短編:雪の朝

@0825yagiyagi

雪の朝


 あいつとは同じ小学校に通っていた。まだ自分が何者かも知らない頃の話だ。先生だとか、両親だとか、何も疑うことの無い希望とか安心とかを抱いていた頃。

 あいつが異性かどうかなんて関係なくて、一緒にそこらを走り回っては転げまわってばかりだった。あいつの家も、僕はどこにあるのか知らなかったのだけれど、あいつの方は何故か我が家を知っていた。さらに、僕はあいつの両親にお会いしたことは授業参観でだって無いというのに、あいつは僕の母親をいつの間にか懐柔しており、放課後になると、いつの間にか我が家に入り込んでいるのだった。人の懐に入るのが、あの頃から上手い奴だった。

 僕らは仲良しだったけれど、僕にもあいつにも友達は大勢いたから、二人の間は特別なものではなかった。二人で遊ぶこともしばしばあったが、それは他の子とだってなかったわけじゃない。ただ、何しろ男女であったから、(自分は覚えておらず、後から本人に聞いた話だが)結婚の約束とか、そういう微笑ましいエピソードはいくつかあったようだ。

 中学に上がった時に、僕は親の転勤で他の街へと移った。元の家からは電車で三十分くらいの所だったが、当時の僕は一人で電車に乗ったことが無かった。だからこれが、あいつとの別れになった。当時の僕は別れというものがどういうものなのか分かっていなかった。一方あいつは、僕と同じ年のはずなのだが、やはりあのくらいの年の女の子というのは男の子に比べて大人な様で、何となく察していたようである。転校する、とあいつに告げた日の放課後、荷造りの最中にあいつは、いつもと同じように訪ねてきた。せわしなく親の後を駆けずり回る僕の姿を、いつもと違っていたずらするでもなく、不思議そうに眺めてボーっとしていた。僕もまた作業にかまけてあいつに構うようなこともしなかった。そして1時間ほどそうしたのち、一言二言会話をしただけであいつは帰っていった。そして引っ越し当日。雪の降る中、あいつは朝早くから訪ねてきていた。もう準備は済んでしまっていたから、両親も僕も最後くらいはということであいつと話をした。車に荷を積み終え、お別れの時間がやってきた。僕は手前、何となく気恥ずかしくて、握手だけして早々と車に乗り込んだ。

 出発の瞬間、あいつを置いて行く、というような罪悪感は無く、僕は新しい家と生活への期待に胸を膨らませていた。だが後ろの窓を覗いた時、あいつは俯いて、雪の上に残った轍を見つめていた。それが妙に印象に残り、じっと見つめた。父が車内に音楽をかけ、僕はハッとして前を向いた。視界からあいつがいなくなった時、その時初めて、僕は自分の半身を失ったような感覚に囚われたのだった。

新生活は決して退屈ではなかった。友達もでき、一緒にゲームもしたし、少年サッカーチームにも誘われた。サッカーに打ち込んで、人間関係も器用にこなせるようになっていった。段々と、僕は人気者になった。しかし、あの瞬間に空いた胸の穴は塞がることは無かった。だから、何かにつけてあの街との繋がりを探すようになった。新しい日常を非日常として期待していた自分にとって、どことなく退屈に感じられた過去の日常との邂逅こそが、期待される非日常となっていたのだ。新しい学校に始めて登校した時、クラスメートの中に知った顔を探してしまった。中学に進学した時、高校、塾、習い事、部活の大会、こっそり心の中で期待した。それでも世界は広いもので、そんな偶然は起こらない。何年も経つうちに、そういうものだと自分を納得させることで、僕は大人になったふりをした。けれど、やっぱり心の奥底では、あいつに会いたかった。

