第21話 〈支配者〉の研究

 近づくにつれ、中央の人影が忌々しいステッキをついているのが見えてきた。どうやら男がこの門を訪れると予想し、待ち構えていたらしい。

 教官は魔道具の双眼鏡を覗き込み、男の魔眼と同等の視力で男の姿をじっと見ている。

 今から隠れたところで傍に控えている兵――服装から上級魔術兵だとわかる――に命じて追跡させる気だろう。罠に誘い込まれているようで嫌な予感がするが、地の利も戦術の知識も教官の方が優れている。

 行き当たりばったりで判断し、知らない場所から強行突破を図るのは得策ではない。一発逆転のチャンスを狙うなら、このまま真正面から向かっていくしかない。


 教官の前にゆっくりと降り立つ。

 教官は特に驚いたり感心したりする様子もなく、いつものじとっとした目で男の顔を見ていた。


「逃走するために飛行の方法を教えたつもりはなかったんだがな」

「……」

「飛行による移動に長け、大きなマスクをした男が逃走した。その男を匿っていたのはお前の父親と同じ色の目をした御者だった。その報告を受けた時、儂の中で全てが繋がった。何故全〈魔操者メイジ〉を調べても禁呪を使った痕跡のある者が出てこないのか、あの御者が誰もやりたがらない〈魔操者メイジ〉の相手を進んでしていたのか。様々な状況的証拠から、あの男がお前を殺戮者の道から解放しようとしているのはわかった。だから儂はお前とそこの死にかけが関わるのを止めなかった。あやつのことだ、パズルのように入り組んだ際どい計画を練っている。下手に阻止すればお前が死に兼ねん。あやつも儂がそう考えて手を引くと見通していたのだろう。侮れない男だよ、死んで跡形もなく消えた後もな」

