第14話 療養
男が目を覚ましたのはその日の夜更けだった。少年は男がいつ目を覚ましてもいいように泊まり込みで看病してくれた。
男は少年にカレンダーで日付を示され、茶会を開いてから丸五日間を飲まず食わずで過ごしたことを知り、自分が死ぬ寸前だったことを理解した。
飢餓状態から回復しなければと慌ててビスケットを口に含んだところ、折角飲み込んだ物を全て戻してしまい、ビスケットを湯でふやかして作った粥をゆっくりと食べて胃を慣れさせるところから始めなければならなかった。
食事より深刻だったのは排泄だ。
元々尿意や便意を感じにくい体質だったせいで全く行っていず、正常に戻るまで強い腹痛が引かなかった。尤も、その痛みすら気にならないほど男の感覚は鈍感だった。
「おえぇ……」
男が食事を終えてベッドで休んでいると、階下から少年の弱々しい声が聞こえた。何かあったのだろうかとダイニングへ降りてみる。
すると少年が洗い場に顔を突っ込み、何かを吐き出していた。
「こんなゲロ味の物を毎日食べていたのか? 魔王様ってもしかして味覚もおかしい?」
「……ねぇ」
「あ、すみません。起こしてしまいましたか?」
「ん……んん……」
何をしているのかと尋ねるように洗い場を指さした。
「あ……。その、お腹が空いたので魔王さ……じゃなくてエグのビスケットを一枚もらったんですけど」
「エグ、の? ……ん、あ……なに?」
「えっと、これです」
少年は申し訳なさそうにビスケットが入った缶を見せた。反対の手には食べかけのビスケットを持っている。
「あ……ん……」
ジェスチャーでは伝えられないと判断し、自室に置いてあるスケッチブックを引き寄せる。最低限の線でビスケットを齧る少年を描き、こういうことかと尋ねる。
「はい。それで、その、なんと言いますか……」
「ん」
描いてほしいと半ば押しつけるように少年にスケッチブックを渡す。
少年は代償の記録をつけていた手帳を見ながら、拙い絵で嫌悪を示す鎖と目を回した子供を描いた。
「わかりますかね? ビスケットが酷い味で、驚いてしまって」
意思の疎通を図る上で役に立ったのは男が日記の隅に描いていた記号だった。主要な物は少年が手帳に意味をメモしていたため、簡単な内容であれば言葉の代わりに使うことが出来た。
少年はお世辞にも絵が上手いとは言えなかったが、記号と落書きのような子供の絵を組み合わせることで考えていることを伝えることが出来た。
男はスケッチブックを返してもらい、顔をしかめながらビスケットを噛み砕く少年の絵を描いた。
「いや、まぁ、合っていますが……。微妙な表情描くの、本当に上手いですね……」
「……」
「すみません。折角食べていいってくれたのに、不味くて食べられなかったなんて」
「ん……なに?」
「ああ、そうだった」
少年は手帳を見ながら怒りを示す罰印を描き、尋ねるように首を傾げた。
男はそんなことはないと首を振った。少年は続いて家の外に出る子供と、サンドイッチの絵を描いた。
「……」
「はぁ……これで伝わるはずないよな。言葉が使えないって本当に大変だな」
「ねぇ」
「え? あ、はい」
少年からスケッチブックを受け取り、男の家の周辺地図を描く。視界が変わったことを確かめるために飛んだ時、十分ほど歩いた場所にパン屋があるのが見えた。それを伝えてみようと思ったのだ。
「何だこれ? 風景画?」
「ん……ん……」
スケッチブックをテーブルに置き、結晶で作った赤い目の人形を家からパン屋まで歩かせる。
到着地点の店にサンドイッチの形をした結晶を置くと、少年もようやく意味がわかったらしい。
「こんな近くにパン屋が? えっと、助かります」
スケッチブックを渡し、続いて少年から一歩距離を置いて魔石を作り始める。
言葉を失ってからどういうわけか魔力の制御能力が飛躍的に向上し、不要に魔力をまき散らすことなく魔石が作れるようになっていた。
無駄に消費する魔力が減ったお陰で十個作っても疲労から倒れてしまうこともなくなった。
「ん」
