第13話 伝わらない言葉
二度と目が覚めることはないと思っていた。しかしそう考えを巡らせることが出来た時点で期待は裏切られていたのだと知った。
見慣れた自室の天井を呆然と見上げながら、男は落胆するように溜め息を吐いた。口にはいつものマスクがつけられており、眠っている間ずっと風を送り続けてくれていたようだ。
「魔王様。わかりますか、魔王様?」
近くで声が聞こえ、顔を向ける。茶会で着ていた時とは別の服を着た少年が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「驚きましたよ。ずっと姿が見えないと思って窓から中を覗き込んだら、倒れているんですから。マスクも外れていたので死んだのではないかと冷や冷やしました」
少年が懸命に何かを説明している。しかし頭がはっきりせず、内容が頭に入ってこない。
「気分はどうですか? 何か飲みますか?」
「……あ」
「はい」
「いえにゃ、あんま、ま……」
「え?」
「ん、まああ、おうん、ん……」
「待ってください。何ですか、今の? からかっているのですか?」
少年が顔を強張らせて何かを尋ねてくる。
声は確かに聞こえているのに、どういうわけか言葉の意味が理解出来なかった。
もう一度言ってほしいと男は声に出して伝えた。しかし何か言葉を発すれば発するほど少年の表情は険しくなっていった。
「にゅみみ、い、あ、うる……」
「魔王様、いい加減にしてください。真顔でそんな変なことを言われると怖いです」
「んん、んんん?」
おかしい。どうやっても会話が成立しない。初めての状況に困惑し、男は眉をひそめた。
「これ、本気なのか? 〈
少年は解析魔法で男の状態を調べようと、重ねた手を男に向けた。
「特に魔法をかけられているわけじゃない。あれ? でも精霊の加護が消えている?」
「……」
「何が起きているのかさっぱりだ。困ったな……」
少年は深く考え込んだ後、何か思いついたらしくケースから絵本を取り出した。
一目で読み書きの能力を調べる時に少年が男に音読させた物だとわかった。
少年は以前と同じ頁を開き、文章を指さした。
「これ、読んでみてください」
「んにゅ……」
「ああ、もう。読んで! 声に! 出して! こう! 読んで!」
ジェスチャーも交えて何度も大声で叫ぶ。男は理解出来ず、苛立った様子で首を振った。
少年も困り果てた様子で二色の髪を掻き、手本を見せるように指で文章をなぞりながら読み上げてみた。
「『お母さんは言いました。この道を真っ直ぐ行った先のお店でりんごを買ってきておくれ。赤くてまあるい大きな物を選ぶんだよ』。ほら、次は魔王様」
「ん……」
「だから、お母さんはから読んでくださいと言っているのです。もう一度読みましょうか?」
口の動きから何度も少年が同じ文章を繰り返していると理解する。どうやら真似をしてほしいらしい。
ようやく絵本を受け取り、その文章に視線を落とした。以前の記憶も使えば少しは読めるはずだ、そう思って口を開いて初めて気づいた。
言葉の音が全くわからない。
文字の形は見覚えがあるのに、意味が伝わってこない。知らない記号を見ているように目が滑ってしまう。
男はようやく言葉を理解していないのは自分なのだと理解した。では今まで自分が言葉だと思って口から発していた音は一体何だったのか?
「やっと止まった。自分が変なことを言っていたとわかりましたか?」
「……」
「もしかして言葉が理解出来ていない? そうなのですか?」
自分の頭の中が変になっている、それを伝えようとしても言葉が一切出てこない。
唇が痺れたように動かなくなり、男は頭を抱えた。
一言でもいい、意思を伝えるための言葉を発そうと息を吐き出してみるものの、やはりどうしても話すことが出来ない。
「どうしよう? 本当に困ったな……」
「……」
「えーっと……とりあえず、飲み物取ってきます。気分が良くなると思うので」
少年は階段を下りていった。何をしに行ったのか気になり男も後を追う。
ダイニングに降りると、部屋は自分が前後不覚のまま放ったガラスのせいで部屋は荒れ放題になっていた。壊れた時計、割れた茶器、どれも視界に入っただけで言い表しようのない嫌悪が湧き上がり、目眩がした。
それらから目を背けるように少年の傍へ歩み寄る。
少年は枯れない水瓶に自分の魔石を装填し、湧き出た水を割られなかった方の茶器に入れて男に渡した。
「来たのですか。どうぞ」
「……」
「飲んでってことです。こう」
少年はジェスチャーでカップを傾けて飲む仕草を真似た。
理解したと頷き、マスクを外してカップの中を口に流し込んだ。気を使ってくれたのだとわかり、何気なく感謝の言葉を言おうとして再び口が動かないことに気づく。