「……」

「先程から一切表情が変化しない。精霊の加護も切れたようだな」


 教官に睨まれると心臓を握り締められるような嫌な感覚を覚え、逃げ出したくなる。幼少期から植えつけられた絶対的な主従意識がそうさせる。

 しかしここで屈してはいけない。叔母が言った通り、〈支配者の国ローズ・ランド〉に盾突くということは教官にも歯向かうということだ。

 怖気づいている場合ではない。心の中ではそう思っても、教官が〈断魔鋼アロイ〉の鎖を振る音を聞くと嫌でも体が委縮した。

 弱気になる自分を必死で奮い立たせる。少年と約束したのだ。どんなに苦しく恐ろしくとも、戦わなければ。


「恐れているのか?」

「……」

「フン、父親と違ってわかりやすい男だ」


 教官は傍に控えた魔術兵に毅然と命令を下した。


「捕らえろ。奴の攻撃を恐れるな。儂の読みが正しければ、あやつはもう処刑場以外では人を殺さん」


 二人の魔術兵は素早く返事をして一斉に飛びかかってきた。男は少年を後ろに庇うと、目を見開き無数のガラスの針を放った。

 魔術兵達は空中で体を硬直させ、進行をやめた。


「何をしている! さっさとやらんか!」


 動けるはずがない。体の神経が集中する箇所に針を打ち込んだのだ。少しでも動けば激痛が走る。

 この戦い方は少年と編み出したものだった。

 神経を断ち切るのではなく、強く刺激することで痛みを発生させる。普通の人間ならば激痛が走ると反射的に体の動きを止めてしまう。

 近づくだけで男からもたらされる防ぎようのない激痛、教官から下される厳しい罰、どちらを選んでも最悪だというのは男もわかっていた。

 申し訳ないと思いながらも、後退するまで更に針を打ち込んだ。悶絶する魔術兵を見ながら、教官は怒りをぶつけるように鎖を振り下ろした。


「わかっていないな。お前は自分の能力を全く理解していない。そんな戦い方で勝てると思うな!」

「エグ、後ろ!」


 少年に服を引っ張られ、後ろに振り返る。すると別の魔術兵が死角から迫っていたことに気づき、急いで同様の方法で動きを封じた。

 その間に最初の二人が体に刺さった針を抜いて復活してしまうので、忙しなく視線を動かし続けなければならなかった。


「お前の持つ力はそんなものではない。美しさの欠片もない戦い方をするな!」


 教官の苛立つ声を聞き流しながら攻撃を続ける。すると魔術兵達は互いに合図を送り、男を取り囲むように地上に降り立った。

 こうなったら結晶を張って地上に縫い留めてしまおう、そう思って地面に手をついた瞬間、地面が水のように柔らかくなり男の体がずぶずぶと沈み込んだ。

 急いで這い上がろうとすると地面が元の硬さを取り戻し、男の体を固めてしまう。土を操る魔法を使われてしまったようだ。恐らく術者は死角となる背後にいる。


「放してください! 嫌です!」


 少年が魔術兵に連れ去られそうになる。咄嗟に狙いを定め、魔術兵を針で撃ち落とした。

 魔術兵は少年を逃がすまいと炎で行く手を塞ぎ、激痛に震えながらも少年を抑え込んだ。


「よくやった。全員、〈夜の子ノクス〉から離れろ」


 教官の指示を聞き、魔術兵達が教官の背後に撤退する。すると教官が男に筒状の物を投げつけた。術式の刻まれた装置だ。スイッチを入れてから発動までのタイムラグを正確に計算し、男が止める隙もなくそれは発動した。

 頭の中枢に鉄槌を下ろされたような強い衝撃があった。

 似ている。言葉を失った感覚と衝撃を感じた部位が同じだ。しかし何が変わったのかはわからない。男は支えを失ったようにその場に突っ伏し動かなくなった。


「エグ! どうしたのですか?」


 少年の呼ぶ声が聞こえる。反射的にその声の方に顔を上げようとして、体が動かないことに気づく。

 否、体自体は動く。ただ動かす気力が湧かないのだ。

 どうして動きたくないのか、理由を考えなければならない気がするのに、眠っているのではないかと思うほど頭が回らない。

 一体自分はどうしてしまったのだろうか? その疑問も停止した思考に吸い込まれて消えていく。


 教官が近づき男の髪を掴んで顔を上げさせる。開いたままの目を覗き込むように、教官は顔を近づけた。


「効いたようだな」

「……」

「〈夜の子ノクス〉を解放しろ。もう抵抗の意志はない」


 魔術兵が地面に手をつき、男の体を地表まで押し上げる。少年が押さえつけていた魔術兵の腕を振り払い男に駆け寄る。

 肩を叩き、何度も名前を呼ばれる。頭のどこかで呼びかけに応じなければと思ったが、どうしても起き上がる気になれずそのまま横になっていた。


「エグに何をしたのですか?」

「〈魔操者メイジ〉に教えてやる義理はないが、騒がれても面倒だ、特別に説明してやろう。儂は今、この男の心を砕いた」

「心を砕く? どういうことですか?」

「自我の喪失、意志の消失。意識はあるがないとも言える。体の生きている人形も同然だ。こいつはもう誰かが指示を出さなければ指一本動かすことすら出来ない。こいつを生かすも死なすも儂次第というわけだ。せいぜい性能のいい武器として大事に使わせてもらう」


 手の中が熱い。視線を向けると少年が〈断魔鋼アロイ〉の欠片を押しつけていた。皮膚が赤く焼けただれ、血が滲む。

 いつもの自分なら消えない傷がつくのは嫌だと、無我夢中で〈断魔鋼アロイ〉を投げ捨てていただろう。それも今となってはどうでもよかった。

 些細なことだ。このまま手のひらに穴が空いても、手首から先を失うことになっても、何が問題だというのだろうか?

