第7話
人魚は主に水中で生活をする為、波の音をじっくりと聞く機会は意外と少ない。耳を撫でる穏やかな波の音はあまり聞きなれないものだったが、それでも温かい気持ちになる。
「おい、嬢ちゃん。大丈夫か?」
キィン、と頭に響く音。決して大きいわけでも高いわけでも無い。これが耳で声を聴くということかと実感したところでセレナは目を開けた。
「おぉ、良かった生きてたか」
目の前には盗人のような口ひげを生やした大柄な男。腕は太く、袖のない白い服を着ている。男が唾を飛ばしながら喋るものだからセレナは思わず顔をしかめた。
「どうした?気分が悪いのか。熱さにやられちまったのか?ここらの国の人間じゃないだろ」
男は金属の器に入った水を差しだしてくる。そこでやっと、セレナは自分が置かれている状況を理解して身体を起こした。
「・・・あし」
自然と動いた身体。目の前には人間の下半身がついていた。鱗の一枚もなく、少し濃い色の肌色。下半身は二股に分かれて右と左で別々に神経が通っているのを感じる。右足の指をくっと握ると、膝のあたりにまで力が入る。まるで手や腕のようなものが下半身についている違和感に、心が躍った。
そして、先ほどまで横になっていたセレナにかけられた薄汚れた大きな布が、体を起こしたと同時にぱさりと胸の上から落ちた。
「わわわ、何してやがるこのガキ、少しは隠せよ」
「ああっ!キャプテン、なにやってるんだ!変態!!」
そのタイミングで奥から飛んできた目の前の男とは別の人間の声。
「気を失った一般人の女の子に手を出すなんて、あんた本当に海賊にでもなったのかよ」
「違うんだって、この嬢ちゃんが急に起き上がるから・・・」
その青年の姿に、セレナは釘付けになった。
「あなたは・・・」
あの夜、船で見かけた青年がそこにいた。
「なんだ、リュカ。知り合いか」
その言葉に青年は首をかしげる。
「・・・いえ、よく似ているけど知らない人です」
差し出された金属の器に映ったのは、ストレートな黒い髪と、芯の強そうな瞳をした、見たことも無い女性だった。
驚いたことに、魔女の魔法は言語の壁を越えていた。今まで理解できなかった人間の言葉が良く聞こえ、意味もわかる。元々知らない言葉は理解できないが、人魚の頃に使っていたような日常会話は話すことも理解することも出来た。
そして、今自分達がいるのは停泊しているトランス・リベルタ号の船内だということがわかった。この地域はリベルタ号が拠点としている港町の一つで、海岸に打ち上げられて気を失っているセレナを見つけた船員が親切にも船に運び込んでくれたようだ。
「それで?何があって嬢ちゃんは素っ裸であんな場所に倒れていたんだ」
セレナの目が覚めたという情報を聞いて船内にいた乗組員たちが集まって来る。あまりに人数が多いので大食堂に移動して、三者面談のようにキャプテン・ロベルトとリュカを正面に座らせる。周囲にはもちろん大柄な海の男たちがうじゃうじゃと見学をしている状態だ。
初めて間近でみる人間達と、とりあえず着ろと言われて身に着けた麻布でできたシャツとズボンがとても着心地が悪く、そわそわとしているセレナに好奇の視線が集まる。
「・・・えっと、覚えていません」
セレナは予め考えていた言い訳を決める。人間の文化に詳しくない以上は出身地を偽る事は出来ないし、人魚だったなどと言っても信じてもらえるわけがない。言えない事は全て覚えていないで押し通すつもりだ。
「記憶喪失ってやつか。出身はどこだ?名前は?」
船長は続けざまに質問をする。リュカは何とも言えない顔でその様子を見るだけでまだ口は出さなかった。
「出身は・・・覚えていません。名前はセレナです」
「これだけ純粋な黒髪ってぇと、東洋人か?とはいえ今時遠方地域の血が濃い奴なんてその辺に溢れかえってるし、見た目じゃ判断できねぇな。まさか逃げてきた奴隷じゃあるまいし」
セレナの手首と足、そして首をじろじろと見まわすと違うみたいだな、と言った。
「リュカ・・・こいつの事知ってるみたいだったけど、見覚えがあるのか?」
隣に座る赤毛の青年、リュカを指さす。
「えっと・・・」
セレナは少し悩んでから返事をした。
「覚えていないのですが、なんだか知っている方のような気がしたので」
素性を隠す以上はこの程度の発言しかできない。大体、相手からすれば姿の変わってしまったセレナの顔は本当に初対面なのだ。
「もしかして俺と同郷とかかな?この髪の色はこの辺じゃちょっと珍しいし」
やっと発言したリュカは困った様子だ。リュカだけではない、突然女の子を拾ってしまった事で船内全員がざわついている。
記憶もなく出身地がわからない以上、どこかの国へ引き渡してしまうのが一番楽かもしれないが、明らかに異国の人間である彼女を手厚くもてなしてくれるわけがない。気のたった領主の目に付けられてしまえば、あらぬ疑いでさっさと処刑されてしまう可能性もあり、それでは寝覚めが悪い。
「わからないので、その。私をこの船に置いてもらえませんか?」
船乗りたちの心配も知らず、セレナは一直線に希望を述べた。人間になって直ぐにリュカと出会えた幸運を手放さないために、ここで引くわけにはいかなかった。
「あまり腕力はありませんが、なんでもしますので」
なんでも、という言葉に野次馬に来ていた男達が一斉に生唾を飲み込む。
「おい、何言ってるかわかってるのか」
男達をキッと睨みつけると、リュカは怒気の籠った口調で責める。技術も才もない若い女性が船で役に立つ方法など一つだけ、それはここにいるセレナ以外の誰もがわかっていることだ。リベルタ号にはいないが、そういった目的で女性を乗せている船もないこともない。男臭い船で何日も過ごさなくてはいけない船乗りたちが女性船員の加入に期待をしてしまうのも無理が無かった。
「あなたの傍にいたいです。お願いします」
記憶を取り戻すために、とリュカは捉えた。船長に困った視線を送ると、船長からも同じような困った視線が返って来る。
「リュカ、お前がいいならいい。どうやら悪い嬢ちゃんじゃなさそうだ」
「なっ、俺に丸投げかよ」
「よくわからないが、お前に関係していそうだしなぁ」
「お願いしますっ!」
取り巻く船員からも「お願いします!」という圧を感じる。
「ちっ・・・こいつの面倒は俺が見るからな。腕力が無いなんて知るか、新人としてしっかり働いてもらう」
リュカに出来る精一杯の妥協だった。
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