こんな当たり前のことも出来ない自分が悔しくて男は唸った。
「どこか痛い所でもあるのですか?」
「ん……ん……」
「いや、そういうのじゃないか……」
感謝だけじゃない。訊きたいことだって山ほどあった。どうやって玄関の施錠魔法を解いたのか。何故倒れていることがわかったのか。
どうして戻ってきたのか。怖くないのか、気持ち悪くはないのか。
「……」
まるで全てが知らない言語で塗り潰されたようだった。目に映る物の名称も、少年の発する言葉も、自分が発しようとしている言葉も。何もかもが知らない物になっていた。
少し前までは当たり前に使えていたという記憶と感覚だけを残して。
懸命に何かを話そうと口を開いては閉じている男を見ているうちに、少年も話すことがはばかられるようになったらしい。
男の手から空になったカップを受け取ると、何も言わずに洗い場で洗い始めた。
ここにいても意味はない。自室に戻ろうと足を踏み出した時、奇妙な流線が視界に入った。
壁だ。ダイニングの壁一面をぼんやりとした線が走っている。
色はなく透明で、水の中に落としたガラスのように光がうねっている。
こんな物、今まであっただろうかと男は壁をさすった。凹凸はない。光の干渉で立体的に見えているようだ。
「壁に何かあるのか?」
少年が気づいて近づいてくる。迷った末、壁を指して何かないか反応を見てみたところ、少年は何が言いたいのかわからないと首を傾げた。見えているのは自分だけらしい。
壁の模様は廊下まで伸びていた。どこまで続いているのか確かめようとダイニングを出ていく。
模様を辿っているうちに玄関まで来てしまった。すると施錠魔法をかけていたはずの玄関が開いていることに気づいた。
ドアから不自然なほど魔力の気配が消えている。どうやら記憶改竄を防いだ〈
門も同じことになっているのなら誤って誰かが入ってこないように施錠し直した方がいい。
家の外に出て、ふと庭へ目を向ける。
一瞬、庭全体が知らない場所に見えたからだ。
庭は記憶にある物と寸分違わない。しかし全体的に何かが決定的に違っている。
何故そう見えるのか、原因を探っていると、いつもより遠い場所まではっきり見えていることに気づいた。
薔薇一つをとっても、以前は気にならなかった葉脈や花びらの筋、そこに降り積もった砂粒といった何もかもがくどいほど際立って見える。教官が去った後から視界がおかしい。
「魔王様? 出歩いて大丈夫なのですか?」
一体どこまで目がよくなってしまったのか確かめたい。ついてきた少年には構わず、男は自分に浮遊魔法をかけた。
体が羽根のように軽くなり、地面が遠のいていく。
体が反転しないよう注意しながら、あっという間に家の三倍の高さまで浮上した。この高さから街を見下ろすのは十五年ぶりだ。〈
「凄い。あんなに高く飛べるなんて」
子供の頃、男は異常なほど目がよかった。百メートル先にいる小さな虫を細部まで描くことが出来た。今の視界はまさにその時と同じだった。
何もかもが鮮明に見え、頭が痛くなるほど輪郭線がくっきりと見える。
しかもほんの一瞬視界の隅に入り込んだだけの物を含めて、目にした物全てが強烈に記憶に刻まれていく。
買い物をしている親子。
貴族に邪魔がられている子供。
ゴミを漁る鳥。
壁をよじ登る鼠達。
同時並行に繰り広げられる無数の命の営み。それらが目を開けているだけで何百と頭に焼きつけられていく。得られる情報量が多すぎて頭痛がしてきた。
そろそろ降りようかと視線を下へ向けた時、急激に胃が伸縮し、胃液が喉の奥まで込み上げてきた。
認識する前に本能が気づいていた。
今、視界の隅で一匹の虫が馬車に轢かれてぺしゃんこになった。恐ろしい光景が時間を追うごとに増幅し、嘔吐の衝動となって体に襲いかかる。
口を手で押さえながら咄嗟に地面まで降りた後、空っぽの胃を絞るようにして胃液を吐き出した。
「大丈夫ですか?」
少年が駆け寄り背中をさする。嘔吐の発作のせいか体が震え、全身から血の気が引いていく。
寒い。氷水の中にいるのではないかと思うほど体の末端から熱が消えている。
吐く物が無くなっても発作は止まらず、暫くの間、激しく呻きながら男はうずくまっていた。
「落ち着きましたか?」
「……」
ひとまず治まったが、嫌な光景の残像が消えたわけではなく、いつまた発作に襲われてもおかしくない状態だった。
何も見たくない。どこに何が潜んでいるかわからないから、見ることが恐ろしくて堪らない。
震える足で立ち上がり、バランスを崩して壁にぶつかりながらも階段を駆け上がり、自室のベッドに潜り込んだ。
「一体どうしたのですか?」
「……」
「服、着替えないと。袖についた吐瀉物も洗わないと」
「……」
「えっと……何でもいいから示してくださいよ。話せないからってそんな風に塞ぎ込まれては何もわかりません」