手早く十個の魔石を作ると、結晶魔法の小瓶に入れ、少年の右手に握らせた。
「これで買ってくればいいってこと? でもこんなに沢山要りませんよ」
「なに?」
「えっと……何を描けばいいんだ?」
少年は頭を掻きながら考えを巡らせ、数が多すぎると伝える方法を考えた。しかし結局いい考えは思いつかず、嬉しい気持ちを意味する蝶を描いて感謝の気持ちを伝えた。
「うん! んん……」
「まぁ一回で使い切らなくていいだろうし、余ったら返せばいいか」
「あ……あ……」
男はパン屋に自分と少年が訪れている絵を描き、期待を寄せるように笑みを浮かべた。
何度か絵でやり取りをしているうちに、少年は笑顔で絵を掲げる時は願望を訴えている時だと理解していた。
少年は駄目だと首を振り、男の背中を押して無理矢理階段を上がらせた。
「まだ完全に回復していないじゃないですか。魔王様は寝ていてください」
「ん~ん」
「そんな残念そうな声を出しても駄目なものは駄目です。ったく、世話が焼ける……」
ベッドに男を押し込み、再三寝るように言ってから少年は〈
本来であれば出国許可が必要だが、倒れてからはそれも有耶無耶になってしまった。
そもそも少年のパスポートをどこかに提出する予定はなく、男も誰が来たかを〈
「き……み……」
少年が正しい道を進めているか気になり、窓の外を見る。最近になって気づいたことだが、魔石を十個作った後であれば視界が少しだけぼやけ、外を見ても遠くまで見えすぎてしまうことはなくなるようだった。
単純に今の目に体が順応しただけかもしれないが、少年との買い物を提案したのはどこまで平気なのか試す狙いもあった。
少年の小さな影が角を曲がっていく。その後ろを大きな影が追いかけている。前回の魔石回収時にいた新任の役人だ。まだ今の職を変えてもらおうと教官や自分の弱みを握るべく周辺を嗅ぎ回っているらしい。
脅すついでに葉巻を押しつけられるようなことがあっては大変だ。
「ん、んんん……だ、め……」
男は机からチョークを取り出すと僅かに窓を開けて外に放り、少年の様子を窺っている役人の足元まで移動させた。音を立てないように慎重にチョークを動かし、術式を完成させていく。役人は少年の動きに注目していて気づかない。
役人が動き出しそうだと気づき、今度は部屋の照明に仕込んでいた魔石を浮遊魔法で操り、役人の後頭部にぶつけた。
「いたっ! 何だ?」
役人はぶつかってきた物を探そうと後ろを向いた。狙い通り足を止めることが出来た。
役人の意識が反れている間に術式を描き上げる。そして描き上がったと同時にチョークを魔石にぶつけ、魔石から溢れた魔力で術式を発動させた。
魔法を受けた役人は空を見上げながら、半ば意識を失ったようにだらしなく口を開けた。
男が描いたのは普段〈
条件文も変えていないので恐らく今頃は無数のガラスの刃で八つ裂きにされている偽の記憶でも見せられているのだろう。
何故八つ裂きにされているのか、その理由は断片的な記憶の整合性を取るために無意識に作り上げられるはずだ。記憶が偽物だと気づかない限り、役人が少年や男の粗探しをしに来ることもないだろう。
「ご、め……んん、ん……」
チョークを回収し、窓を閉めてベッドに戻る。言葉を失ったのは不便だが、今の目になったお陰で対象の距離が離れていても楽に仕掛けることが出来るようになった。
〈
いや、実際のところ目が良ければそれだけ男は強いのだろう。
子供の頃は十人の人間を一度に殺めることが出来た。視界に入りさえすれば瞬時に相手の急所を見つけ、簡単に針を命中させられた。
それがある時を境に突然出来なくなった。
一人が相手なら何も苦労しないのに、複数人になった瞬間自分でもパニックになるほど急所が見えなくなった。それは加齢によるもので仕方のないことだと自分に言い聞かせていたが、今その能力が再び戻っているのだとしたら話が変わってくる。
かつて教官に見出された戦闘の才覚。ある時突然失われた圧倒的な力。
今、言葉を失ったことでそれは再び戻ってきた。