 再会は、ドラマチックとは随分縁遠い、まあ何と言うか、それはそれは酷いものだった。

 こっちに越してきて六年ほどが過ぎていたと記憶している。これが本当に恥ずかしくって、何故こんなにももったいぶって、言いかねているかといえば、高校生にもなって、という……要するに、親だった。インスタってのは全く便利なものだ。お節介やきの甚だしい、いつまでも子供離れの出来ないでいる母が、何故かあいつのアカウントを見つけてしまった。そこで何故か母がメッセージを送り、母があいつに、せっかくだから会おうと何故か誘い出した。よくこっちの街に遊びに来るようになっていたと言うあいつは(これも母の話による所で、疑わしい限りだが)それを何故か快諾。そして僕は、なんと何も知らされないままに何故か母にファミレスに連れてこられ、地獄の抜き打ち三者面談が、何故か始まったのだった。あれが確か、高二の二月の事だから、思春期真っ盛り。やれやれとはこのことだ。とは言えども。ありきたりな感性だとか、言葉の表現にうんざりしていた時期の僕に言わせても、久々に出会ったあいつは、それはもう、ありきたりな程に綺麗になっていた。

 会話はそれほど弾まなかった。もともと母の気まぐれによる集いだ。特筆すべきイベントも無く、一時間程が過ぎただけでその日は解散した。まあ、別に良いんだそんなことは。あいつも困ってただろうしさ。ただ、彼女の何ともモダンな装いと垢ぬけた風貌、それから、あのころと変わらない笑顔のミスマッチが強烈で、僕の脳内にはそれから随分と長い間、彼女が居座ることになった。


 彼女から唐突に俺に連絡が来た。付き合っていた男と別れたという。それで何で俺を呼び出したのかは知らないが、慰めれば良いんだろうと思って行くと、案の定ファミレスで長い間彼女の話に付き合わされた。振られた彼氏の愚痴や、自分に自信が無くなったというような事を一通りぶちまけられた後、彼女は俺に話を振ってきた。机に突っ伏したまま、彼女はいないのか、と。実は自分も別れたばかりで、いなかった。が、俺は変な羞恥心に襲われ、分かるまいと思い、いると答えた。すると、写真を見せろと言う。彼女が何を考えているのかわからず、焦りに焦る。それでも精一杯声色を繕って拒否すると、彼女はちらりとこちらを見て、別に嫌ならいいわ、と言った。

 その後彼女は何か冷めたようで、程なくして俺達は別れ、家に帰った。星空の綺麗な師走の夜。自分の部屋のベッドの上で、自分に嘘をつかせたものが何だったのかを考えた。


 受験を視野に入れる時期になった。月に一度の二人の会合が定例となり始めた2月の初旬。部活が終わってからというもの、このまま高校生活が終わってしまうと思うと、何かやり残した事があるんじゃないかという焦りが去来し、いまいち勉強にも集中できないでいた。その日も待ち合わせはいつものファミレス。先に来て単語帳を眺めていると、向かいの席に人影。バックを席に下ろし、再び席を立つ。そして飲み物を取って、帰ってきた。

「電車が遅れちゃってさ」

「降るなんて言ってなかったもんな」

「ね。当てにならないね、天気予報」

「ほんとだな。今日は長居しない方が良いかも」

「そうね」

 会話の幕が切って落とされた。立て板を流れる水のように二人の会話はとどまるところを知らず、日々の鬱屈さを押し流した。

「最近○○めっちゃ流行ってない?」

「ね。まだ見てないの?」

「見てない。どんな感じ?」

「うんとね、幼馴染の〇〇と〇〇が恋に落ちるんだけど、途中で出てきた男に〇〇が寝取られちゃうんだよね!」

「へえ」

「でもね、その男が転勤が多くて、家にいないもんだから、元の○○が、その男のいないうちに○○をさらっちゃうんだよね!」

「マジか!え、あれ後何話ぐらいあんの?」

「あ、えっとね。原作の小説の方」

「あぁそっちか。読んでるんだ。大ファンじゃねえか。ドラマは?」

「まだ寝取られた所。」

「マジかよお前全部言っちゃったじゃん」

 同じような話を互いに振る。きっと二人の価値観が似ているのだろう。下らない世間話をしているうちに、辺りは暗くなってきた。長居はできないね、って言ったばかりだったのによ。何となく外を眺めていると