 少年がどうしてと慌てふためいている間に、教官がステッキの先で男の手から〈断魔鋼アロイ〉の欠片を弾き飛ばした。


「儂は心を砕いたと言った。〈断魔鋼アロイ〉では砕くのに使う鉄槌を消すことは出来ても、砕いた物は修復出来ない。不可逆的という意味では、死と呼んでもいい」

「嘘です。〈断魔鋼アロイ〉を防ぐ特別な魔法を重ねたのでしょう。心を砕くなんて、そんな魔法、聞いたことがありません!」

「魔法を扱っておきながら、魔法の本質は理解していない。これだから〈魔操者メイジ〉は愚かなのだ。心を砕く魔法、お前なら既に目にしているはずだ。心とは則ち精神、思考と感情を司るもの。死の概念を無くした男は死を目撃しても本来湧くべき感情を持たない。ここまで説明すれば、お前の頭でも理解出来るだろう」

「〈夜の子ノクス〉の代償……。でもそれは聖域で精霊の力を借りなければ出来ないことでは……」

「聖域で交わす精霊との契約、支払う物が大きすぎるからと〈魔操者メイジ〉の中では禁じられた古の魔法。だが、もしそれが特殊な能力を持った人間のみに扱えるものならばわざわざ禁じる必要はない。禁呪が禁呪たる理由は発動方法さえ知れば誰にでも使えることにある。裏を返せば理論で説明のつく魔法であり、精霊の力も聖域の性質を理解すれば模倣は可能だ。聖域の魔力は僅かだが〈支配者の国ローズ・ランド〉にも対流している。つまり、術式による禁呪の発動が可能なのだよ。どの程度の代償があれば十分な魔力が得られるか、代償研究と称して〈夜の子ノクス〉の代償の重さを調べたのはそのためだ。そして、忘れてはならないのが理論化された魔法を術式に落とし込んだ優秀な術式学者の存在」

「その優秀な術式学者って……」

「ふん、さすがにわかるか。そう、つまり、そいつは自分の父親に心を殺されたのだ」


 教官は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「儂も見くびられたものだよ。何でもするから〈ひとりの国アローン・ランド〉を作ってくれ、息子を〈支配者の国ローズ・ランド〉に置かないでくれなどと立場もわきまえずに頼み込んできたのだからな。あやつはあれこれと理由を並べ立てていたが、何らかの方法で息子に魔術兵をやめさせることが目的なのは見え見えだった。騙されたふりをしてやって〈ひとりの国アローン・ランド〉を作り、見返りに息子の心を砕く術式開発に従事させると伝えた時、あやつはショックで何も言えなくなっていた。確かにあやつは優秀だった。〈魔操者メイジ〉に生まれたのが惜しまれるほどの切れ者だ。だが所詮は〈魔操者メイジ〉だ。育ってきた環境が違う、教養が違う、持っている力が違う。そして肝心の息子は自分の能力を正しく扱えない馬鹿者だ。嘘すらまともにつけず、感情の動きは単純で扱いやすい。脱走など最初から出来るはずがなかったのだよ。お前も死ぬ間際にとんだ迷惑をこうむったものだな」


