違います」

 語調が頬をはたくように強くて、私の足が止まる。彼も立ち止まる。

「違うの?」

「僕は、恩を返しているんです。きっと先生は忘れていると思いますけど、異動して来て最初に声を掛けてくれたのは、校長・副校長を除いたら、先生だったんです。それが僕をどれだけ救ってくれたか。ああこれは返し切れない恩を受けた、そう思ったんです」

「それでプラマイゼロにしようとしているの?」

 彼は黙る。横に立っている塀がその沈黙を支えている。ハンマーを出して砕きたい。飛び散った破片が世界の残りを余すことなく汚染して、口を噤めなくすればいい。

 彼は昼休みに見たときと同じ顔をする。覚悟の灯った瞳、決断力。

「そうではありません。……僕は、先生のことをもっと知りたい」

「私も、垂石先生のこと全然知らない」

「この街では生徒と保護者の目に触れます。電車に乗って、適当な駅で降りて、少し、話しませんか?」

「娘のお迎えがあるから、三十分だけなら」

 彼は深く頷く。

「十分です」

 私達は早足で駅に向かい、乗り継ぎの大きな駅で下車した。人の多い街は匿名性が高くて、紛れるには都合がいい。ボックスシートでプライバシーが比較的保たれる喫茶店に入り、コーヒーを二つ注文した。他の席の声が聞こえそうだけど雑音に留まり、それがいくつも重なることでシートはノイズのバリアに守られた秘密の空間になった。彼はこういうところをよく利用するのだろうか。周囲を見回す私が収まるのを待って彼が校門の続きを始める。

「『恩は複利』って祖父から聞いたときは、生き馬の目を抜く世界を渡って来たんだな、って思いました。複利って強力で、アインシュタインも『人類最大の発明は複利だ』って言ってたくらいです」

「私にはそれは複利の借金に苦しんだ人の皮肉に聞こえますね」

 あはは、と彼は笑う。

「確かにそうかも知れません。アインシュタインは苦労人ですからね」

 彼はまだキラキラしている。それはアインシュタインのせい? それとも私のせい?

「アインシュタインに憧れますか?」

「僕は学者の道を選びませんでした。だけど、憧れはあります。今の仕事をしているのは打算じゃなくて、人に教えると言うことに喜びがあるからです」

「私は正直に言うと、打算があります。ピアニストになろうとして、音大まで行って、挫折してからの教員だから。でも、実際やってみるとこれはこれで面白いところはあります。でもそれでも、今でもピアノを弾くし、私は教員百パーセントじゃないんだなっていつだって思うんです」

 彼が肩を竦めて見せる。ジェスチャーに反して顔は柔和。

「お互いに人間です。仕事としてやっていることが完全に打算抜きじゃなきゃいけないなんて無理です。僕だっていつか研究の世界に飛び込むかも知れません」

「優しいですね。誰にでもですか?」

「違います」

 私にだけ? それとも限られた複数の人がいるのかな。真顔になった彼は続きを言わない。

 やって来たコーヒーが香りを立てて、凝ろうとした二人の間に柔らかさを充填する。まだ切り込む段じゃないのかも知れない。私の準備が出来るまでの材料が揃ってもいないし。

「垂石先生って、何か好きなものとかあるんですか?」

 彼は瞬きをして、顔を元の穏やかな色に戻す。

「あまり格好いい趣味ではないですけど、ジョギングと読書が好きです」

「走るんですか?」

 ニヤリと彼は笑う。自信がある口角。

「実はフルマラソンにも出場してるんです。東京マラソンも二回当選して、完走しました」

「それはジョギングのレベルじゃないですよね?」

 私が笑うと、彼をそれを受けて嬉しそうに、本当に嬉しそうに顔をくしゃってさせる。若く見えるけど、その皺の具合からは、三十八歳の私とそう違わないのかも知れない。年齢で判断が変わるかは分からないけど、知りたい。