「なんかさー」

 彼女は頬杖をついて窓枠を指でなぞりながら

「部活終わってから退屈なんだよね」

 と切り出した。惰性だったのだろうが、何となく帰りたくなかった俺は、持て余した時間を以下に消費すべきかについて議論を重ねることにした。ルーズリーフを取り出して、やりたいことリストを作成した。ここに挙げられたものを実現することで、充実した高校生活を送り切ろう、というものだ。どこかで見たようなシーン。こんな何気ない、内輪に閉じこもるような喜びでも、今の自分には必要だと思った。

「でもさでもさ、私思うんだけど、クリスマスパーティーとか、夏祭りとか、一人じゃつまんないよね」

「そこはお前、部活仲間とかいないのかよ」

「いやあ、私やあんたと違って勉強以外にかまけてらんない人が多くてさ。ハブるのもあれだし」

「それもそうか。じゃあ俺とお前、二人でやるか?」

 言って、ちょっと恥ずかしくなった。彼氏でもない身でそれはまずいか。前言撤回を試みたその時、

「それしかないかあ」

 というアンサーが返ってきた。

 その後どんな会話をしたかは記憶にない。帰り道、駅に向かう二人の顔が真っ赤だったような、あるいは自分だけだったような。いずれにしても二人の足跡は、確かに駅に続いていた。

 2人で過ごす時間が増えれば、自動的に距離も縮まる。何となく互いが特別な存在になり、一緒にいることが当たり前になっていく。だから、特にドラマチックな告白劇があったわけでもなく、お互い恋人のいない身だという事も分かっていたから、という事だった。恋人のいる生活というものはどれほど華やかなものであろうか。初めての恋人ではなかったが、通話をした後など、しばらく興奮して眠れなかった。

 大学生になった。転機が訪れる。きっかけ、なんてものは無かったと思う。段々、次第次第に、といった具合だ。

 受験というイベントを乗り越え、しかし二人の絆が深まることは無かった。違う大学に通うことになったがために、二人の間に許容できない何かが生まれ始めた。しかし、最初のころのワクワク感が忘れられず、独り身になる事が怖かった俺は、少しずつ彼女を束縛することが多くなった。

 以前の女も、同じようになって別れた。ともすると俺は、自分と似たような人とばかり関係を発展させているのではないだろうか。気障な言い方をすれば、見つめている相手の瞳の中に自分を見ている。他愛無い話をして笑っているときも、もしかすると自分との共通項を得られたことに満足しているだけなのかもしれない。だから、自分の退屈な日常をテンポの良い世間話によって共有しようとする。けれど相手は、どうしようもない所で他人だ。小さなすれ違いが生まれ始める。そしてそれが止まらない言い争いに発展するのだ。

 一人暮らしだったので、週末は彼女と二人で過ごすことが定例となっていたが、印象的だった彼女の笑顔が少なくなっていたな、と感じるようになった。


 追われるものの多い生活の中では、目まぐるしく時間が過ぎた。就職が運よく希望通りに行ったため、大学生活の最後に向けて頭にあるのは、いかに遊びつくすかという事だった。3月の、良く晴れた日の夕方の事だった。あいつから突然、スマホに電話がかかって来た。久しぶりに、あのファミレスで会わないか、という誘いの電話。僕は承諾して、すぐに向かった。あいつと会うのは高2の時に、何回かファミレスで話して以来だった。

 彼氏と上手くいっていない。五年ほど前から付き合っているが、大学も違うし、段々話題も無くなった。話が段々重くなり、そして段々と彼氏の束縛が激しくなった。以上が事のあらましだった。けれどずっと一緒にいたからという、それだけの理由で別れられず、そうこうしている内に卒業が迫って来てしまっているとのこと。