 教官の話を聞けば聞くほど、少年の表情は険しくなっていく。現実を受け入れらないと首を振り、何度も強く肩を揺すってくる。

 男は止まった思考の中で目を閉じるという選択も出来ず、目の前の景色を呆然と眺めていた。


「エグ、返事をしてください。お願いですから! 何か、何か反応を返してください。絵でも結晶でも、何でもいいですから!」

「忘れたのか? この男は言葉を理解する力を失っているのだ。言葉で何を叫ぼうが指示として聞き入れることはない」


 教官が細い笛を強く吹く。その笛の音に聞き覚えがあった。

 立ち上がらなければならない、止まった思考の中でそれだけを考える。

 男は目を見開き、操り人形のようにぎこちない動きでゆっくりと立ち上がった。


「笛の音に反応した?」

「ふん……」


 再び笛の音が聞こえる。子供の頃、まだ言葉を話せるようになる前に受けた戦闘訓練で笛による指示を覚えさせられた。

 どのような状況でも反応出来るように覚え込まされたので、何も考えられなくても体が反応した。

 男は次の指示を待つように、教官の前に立った。目が合った瞬間、教官はほんの一瞬だけ動揺を見せた。


「感情を無くすというのはこういうことか。まるで別人のようだな」

「……」

「本当はお前の恐怖の感情だけを取り除く予定だった。そのために儂は五年も装置の調整に費やしてしまった。だが反抗するのならば最初からこうしておけばよかったのだな」


 教官はついてくるように笛で指示し、歩き出した。見えない糸で繋がったかのように、男は一定の距離を保ってその後に続いた。

 遠ざかっていく男の背中に視線を向けたまま、少年はどうすることも出来ずその場に立ち尽くしていた。

 このまま〈支配者ロード〉の手に渡せば、男は指示に忠実に従う兵器として、ただ肉体を保つためだけに生活させられる。

 それはきっと時計の音に従って日課をこなしていた出会った頃よりも酷いものだ。


「役立たず……僕は、何でこんな……」


 夜を照らす月は錆色の影に蝕まれ、闇に溶け込むように光を無くしていた。どこまでも広がる漆黒の中で、黒いローブを纏った男の背中が遠のいていった。


 リズムの入り乱れた馬の蹄の音が近づいてくる。その音に教官は嫌な臭いでも嗅いだかのうように鼻にしわを寄せた。


「頭の悪い憲兵どもが、今頃になって来たか」


 黒馬に乗った〈支配者ロード〉達が通りに躍り出る。彼らは男と少年を見つけるなり、二人を取り囲むように接近してきた。


「エグバート・セオ・クラース、並びにフレデリック・グローリー・エルモンド、両名を不法入国者として連行する。教官殿、足止めご苦労でした」

「必要ない。〈夜の子ノクス〉は既に反逆の意志を失った。死にかけは魔力を失うほど弱り、放っておいても野垂れ死にする。こんなところで不要な労力を使うな。何のために儂が単独で直々に出てきたと思っている?」

「ですが、〈魔操者メイジ〉の〈支配者の国ローズ・ランド〉への侵入は重罪です。見逃すわけには」

「聖王陛下には儂から話を通す。お前が責任を取る必要はない」

「お言葉ですが教官殿、貴殿の身勝手な振る舞いは聖王陛下も目に余っているご様子です。これ以上この〈魔操者メイジ〉に対して不当な特別扱いを続ければ貴殿の立場が危うくなります」

「身勝手? どの口が言っている? 儂はただ王国の繁栄のために〈支配者ロード〉として正しく〈魔操者メイジ〉を管理し、力を引き出しているだけだ。支配の意味を取り違え、力を持つ者を闇雲に押さえつけ、ただの魔石製造機に飼い慣らしたお前達のような馬鹿にとやかく言われる筋合いはない」

「では貴方が国のルールを変えてまでして育てたその男が我々の王国に何をもたらすというのですか?」

「ふん、そんなに知りたければ見せてやる。ちょうど全ての準備が整ったところだからな、儂もどれだけの威力か試したいと考えていた」


 教官は男の方を向くと人差し指と中指を重ねて振り、笛を短く三回、その後長く一回笛を吹いた。指示の内容を理解し、男は空高く舞い上がった。

 欠けた月を穿つような勢いで上昇し、家の高さの十倍以上を越す上空で止まる。

 地上の〈支配者ロード〉達がどこへ飛んでいったのかと辺りを見回している様子が男の目にははっきりと映っていた。

 男は素早く狙いを定めると結晶魔法で五十六本のピンを作り出し、地上へ放った。目のいい者は何かが降ってくると注意喚起し、身構えた。

 しかしどんなに体勢を変えられても男が狙いを外すことはなかった。全てのピンを正確な場所に打ち込んだのを確認し、男は教官の隣に降り立った。


「両肘、両膝、喉仏、左胸、うなじにピンを刺した。体を確認してみろ。全員だ」


 少年も何かが刺さるチクチクとした痛みを覚え、言われた場所に手をやった。確かに教官の言った七ヶ所にピンが刺さっている。魔術兵や憲兵達も同じようだ。


「ピンはありました。これが我が王国の最終兵器ですか? まともに傷つけることすら叶わなかったようですが」

「わかっていないな。今のは訓練用の指示だ。本番ならそのピンはストッパーになる玉もないただの針になり、体の奥深くに突き刺さる。肘と膝に針を刺せば動いた瞬間に針が砕けて神経をズタズタに引き裂く。喉に刺せば喉笛が潰れ、左胸に刺せば心臓が止まり、うなじに刺せば即死する」