「ちょっと盛りました」

「それは盛るとは逆です。もうずっと走っているんですか?」

「大学ではテニスをやっていて、走ることは多かったですけど、走ること自体を目的にやり始めたのはここ十年くらいです」

 巧妙に計算が出来ない。負けない。

「じゃあ、ブランクがあったんですね」

「そうですね、七年くらいは運動していない期間がありましたね」

 二十二足す、七足す、十は、三十九。ほぼ同い年だ。

「またやろうと思ったのはどうしてですか?」

「体がおじさんに変性してゆくのが自分で不愉快になって。学校で働くのにも体力が必要だってのはありますけど、それよりもずっと、老いへの抗いですね。そう言うの、ありません?」

「私はあんまり抵抗していないかも」

「先生には必要ないかも知れませんね」

 それは老いに関係ない醜さってことなのか、それとも逆に美しいと言うことなのか。言葉だけ捉えればどっちにでも取れるけど、彼の顔に、後者だよ、って書いてある。そう理解するまでのタイムラグに彼はじっと私の目を見るから、私は逸らそうと過っても、でもその瞳を見詰めていたいと思った。

「さっき、校門でどうして声を掛けてくれたの?」

「遠目に見付けて、これは一緒に帰る運命だと思ったんです」

 運命。

 私の顔が熱くなるのが分かる。この男は私をどうしたいのだ。

「大袈裟です」

 彼は、はは、と笑って「そうかも知れません」と返す。

 その笑顔に、この場所が、彼と私の場所が、世界から遊離する。ボックスシートの外には永遠の雲海が広がり、射し込む光に照らされて、ここはとっても暖かい。ここにずっといたい。叶うなら素敵だなって、胸の奥に種が生まれた。それは小さいけれど、とっても強く存在を主張して、水をあげたい、大きく育てたい、そう言う欲求が生まれている。

 でも、その資格が私にあるのだろうか。

 いや、ないのなら彼は私の目の前には座っていない。こんなに煌めく表情をする筈がない。

 いいのかな。

 私はこの気持ちに水をあげていいのかな。

 まだ材料が足りない、足りないに決まっている。こんなにすぐに決断してはいけない。

「垂石先生は、どんなものを読むんですか?」

 違う、そんなことが訊きたいんじゃない。

 彼はタイミングをずらされたような顔をしてから、一回頷く。

「こっちも盛りました。マンガを読みます」

 思わず噴き出すのを手で覆う。

「確かに書物ですけど、かなりイメージ違いますね。でも、私もマンガばっかり読んでますよ」

「世代的に本とマンガが同列に書物なんじゃないかって思うんですよね。先生に年齢を訊くのは失礼ですのであれですけど、僕は今三十九歳、この世代って、ネットもマンガも当たり前に近い世代。でもネットネイティブよりはちょっとだけ上。シーム世代とでも言いましょうか」

「シーム?」

「縫い目って意味のシームです。だからどうだってことはないのですけどね。世代を分けるのって、時代とリンクさせないと意味がないと思うんです。そして、世代ってのは個人を決定的には決めない」

 私は頷く。年齢は合っていた。彼は続ける。

「個人と個人が出会って、物語が始まるんです」

「それは」

「そうやってその人の歴史になります」

 私とあなたの物語だよね。種が強く疼くから、瞬発的に勇気を破裂させる。

「垂石先生と私の歴史も、これから始まります」

 彼はにっこりと笑う。

「はい。よろしくお願いします」

 彼は明言はしていいないけど、私と恋をすると態度で示している。私の中に確固たる種が生まれたから、物語は始まっていい。いや、もう私の側は始まっている。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 でも、まだ形が整ってはいない。そう振る舞うのはその後だ。それくらいは弁えている。

「野城先生、時間大丈夫ですか?」

 咄嗟に見た時計、シンデレラってこう言う気持ちだったのかな、時計を壊したら時間も止まればいいのに。

「アウトです」

「じゃあ、出ましょう」

「あ、連絡先を交換しませんか?」

 店を出て学童へ向かう。明日は土曜日だ、彼には決して会えない。

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