 こいつの焦りが伝わってきた。それから、月に2,3度ほど会っては、こいつの愚痴を聞いた。一時期あいつのことが頭から離れなくなったことがあったから、僕はその時間を楽しんでいた。

 それから、小さい頃の思い出やなんかを話すようになり、通話なんかも増え、遊びに出かけたりもするようになった。もちろん他の人と一緒に遊んだり、話したりもしたし、他の女と通話することだって無い訳じゃなかったが、小さい頃からの仲だというのが珍しく、だからあいつとの時間は特別だった。


 ある雪の降る日曜日の夜のこと。テレビを見ながら俺は意を決して彼女に切り出した。

「他に男がいるだろう」

 彼女は一瞬あっけにとられたような顔をした。けれど、出てきた言葉は淡泊なものだった。

「気づいてたのね」

「もっと早く言ってくれても良かったんじゃないか」

「言えないわ。別に付き合っているわけでもなければ、一緒に寝たことも無いもの」

「信じられない」

 最初にその可能性が過ったときは多少怒りもあったが、今となっては冷静だった。それほど二人の関係は冷めきっていた。お互いのことで、わからない部分と、分かりすぎる部分とがあった。もう終わりだった。

「相手はどんな男なんだ」

「幼馴染よ。小学生の頃、同じ町に住んでた」

「いつ再会したんだい」

「高校生の時。でも最近まで連絡を取ってなかったわ」

「きっかけは?」

「あなたの悪口」

「俺との時もそうだったじゃないか」

「そう言えばそうね」

「悪い女だ」

「そんなものよ」

「傷ついた?」

「さてね。君には言ってやるものか」

 二人で笑った。いつぶりだろう。

「別れるわ」

 彼女が言った。

 二人の寝室に入る。最後の夜だ。窓の外に雪が積もり始めているのが見える。今の様なささやかな楽しみの時間を重ねてきた二人だった。しかし、いくつも傷つけあったりもした二人だった。だから決裂は避け難かったが、いつかまた再会した時には、笑って話せるだろうか。そんなことを考えていた。ちょっとセンチメンタル。

「なあ、俺との5年間は…」

 振り向くと彼女は、背を向けている。顔を覗き込むと、もう寝てしまったようだった。


 翌朝。目が覚めると彼女は隣にいなかった。俺は跳ね起きて、玄関に向かう。彼女の靴が無い。ドアの鍵が開いたままだ。俺は寝巻のまま外に飛び出る。まだ暗い。地面には雪が積もっている。見ると、足跡が敷地の外の道路沿いに続いている。彼女は出たばかりだ。敷地の際まで来て、追うべきか迷う。足跡を見つめ、そして一歩踏み出そうとした瞬間、車が前を横切った。俺は「あっ!」と叫んだ。足跡は消され、真新しい轍が目に入るばかり。車の去る方向を見る。車は窓を開け、音楽を垂れ流していた。いつか彼女も、似たような景色を見たのかも知れない。

 俺は部屋の中に戻り、テレビの電源を入れて、朝食を作り始めた。五年間共に過ごした人を失ったが、思ったほど寂しくはなかった。他人の中に自分を探す行為は、どこか空虚なものだった。でも、俺も彼女も、他に方法を知らない。ありきたりな、同じことの繰り返しから抜け出せない。恐らくは彼、話に聞く幼馴染の彼も。

 だから彼女はいずれ彼にも飽きるだろう。そして俺もまた新しい人を探すだろうと思う。例えば幼い頃に同じ時間を過ごしたような、幼馴染と呼べるような女は俺にはいない。ちょっと羨ましく思う。そうすると、ちょっと寂しくなり、ちょっと「好きだったんだな」と自覚する。だがまだひと月ある、と既に思い始めている。

 だから誰しもが、出会う以前の生活に戻っただけだった。

 そして街は今日も、目覚めの時間を迎える。


雪の朝

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