「つまり、一度に我々八人を殺せるだけの力を持っていると?」

「八人ではない。五十六人だ。こいつの視界に入る場所ならどこにいても命を奪われる。たとえ馬を使って逃亡を図っても追尾する見えない針からは逃れられんよ」

「まさか……」

「ひと度空へ舞い上がれば死の鱗粉が撒き散らされ、無数の死体が転がる。一度の攻撃で百人を殺せる奇跡の技。あの高さまで行けば弱点である死角の問題や攻撃に集中するあまり動きが鈍る欠点も払拭され、完全無欠になる。それでもまだこの男が特別扱いされるに足ると認められんか? 死の蝶と呼ばれるこの力が我が国の切り札だと理解出来んか?」


 〈支配者ロード〉達は誰も反論しなかった。男が見せた力は魔術兵への常識をひっくり返した。

 あまりにも圧倒的すぎた。

 それは少年も同じだった。確かに話には聞いていた。魔眼や優れた魔法制御技術など力の片鱗は見てきた。

 それでも現実に男の能力を見せつけられたことで、今まで普通に友達として仲良くしてきたのが信じられなくなるほど男が遠い存在に感じられた。


「酷い。そんな操り人形みたいな状態にして、無理矢理人を殺させるなんて。それも大量に」

「自惚れるなよ。この男が今日まで生きてこられたのは儂がこの男に国のルールを変えてでも守るべき価値を見出したからだ。最初からこの男は王国の切り札として育てられた。今更お前なんぞに生まれた意味だの自由だの吹き込まれてたまるか」

「でもエグは嫌がっていました。誰も殺したくはないって!」

「第一、外に出たところでどうする? 真に死を恐れないこの男は簡単に死ぬ。呼吸を忘れて窒息死、食事を忘れて餓死、排泄を忘れて病死、この男は常識では考えられないような方法で死ぬぞ。こいつを生かすためには徹底的に管理された檻が必要だ。誰かに指示してもらわなければ一週間と持つまい。お前がしようとしているのはこの男を死地へ追いやることと何一つ変わらんのだ」


 少年ははっと息を呑んだ。考えていなかった。外に出れば殺戮者の道から救うことが出来るが、少年もいなくなりひとりぼっちになれば男を待っているのは緩やかな死だ。

 最初から男が外に出て幸せに生きる道などなかったのだ。〈夜の子ノクス〉に生まれたせいで、〈支配者ロード〉が手を焼いて守らなければ簡単に死んでしまうような脆い体なのだから。


「どうして? 一体、何を間違えたんだ?」


 外に出たいという自分のわがままにつき合わせたことで危うく男は死ぬところだった。男のためになると思った行動が結果として男を危険に晒していた。


 〈支配者の国ローズ・ランド〉に残れば男の命は保証される代わりに大量虐殺を命じられる。

 外に出れば男は誰も殺さずに済むが、男が死ぬ。


 どちらにしても最悪だ。何故男の父親は息子を国外逃亡させようとしたのだろうか?

 男の父親には優れた先見の明があった。〈夜の子ノクス〉の代償を克服しないまま一人で外に出せば生きていけないことくらいわかっていたはずだ。

 息子には何が何でも生きてもらう、幸せになってもらう、そう言っていたはずなのに、何故死にかけの少年に国外逃亡を任せることを選んだのだろうか?