教官が何故執拗なまでに話せないふりをさせ、一言でも言葉を口にすれば異常な怒り方をしていたのか、今ならわかる気がする。
恐らく子供の頃、具体的には六歳のある時期までは今のように話せなかったのだ。考えてみれば、絵と独自ルールの記号だけで日記を描くようになったのは〈
子供の頃は話せないのが当たり前だったのでなんとも思っていず、だから話せるようになった時のこともあまり覚えていないのだろう。
言葉の代わりに絵や結晶を使って意思を伝えていたから人よりも絵や結晶魔法が上達したと考えれば、努力した覚えはないのにそれらを使いこなせる理由にも説明がつく。
「エ……グ……あ、んん……」
もう一度話せるようになりたい。遠い記憶のお陰で、時々少年の発する『エグ』という音は間違いなく自分の呼び名だと認識出来た。お陰で集中すれば記憶に残った口の動きからほんの少しだけ言葉を口に出来るようになった。
同じように自分の名前を、せめてファーストネームだけでも言えたらと思うのに、どうしても上手くいかない。
パスポートを見せて少年に発音してもらい、口の動きは完璧に覚え、鏡で同じように動かせることを確かめたのに、何故か言えないのだ。
まるで呪いだと思った。意思に反して体が話すことを拒否する。耳が言葉を聞き取ることをやめ、目は文字を無意味の図形に変える。
特別な視力を手に入れたのだから他には何も欲しがるなと〈
だったら前の視力のままでよかったと声にならない嘆きが胸を締めつける。
ベッドに横になり、スケッチブックに鉛筆を走らせる。もうすぐ少年が帰ってくる。悲しい顔で出迎えれば余計な心配をさせてしまうだろう。だから楽しいことを考えようと思った。
少年が帰ってきた時に話題に困らないように、少年としたいことを絵に描いておく。
少年と庭の整備をしたい、茶会を開きたい、買い物に出掛けたい。そんな他愛のない願望を次々と絵にしていく。
楽しいことを考えると自然と笑顔が浮かんだ。
大丈夫だ。今の顔なら少年を出迎えられる。
「ただいま戻りました」
少年の声が聞こえ、慣れ親しんだ気配が階段を上がってくる。男は少年が入ってくるのに合わせて起き上がり、今しがた描いた絵を見せるようにスケッチブックを掲げた。
「何ですか? エグと私が遊んでいる絵が描かれているようですが」
「や、ろ……やろ……」
「やろって、一緒にやりたいと言っているのですか?」
「やろ」
「あの、私あと二ヶ月と少しで死ぬのですよ。遊びにつき合っている暇はありません」
「ん……なに?」
「ああ、だから……」
男の手からスケッチブックと鉛筆を取り、鉛筆を構える。しかし鉛筆の先は何を描こうかと迷い、宙を切るだけだった。
「って、寿命なんてどう絵に描けばいいんだ? 難しすぎるぞ」
「やろ。ね? やろ」
「いや、だから無理ですって」
「ん〜ん」
「またそれ……。いい大人が駄々をこねる子供のような声を出さないでください」
寿命のことを伝える方法を考えている間に、男は新しいスケッチブックを引き寄せ、嬉々とした様子で少年と自分が一緒に遊んでいる絵を何枚も描いた。
絵の隅には日付を示すカレンダーも添えてあり、それぞれどの日の出来事か示していた。
日付はどれも未来のものになっており、男がこれから先毎日遊ぼうと提案していることが読み取れた。
「死ぬまで一緒に遊べってこと? 私の人生をこんなくだらない日々で締めくくれと?」
「やろ。ね?」
「冗談じゃないですよ。私は歴とした〈
「ん」
スケッチブックに明日、明後日、明々後日を示すカレンダーの絵を描き込み、鉛筆と一緒に渡す。
少年はこれから先どうしたいのか聞きたいと思ってのことだった。少年も男の意図を理解し、スケッチブックを受け取った。
「代償の重さは大体わかりましたし、正直もうここに通う理由はなくなったんですよね。まぁでも、魔王様が回復するまでは放っておくわけにいかないし……明日は多分魔王様の看病だろ? 明後日もまだ本調子じゃなければ来た方がいい。明々後日は、えっと……一人で街を散歩とか?」
