第20話 最後の茶会
目が覚めたのは真夜中のことだった。遠くに見えていた街の灯りも消え、どこもかしこも暗闇に閉ざされている。
国からの脱走はこの闇に紛れて行う予定だったため、男は少年を起こし食事を摂った。
携帯食糧として作ったスコーンを齧りながら、持ってきた茶器に淹れたハーブティーをすする。二人で乾燥させた薔薇の実もこれが最後になっていた。
「エグの目、いつもより青いです」
「夜、だから」
「過剰な力を欲した〈
「君も、普通」
「ええ、まぁ。勝手に変わる髪の色と短命ってことを除けば普通ですよ」
少年の上着のポケットから白い光が顔を覗かせる。先日少年が契約を果たした精霊は体力を温存するように少年の傍で大人しくしていた。
精霊は弱った様子でシュガーポットの中身を物色し、角砂糖をパクパクと齧った。
その様子を見ながら、少年の手は無意識に髪に伸びていた。少年の髪は毛先まですっかり錆色に変わってしまっている。
「私の髪、もう金髪の部分が残っていません。逃げる時に魔法を沢山使ったせいで、退色する速度が速まってしまったようです」
「うん」
「本当に死ぬんですかね。別に体の方は何ともないですが」
「わからない」
「これで死ななかったらとんだ笑いものですけどね。まぁでも、外に出る口実になったのならいいってことにしますか。人間、死ぬ気になればなんでも出来ると証明されたわけですから、これもいい経験だったと……」
精霊が齧っていた角砂糖を落とし、慌てた様子で空中を飛び回る。同時に男は頭の中を引っ掻き回されるような嫌な感触を覚えた。
この感覚を知っている。〈
少年と精霊が結んだ契約が破棄されようとしている。契約主である少年も気づき、契約のほつれを直そうと手をかざした。
「あれ? 魔力が出ない……!」
どんなに力を込めても魔力が一切出ない。得意の虹魔法を使おうとしても発動しないようだ。
意識を集中させて魔力を絞り出そうとしている間にも、精霊の光は弱くなっていく。
「何で? お願い。魔力、出て。出てよ!」
「大丈夫……僕は、平気」
「心配しないでください。魔力さえ出れば、契約は!」
「しなくて、いい……んん、ん、け、契約、どうせ、き、き、切れ……」
「何諦めているんですか! 僕は〈
少年は必死の形相で何度も精霊に手をかざした。精霊はもう駄目だと首を振っている。
それでも諦めずに魔力を送ろうとする少年の手を男が抑え込んだ。
「あ、んん……や、め……んん、め、め、て! き、み!」
「邪魔しないでください! っていうか、ちゃんと喋ってくださいよ。それじゃあまるで、話せないエグに戻っているみたいじゃないですか!」
「や、やあ……あ……」
「エグ!」
摩耗したロープが徐々にちぎれていくように頭の中から大切なものが失われていくのがわかる。
いつかこうなると覚悟していた。元々言葉を失っていたのだから、話せていた時が特別な状態だった。だから罪悪感を覚える必要はない。必死にならなくていい。
そう少年に伝えたいのに、無情にも頭の中から言葉が消えていく。残った僅かな言葉を組み合わせてみようにも、適切な言葉が見つからない。
考えているうちにも拾い集めた言葉は溶けて消え、言える言葉は数を減らしていく。少年を落ち着かせようとしているはずなのに、自分が言葉を探して必死になってしまい、却って少年の心配を煽る結果になった。
「ん、んんん……」
「エグ、大丈夫ですからね。すぐに話せるようになります」
精霊は殆ど光を失い、輪郭もぼやけてしまっていた。少年は浮力を失った精霊を抱きかかえ、温めるように小さな体をさする。しかし精霊の光は復活せず、体の色は更に失われていく。やがて精霊は応援するようにリンと小さく鳴くと、霞のように消えてしまった。
「そんな……まさか……」
少年は精霊の消えた腕に視線を落としながら、唖然としていた。空っぽになった腕で頭を抱え、魔力が完全に枯渇した体を震わせながら膝をつく。
悲壮感と絶望に打ちひしがれ、少年はその場に突っ伏した。
「死ぬんだ。本当に死ぬんだ……。知っていた。でも、わかってなかった。死ぬんだ、僕は。あと数時間とか、そんなんで!」
少年が発している言葉の意味はわからなくても、肩を震わせて怯えている表情を見ていれば何を言っているのかは理解出来た。