 見上げると錆色の月が徐々に元の色を取り戻しつつあった。まるで少年に希望を示すかのように。


「生まれた意味……エグは僕の、僕はエグの願いを叶える人になる……」


 聖域で見た男の父親の記憶を辿りながら呟く。確かあの時男の叔母はこうも言っていた。

 少年は死にかけの役立たずなどではない。少年には唯一無二の価値があり、男を救えるのは少年だけだと。


 教官が笛を吹き、男についてくるよう命令する。そのまま遅れてやってきた連行用の馬車に男の体を押し込んだ。

 少年は引き留めることすら出来ず、糸の切れた人形のように横たわる男を見ながら必死で考えを巡らせた。


 月。夜を照らす静かな灯り。夜に寄り添い、ともに在る月。

 その性質は闇と光という真逆の存在でありながら、互いが互いの存在を認め合い、共存する対の関係。

 考えるうちに少年はようやく気づいた。何故自分が選ばれたのかも、自分がすべきことが何なのかも。


「そっか。エグのお父様はエグの心が砕かれるのまで予想していたんだ……!」


 簡単なことだ。男の父親は最初から何一つ妥協していなかった。心を砕く術式研究に参加したのも計画のうちだった。

 少年が真の答えに辿り着けさえすれば、たとえどんなに重い代償を負わされようが問題にならないのだから。


 答えを見つけた瞬間、不意に遠い昔に読んだ書物の呪文が頭に浮かんだ。少年はその言葉を声高に唱えた。


「夜を照らすは小さき光。月を包むは静寂の闇。太陽は夜を焼き尽くし、星々は道を照らすにはあまりに暗い。月と夜は対なれど、二つは一つの場所に存在す。今こそ、その絆を証明せん。太古に捻じれた大いなる因果よ、あるべき姿に戻れ!」


 唱えた瞬間、少年の体は月色の輝きを放ち、風が吹き荒れた。

 錆色だった髪は黄金に輝き、失われたはずの魔力が全身に湧き上がってくる。

 少年の異変に気づき、教官が魔術兵を呼び寄せた。憲兵達も銃を構え、少年の動きに警戒した。


「死にかけが妙な動きを見せている。止めろ!」


 少年の手から魔力の光が滴る。その手をかざしただけで一斉に向かってくる魔術兵達は尽く眠りに落ちた。続いて憲兵達に魔法を放つと彼らも次々と眠りに落ちた。

 唯一咄嗟に〈断魔鋼アロイ〉を握り締めた教官だけを除いて。


「この光は何だ? 魔力すら失った死にかけが、何故これほどの力を発揮する?」

「そう、貴方は私のことを〝死にかけ〟としか呼びませんでしたね。寿命の短い者に価値はない、そう決めつけて見向きもしなかったことが貴方の敗因です」


 顔をしかめる教官の目を真っ直ぐ見ながら、少年は堂々と胸を張った。


「改めてお教えしましょう。私は〈月の子ルクス〉、〈夜の子ノクス〉の対でありもう一人の特異な〈魔操者メイジ〉。そしてエグの願いを叶える者!」


 少年が手をかざすとコーチの扉がひとりでに開き、男の胸に月色の光が浸透した。その瞬間男は雷に撃たれたように体を震わせ、激しく呻き始めた。


「ん、んんんん!」


 止まっていた思考が急激に動き始める。行き場を無くしていた感情が一気に噴き上げ、興奮から勝手に声が出た。


 このまま連行されるわけにはいかない。

 何としても外に出なければ。


 男はもがくようにコーチの扉の縁を掴んだ。


「操って連れ出すつもりか? そうはさせん!」


 教官は少年のかけた術を解こうと〈断魔鋼アロイ〉の鎖を男の手首に絡ませた。しかし男は動くのをやめず、教官を押しのけコーチの外に出てきた。鎖を外そうとする手は高熱で焼けただれ、真っ赤な血が滴る。鎖に焼かれる恐怖と教官への畏れに打ち勝とうと男は言葉にならない叫びを上げながら、教官を押し倒した。


