第3話

 ピアノで曲を作る。

 自分のエモーションを限りなく的確に、ときにそれを超えて、メロディーに乗せてゆく。午前中だけでほぼ完成して、細部を調整しながら自分の弾く曲にこころを乗せていたら奏恵が帰って来た。

 彼女は私の演奏の邪魔をせず、弾き終えたところでひょっこり顔を出す。

「ママ、話しかけていい?」

「いいよ」

「いい曲だね。新曲だよね。何て曲?」

 これは「恋の歌」で百パーセントだ。洒落たタイトルなんてない。でも、娘に自分の恋の話をするのはもっと、完全に成就するって分かってからがいい。「こいのうた」……「鯉」……。

「『さかなの歌』よ」

 奏恵は目を白黒させて、首を傾げる。

「もっと温度のあるメロディーだったよ。どうして『さかな』なの?」

「インスピレーションの理由が分からないときはあるわ」

 奏恵はふむ、と小さく息をいて、ぺたん、と床に座る。

「そうなんだね。最初から聴きたいな。ねえ、弾いてよ」

「いいわよ」

 小さな部屋だけど、ピアノの前の私の背中は世界の全部と繋がっていて、ピアノと通した向こう側には彼がいる。境目にある私を通った世界が、彼に向かって私の色に、音色に、なる。

 それは胸の種に水をやること。

 それは奏恵をその空間に誘うこと。

 それは私が私の気持ちを信じ始めること。

 彼にも届くかも知れない。

「ママ、すっごいいい曲。これまでの中で一番いい」

「ありがと」

 音楽教諭で生きると決めたときに、音楽をすることを「趣味」と認めなくてはならなくなった。プロとして食べて行こうと思っていたことからの挫折を、何度でも突き付けられる、「趣味」のふた文字。仕事をすれば弾く時間は必然的に減って、烙印としてではなく本当に音楽は趣味になった。再び曲が書けるようになったのは、そうなってから後のこと。

 でも、「さかなの歌」はプロ予備軍のときのどの曲よりも、音楽だ。

 胸にすとんと落ちたら、お腹が空いた。

「奏恵、ご飯作るね」

「うん。胸はいっぱいでもお腹は空く」

 オムライスに、ケチャップでハートを描いた。奏恵は何も言わなかった。


 彼からメールも電話も来ないから、私もしない。職場に行けばそこにはいるけど、ちゃんと話すことはなくて、業務上のことだけやり取りをする。でも、目が合うことが増えた。それは必然的な距離じゃない、ちょっとだけ遠い距離のときのことだ。小さく笑ったり合図をしたりするだけ。それだけなのだけど、胸がキュンと言う。もう、種は芽を出している。私が水をやって、彼が陽光になる。どちらか一方じゃだめ。

 彼に「さかなの歌」を聴かせたい。

 だから録音したものをずっと鞄に忍ばせている。でも機会が来ない。

 一週間が過ぎて、二週間が経った金曜日の帰り道、校門で毎日期待し続けた足音が後ろからして、振り返る。

「野城先生、一緒に帰りましょう」

 垂石先生。

 自分がロケットになって飛んで行きそう。でも、その込み上がるものを表情筋に乗せる。

「もちろんです」

 示し合わせもなく例の喫茶店へ。

「二週間ぶりですね。でも、その間が全て切り抜かれたみたいに感じます。僕の趣味の話で止まっていました。野城先生は、趣味ってあるんですか?」

「私は音楽教諭ですけど、趣味も音楽なんです」

 ほう、と彼は頷く。私はテーブルに見えない小箱を二つ並べて一つずつ指差す。

「教える音楽と、自分が楽しむためにする音楽は、別なんです」

 そして人を感動させるためにする音楽も別だ。

「何となく分かります。教科としてやっているものと、研究的にやっているものも違いますし」

 それはそれで別の話だけど、そこが重要ではない。

「音楽を、作ります。弾きます。私はピアノを弾きます」

「楽器が出来るのはすごいな、って思います。でも、結果に対してじゃなくて、そうなるまでに積み上げて来たことがすごいと思うんです」

「その視点で見てくれると嬉しいです。どんな技能もいきなりポンと出来る訳じゃないです。でも、同じことがフルマラソンにも言えますよね」

「昨日までごろ寝していた人が急には不可能です」

 彼の音楽的感性とか好みとかは全然分からない。だけど、私のことを受け入れて貰うなら私の音楽が許容可能かは避けては通れない。人に作品を聴かせることに抵抗はない。慣れ切っている。でも、もし彼が拒絶したら。どうしよう。だとしても、聴いて欲しい。

 私が黙った。彼はコーヒーを啜りながら待っている。急かさないし退屈そうでもなく、待つことに意味があると醸して。

 別の話題に切り替えたっていい。収集すべき材料はまだたくさんある。家族構成だって知らないし、弱点も不明、夢とかだって分からない。彼のことまだ全然知らない。私達の歴史は始まっている、私は目の前にいる彼に想いを育て始めている。一番大事な彼の気持ちを私はまだ知らない、予測しているだけ。

 順番は流れに乗せて、足りなければ後で拾えばいい。今は、私の音楽についての時間。

 そして鞄にはあの曲が入っている。

 私はいつの間にか俯いていた顔を上げて、彼に、あの、と切り出す。

「私の作った曲、聴いてみてくれませんか?」

 彼は頬を緩める。

「いいんですか? 是非」

「『さかなの歌』です」

 渡したイヤホンに何の抵抗も示さずに彼は耳に付けた。

 ほんの五分のピアノ曲が流れる間、私は彼の顔を見続けた。彼は最初開けていた目を閉じて、ゆっくり首を振りながら聴いていた。作った食事を大事な人に食べさせるのとは全然違う。料理に命を乗せていないからだろうか。彼は私の料理を好いてくれるだろうか。好物は何なんだろう。マラソンする人なら食べるものとかあるのかな。

 彼がイヤホンを外す。

「どう、でした?」

「未だかつて聴いたことのない音楽でした。端的に言うと、大好きです」

 それが曲に向けたものと分かっているのに、胸が跳ねる。でも、と彼がほんの少しだけ眉間に皺を寄せる。

「どうして『さかなの歌』なのかだけは分かりません。僕には、美しい恋の歌に聴こえました。そこには少しの禁止と、それを乗り越える鮮烈な恋を感じました。どうして『さかな』なんですか?」

「分かりません」

「分からないんですか?」

「インスピレーションがそう告げたから、その名前なんです」

 奏恵にしたのと同じ言い訳をしている自分が急に滑稽で、言い終えてから笑ってしまった。

「そう言うものなんですね」

 彼も釣られて笑う。多分もうこれがこのタイトルの由来でいい。

 彼の好物がハンバーグで、マラソンをするからと言って特別な栄養管理はしていないことと、理科を専攻しているのが彼の中学時代の理科の先生が実験で実際に感電してみたり、硫酸や塩酸を舐めてみたり、その先生は生徒に嫌われながらも生徒のために、生徒のその後の人生のために必要なことをちゃんと教えてくれて、本人には告げてないけど恩師だと思ったことが動機の最初だと言うことを聞いたところで、三十分は過ぎてしまった。

 名残惜しくても娘を放っておく訳にはいかない。

「私の都合ですいません」

「いいえ。また話しましょう」

 別れてからも、彼と育んだ空気が胸の中にじっと残っていた。

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