少年が自分の絵しか描かなくなったタイミングで男は邪魔をするようにスケッチブックに手を置いた。
「何ですか? 何か言いたいことでも?」
「ん」
一人で歩いていく少年の後ろに自分の絵を描き込む。その意味を理解し、少年はプリプリと鼻を膨らませた。
「何でイチイチ一緒に行動しなくちゃいけないんですか!」
「ふふ」
「ふふ、じゃないですよ! 全く子供だと思って調子に乗って」
「なに?」
「はぁ? 絶対理解して言っているでしょう! 今のタイミングで聞くとか悪意しか感じないんですけど!」
「ふふ、ふふふ……」
「だから笑うなって!」
少年が鼻を膨らませて本気で怒るので、男は楽しくなってベッドに転がった。からかわれていると理解し、少年は怒りながら男が描き足した男をパンの欠片で消した。
「何でそんなに明るいのですか? とても三日前まで自殺しようとしていた人とは思えません」
「……」
何か問いかけられた気がして体を起こす。
「なに?」
「いや、えっと……」
尋ねたいのは山々だったが表現のしようがない。少年は考え込んだ後、何でもないと首を振った。
「ん……ああ……」
「話せないのは魔王様の方なのに、貴方の方がずっと自由に表現出来るって凄いですよね。僕は質問一つまともに出来ないのに」
「……」
何を悩んでいるのか、そう尋ねたいのに質問が漠然としすぎて言葉以外では表しようがない。
しかし落胆していても少年を困らせるだけだと、気持ちを隠すように男は無邪気に遊ぶ自分達の絵のスケッチブックを立てた。
「ん……やろ」
「いや、だから……」
「い……んん……い、や?」
「別に嫌というわけでは」
「やろ。ねぇ」
「強引だな……。はぁ、わかりましたよ。貴方もそんな状態では色々困るでしょうし、暫くは補助してあげます」
「……なに?」
「えっと……ああもう、どうすればいいんだ?」
少年は二色の髪をかき、先程消した男の絵を鉛筆でなぞり、描き直した。
「これでいいですか?」
「うん!」
男はにこにこと笑って喜びを表現した。少年はあまりにも明るい笑顔を向けられて恥ずかしくなったらしい。
「何か、変わったよな、この人……」
「なに?」
「何でもないですから。まぁ兎に角寝てくださいよ。体の不調を感じ取れていなかったとしても、まだ回復しきっていないのですから」
ベッドに押し込み、布団をかける。ついでにスケッチブックも棚に戻した。
「えっと、おやすみはどうだったっけ?」
少年は両手を合わせて斜めに倒し、手の甲に頬を寄せた。
「ん……」
男も同じジェスチャーを返し、横を向いて目を閉じた。
◇
約束通り、男と少年は殆ど毎日一緒に過ごした。一緒に家の掃除をし、庭を手入れし、時々家の傍の店に買い物に出掛けた。
以前のように茶会を開こうと思い、少年が男の家でスコーンを焼いてくれたこともあった。翌日、少年がやっていた作業を見て丸暗記した男が遜色ないスコーンを焼いたのを見て、少年は尊敬と努力が報われない悔しさを滲ませながら焼き立てのスコーンを頬張った。
それから新しい味を見つけようと、ジャムの材料になる木の実を取りに森に出掛けた。
毎日が笑いに満ちていた。照れ臭そうに澄ました顔をしていた少年もいつしか声を上げて笑うようになっていた。
楽しい日常を壊そうとする人はいた。〈
嫌な記憶を植えつけられたというのに懲りずにやってきては少年が家に来ていることを密告しようと様々な罠を仕掛けてきた。
しかし遠く離れた場所は男の目が、隠れた場所は少年の虹魔法が見張っていたため、尽く返り討ちに遭うことになった。
不思議なことに二人にちょっかいを出してくるのは役人だけで、教官も他の〈
月日はあっという間に流れ、気がつけば一ヶ月が経っていた。太陽が昇っている時間は短くなり、朝と夜には冷たい木枯らしが吹くようになった。少年が羽織っている外套も重い生地の物に変わった。
そんな時だった。男のもとに一通の手紙が届けられた。
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