さかなの歌
真花
第1話
昼休みの終わりには必ず、職員室の自分の席で目を瞑る。五分間だけ仕事から私を離れさせれば、午後の怒涛を乗り越えられる。
生徒達も先生も思い思いのことをしているところから一気に私は飛び立って、上空三百メートル、私達の生きている範囲を眺める。街は確かにあって、学校もちらほら。でも、圧倒的に住宅地。仕事でも学業でもない婦人がこの昼下がりに招き寄せるのは禁じられた恋だ。ゴロ寝でポテチとワイドショーなんてのはイメージだけの主婦。日中の自分の時間をそんな無為に過ごす筈がない。
ほら、ツバメが来た。あっちも、こっちも。街全体がピンク色に染まって、僅かに漏れた隠微さがここまで届いて鼻をくすぐる。最後にセックスをしたのはいつだったっけ。あいつが出て行った後はずっとないし、それどころか
私は仕事の合間にこうやって覗くしか出来ないのに、あの人もあの婦人も、今まさに燃え上がっている。どうやったらそうなるのかな。魅力の問題? それとも時間の問題? 私の横は空いているのに誰も飛び込んで来ない。別にセックスがしたい訳じゃない。その前提もしくは並行の、こころのやり取りが、欲しい。きっと婦人達もそう。体のことは付随はするけど中心じゃない。重要だけど本体ではない。音楽だってそうでしょ? 恋の歌も愛の歌もあるけど、セックスの歌なんてない。もしセックスがこころの一番大事なことなら、音楽はもっとセックスで満ちていないとおかしい。
それぞれの家でそれぞれのカップルがそれぞれのやり方で始めているから、商品を棚から引っ張って検分するように私は近付いてゆく。さあ、この部屋はどうなってるーー
「
「はい!」
反射的にした返事は裏返って、目を開けて飛び込んで来た現実も裏返って、私を呼んだ声に向く。
「もうチャイム鳴りましたよ。五時間目は授業ないんですか?」
驚かせた声とは裏腹に優しい顔をしている。
「あ、
私はどんな顔をしていたのだろう。エロティックであってもいいけど、下品だったらやだな。
授業で使う冊子の束を両手で抱えて、重い、音楽室に向かおうとしたら、まだ垂石先生がいて。
「僕、五時間目空きなんで、半分持ちますよ」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
横並びで音楽室に向かう。
窓から初夏の光と共に、体育の先生の笛の音が入って来る。その音が廊下を直線で何回も跳ねて、また窓から飛び出して行った。垂石先生はどうして持ってくれたのだろう。安直に親切な人だからと断じていいのだろうか。
左側の彼をちら、と見る。特別な情緒なんてありません、凪いだ表情。
つまり、よっぽど親切し慣れているか、別の気持ちを隠しているかのどちらかだ。
別の。
それは廊下よりも昼下がりの街によく似合う。
まさか、そんな。
まだ出会って数ヶ月。いや、十分な長さだ。
もう一度彼の顔を見る。やはり凪いだまま。
その真意を知るためには、何かを投げ掛けないと、魚群探知機を使うみたいに。
「あの」
「はい」
「垂石先生は、もうこの学校慣れましたか?」
彼は横顔で応える。
「まだ全然です。話せる先生は増えて来ましたけど、やっぱり異動したらその中学に一年はいないと、慣れないですね」
「あ、分かります。私も慣れるのにすごく時間が掛かるから」
「着きましたよ」
彼は冊子を置いてさっさと帰ってしまった。私のエコーじゃ何も拾えなかった。でも切り替える。私は音楽教諭。
もう少し喋りたいと思った。
だけど彼とはタイミングが合わず、学童に奏恵を迎えに行く。
垂石先生は、どうして私の荷物を持ってくれたのだろう。その理由を教えてくれてもいいのに。それともそれは重大なものだからおいそれと言葉には出来ないのかな。彼が理科の先生であること以外何も知らない。何の部活の顧問かも知らない、調べればすぐ分かるけど。垂石先生はどうなりたいのかな。
私は。
私はまだ何も分からない。私の方には何も起きてない。ただ彼の真意が知りたいだけ。
「ママ」
「今日はどうだった?」
奏恵は私の顔をじっと見る。
「ママ、今日はいいことあったでしょ?」
「そうね、あった。でもどうして分かったの?」
「伊達に九年間ママの娘をやってないよ。顔に書いてある」
誰のためにだろう、小さな嘘が口から流れる。
「困っているところを親切に助けて貰ったんだ」
「ふぅん。よかったね」
すぐに奏恵は自分の今日を語るのに忙しくなって、私の親切の話は脇に置かれたまま今日を終えた。
布団の中で目を瞑れば、彼の顔が浮かぶ。
表情のない顔。
やっぱりただの親切だ。
……いや、違う。何かある。まさか親切を累積させて私を配下にしようとしている? そんな訳ない。絶対に違うと思っているアイデアでも一通りやってみたくなるのは作曲するときも彼を想うときも同じなんだな。恋だよ。彼が私に恋している可能性の問題だよ。動機があって人は動くんだ。あいつだって結婚する前は私に優しかった。妊娠してからはどんどんこころがここにない感じが強くなって、一緒にいる理由がお互いになくなった。
「消えるべきものは消えて、生まれるべきものが生まれる」
私の横が空いているのは、彼のためかも知れない。
どうなんだろう。
彼の気持ちはどうなんだろう。
私の気持ちはどうなんだろう。
まだ分からない。彼のそれと同じだけ、私のも分からない。走り出していいのか何も見えない。見えなくても走り出してもいい。違う。せめて自分の気持ちだけは分かってからにしないと。
念じる程に彼のことを考えたのに、夢は昼の情事に更け込む街だった。
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