何とか安心させたくてもかけるための言葉を失い、手元に絵を描く道具もなく、どうすることも出来ない。せめてスケッチブックだけでも出そうと男が収納ケースを探っている間にも少年は悲しみを拗らせていった。
「行ったことのない場所に行けば、ルールを破ってみれば、何かわかるんじゃないかと思った。でも結局何も変わってない。こんなんじゃあ最後の時間をくれたお母様に顔向け出来ないじゃないか。何で? 本当の、僕の生まれてきた意味……このまま何もないまま、死にたくない!」
ケースを探っていると目的のスケッチブックが出てきた。笑ってほしいと伝えるために絵を描こうとして気づいた。新品だと思って持ってきた物は日記の一つだった。
最後の頁までびっしりと絵が描かれており、新しく描く余白がない。
少年はまだ泣いている。こうなったら別の方法で伝えるしかない。男は少年の肩を叩き、日記として描いた少年の笑顔を指さした。
「日記、ですか?」
「あ……んあ……」
少年はスケッチブックを受け取り、思い出を振り返るように頁をめくり出した。
「こんなに笑っていたんですね、僕は」
右下には男の喜びを表す蝶のマークが描かれている。他の頁も少年の笑顔が描かれ、ずっと蝶のマークが続いていた。
言葉を失った後の一ヶ月間の思い出が全てスケッチブックに描かれていた。
「そっか。エグも楽しかったんだ」
「……」
「当たり前ですよね。エグだってあんなに笑っていて、楽しくなかったわけがない。生きている実感とか死の理解とか、そういうのは無くても笑えるんですよね。僕だって生まれてきた意味とかよくわかんなくても笑っていた。というか、考えてなかった。悩み、全部忘れられたんですよね。ただ楽しいってだけで」
頁をめくりながら少年の表情が段々と穏やかになっていく。どうやら落ち着きを取り戻してくれたらしい。
男は少年の感情を読み取ろうと、徐々に本来の視力を取り戻していく目でじっと見ていた。
「難しく考えすぎていたのかもしれません。誰かの役に立たないといけないとか、お母様に助けてもらった命だからとか、色々。そんなの要らなかったんですね」
「……」
「すみません。一人で騒いでしまって。お陰で落ち着きました。ありがとうございます」
「あ……な、な……んん」
「はぁ……。あれから二週間しか経ってないのに、どうやって意思疎通していたか忘れてしまったな」
少年は土埃の積もった床に指で蝶の絵を描いた。それで全ての想いが伝わってくるようだった。
喜びを伝えようと男はマスクをしていてもはっきりとわかるほど満面の笑みを浮かべた。
◇
あまりゆっくりしている時間はない。二人は急いでハーブティーを飲み終え、食事を済ませた。毛布を元の位置に戻し、暖炉の火を消し、小屋を後にする。
冬の真夜中は身を切るような寒さだった。あと一週間でも遅ければ雪が降り出していただろう。
少年を背負って空を飛んだ時、月に嫌な影が差していることに気づいた。月は満月で綺麗な円形をしているのに、一部が少年の髪のように茶色く侵蝕されてしまっている。
どうやら月蝕が近づいているようだ。
月蝕は嫌いだ。綺麗な形の物を崩しているように感じるから。
「エグ」
少年が肩を叩いてくる。振り返ると月明かりに照らされた少年の顔が見えた。
「外の景色が見えたら、思いっきり笑ってみようと思います。それで何かが変わるわけじゃないですが、笑っていればきっと穏やかに死ねるから」
「……なに?」
「今はわからなくていいです。いつか言葉を取り戻した時に思い出してくれれば、それで。要するに遺言ですよ。口の動きを完璧に記憶出来るエグだけに託せる、ね」
「ん……?」
「もうこっちを見てなくていいですから。前見てくださいよ、前。こんな上空じゃあエグの目だけが頼りなんですから」
耳を引っ張られ、無理矢理顔を前に向けさせられる。
結局何故呼ばれたのかわからず仕舞いだったが、前方に〈
到着時刻も場所も計画していた通りだった。しかし一点だけ予想していないことが起きていた。男を待ち構えるように、関所の門の前に複数の人影が立っていたのだ。
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