「何故止まらん? 〈断魔鋼アロイ〉に触れているというのに!」

「先程貴方が私に説明してくださったことと同じですよ。〈断魔鋼アロイ〉が消せるのは壊れた物を修復する接着剤だけ。鎖では形のない心を壊すことは出来ません」


 鎖を剥ぎ取り、男は少年のもとへ走った。少年は待ち構えていたように光を溜めた手で男の額に触れた。すると頭の中で何かが繋がるような感覚がした。


「言葉、わかりますか?」

「ん……わかる」

「時間がありません。エグは兎に角飛んでください。僕が貴方を導きます」


 男は頷き、少年を抱えると全速力で飛んだ。空中に無数のガラスの工具が現れ、関所の大きな門の蝶番を固定する釘を抜いていく。

 門に突っ込む直前、今度は門本体に魔力を放つと、門が外側へ倒れて道を開いた。口を開けた門から外へ出て、暗い森へ突き進む。すると地面が赤く光り、巨大な火柱が立ち昇った。


「術式? 外にまで罠が張ってあるなんて!」

「大丈夫。見えてる」


 夜が暗いお陰で地面で淡い光を放つ術式の数々がしっかりと見えていた。術式の位置から素早く避けて進めるルートを割り出し、飛行する。少年は振り落とされないように男にしがみつき、衝撃に耐えた。

 追っ手は来ない。教官も一人では戦う術を持たない。

 ならば術式の罠に引っかからないように注意しながら進めばいいだけだ。

 男は美しい羽を得た蝶のように夜空を縦横無尽に飛び回った。


「エグ、先程飛んでいる時に言ったこと、撤回します」

「外、出たら、笑うの、こと?」

「はい。私はずっと誰かの役に立ちたかった。なのにその可能性が見出せなくて、だから外が見られれば満足だって自分に言い聞かせて妥協していました。でもようやくわかったのです。僕が生まれたのはこのためだったんだって、胸を張れる方法が……」


 術式だらけの荒野を越え、〈魔霧の森ミスト・ウッズ〉に差し掛かる。少年は握っていた光をまき散らし、月色の光で進路を示した。


「この光を辿れば森を抜けられるはずです」

「わかった」

「夜が明けるまでに抜けてください。あの月が沈む頃には、僕は……」


 その先は言われなくともわかった。抱えている少年から感じる力はこれまで感じていたものと全く別の性質のものだ。

 砕かれた心のことや言葉が復活したことを考えても、少年が精霊と同質の力を手に入れたことは間違いない。

 人の身に宿せないはずの力を得た少年の身に何が起きても不思議ではない。


 少年が示してくれた光の道を辿りながら、男は〈魔霧の森ミスト・ウッズ〉に入った。魔法の霧のせいで景色が歪み、あるはずのない道が四方に伸びて頭が混乱する。

 何の道標もなく進めばすぐに迷子になってしまっただろう。

 男はただ曲がりくねった光の道を正確になぞることだけを考えて飛び続けた。徐々に森の景色が明るくなり、夜明けが近づいていることを知らせている。

 月色に輝く少年の髪が徐々に光を弱め、呼応するように光の筋も色を失っていった。


「もう少し、です。頑張って、ください……」


 少年の体が段々と重くなってくる。応援する声も弱い。

 もう間もなくその瞬間が来る。

 ずり落ちそうになる体をしっかりと抱え、更に加速する。魔法制御技術に自信がある男でも振り飛ばされそうな勢いで正確に飛んだ。

 向かい風に目が乾き、木の枝に引っ掻かれて頬から血の筋が伸びても、男は光が指す先をじっと見つめて飛び続けた。


  ◇


 視界が真っ白に塗り潰される。霧が晴れた瞬間、正面から昇った太陽の光が男の目を潰した。前が見えなくなり、男はバランスを崩して開けた丘の上に落下した。


「ん……ごめん。痛かった?」

「……」

「君? ねぇ」


 少年は意識を失っていた。髪は元の錆色に戻り、溢れるようだった力も感じない。まさかと思い口元に手を当てると、呼吸をしていなかった。首元に触れて気づいたが、体温も下がり始めている。


「死んじゃった、の?」

「……」

「ごめん。遅かった、ね……」


 顔を上げれば、眩い太陽に照らされた見知らぬ景色があった。遠くに見える山々も、麓にある街並みも全てが初めて目にするものだった。

 ずっと少年が見たがっていた外の景色だ。

 ようやく辿り着いたというのに、少年は笑うこともなく、固く目を閉ざしたままだった。

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