「……」
「はぁ。ちょっと失礼しますよ」
少年が布団を剥がそうとすると、男は拒否するように布団を頭の上まで引っ張った。
今は目に光を入れたくない。少年には自分の要求を理解してほしかった。
「何なんだよ、もう」
「……」
「庭、掃除してきます。吐いた物をあのままにしておくわけにもいきませんから」
少年の足音が遠のく。その気配が階段を通って庭に移動していくのが布団の中にいてもわかった。
何も見えない闇の中で男はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
錯乱していた頭が冷静さを取り戻したところで、ふと思い出す。
教官が去った後、自分は死のうとしていたのではないか? 〈
死んでいる状態が正しいのなら今すぐにでも死ぬべきだ。ついでに苦痛が消えてくれるのなら迷う余地はない。
もう一度、布団の中で首を強く押さえた。数分後、男は望み通り意識を失い、動かなくなった。
◇
再び目が覚めた。またも失敗したのだ。
意識が戻ってから暫くの間ぼんやりとしていたが、死ななければならないと思い出し喉に手をやる。
意識を失い、再び目覚める。
手では意識を失った後に力が抜けて駄目なのかもしれないと今度は結晶の輪で喉を締めつけてみた。しかしいつの間にか結晶は粉々に砕けており、正常に呼吸しながら目が覚めた。
その後も手を変え品を変えと別の方法を試してみたものの、どうしても死ぬことは出来なかった。
〈
死ねない理由を考えるうちに、ある可能性に行き着いた。
棚に置いてある新しいスケッチブックを引き寄せ、鉛筆で四角い枠を描く。その中に記憶した光景をなぞるようにして線を描き込んでいった。
男が描いているのはダイニングで目撃した壁の模様だ。
木目や接着剤の凹凸とは明らかに違う人為的な模様。
恐らく壁紙の裏に刻まれたそれは魔力を帯びて浮かび上がっている。
〈
「やっと起きたのですね」
少年がお盆を持って部屋に入ってくる。布団にこもるようになってから何度か入ってきていたのは知っていたが、死のうと決めてからは構っている余裕がなかった。
今も死ねない理由を解明することで頭がいっぱいで、脇目も振らずに鉛筆を動かしていた。
「全然減ってない……。もう五日目だぞ」
ベッドの横に置かれた水のグラスを見て、少年は頭を掻く。
「魔王様、いい加減何か食べないと。せめて水だけでも飲んでください。このままだと本当に死んでしまいますよ」
差し出されたビスケットとコップを男は反射的に払い除け、鉛筆を動かした。
一心不乱に何を描いているのか気になったらしく、少年もスケッチブックを覗き込んだ。
「何だこれ? 術式?」
基本的な術式は父親の書斎にあった本を読んで知っている。壁に刻まれた術式も一つ一つは単純な物ばかりだ。
しかし細かな配置やイレギュラーな線が追加されており、複雑に絡み合っているらしい。どの術式がどの術式と繋がり、発動条件や効果範囲に影響しているのか、それを読み解くには高度な術式の知識が要る。
本を一通り読んだことがあるだけの男には到底理解出来る代物ではなかった。
それでも個々の術式から読み取れることはあった。
壁にある術式は全て男一人に対して効果を発揮する内容になっている。条件文に書かれた文章の中にパスポートに記された自分の名前が載っているから間違いない。
術式の内容は呼吸を促すものであったり、呼吸を阻害する物を排除するようなものであったりした。
この術式が発動している限り、窒息死は起こり得ないようだ。
他にも解毒や治癒の術式、病を予防する術式が刻まれている。しかもそれらは全て〈
つまり、家の中にいる限り男はそう簡単に死ぬことが出来ないということになる。
考えてみれば当然の話だ。死なないようにするのが大変だと言っていた〈
〈
しかし裏を返せば術式の影響を受けない場所に行けば死ねるはずだ。
スケッチブックを脇に起き、ベッドから降りる。立ち上がろうとすると膝ががくっと折れ、転んでしまった。
体に力が入らない。目眩がして平衡が保てない上に、体が震え、胃がむかむかしてくる。
「言わんこっちゃない。ベッドに戻ってくださいよ。それとマスク、何故外しているのですか? 呼吸が止まったらどうするつもりですか?」
ベッドに押し戻そうとする少年の手を振り払い、半ば這いずるようにして窓の前へ移動する。施錠魔法を解き下の窓を押し上げると、男は転げるようにして窓から飛び降りた。
「ええ! 嘘だろ?」
首の折れた不格好な死体にだけはなりたくない。だから男は死ぬ手段として飛び降りを選ばなかった。
地面すれすれの場所でふわりと浮き上がり、流れるように宙を移動する。
庭を越え、通りを抜け、完全に術式の影響を受けない場所で男は魔法を解いた。
通りにいた親子や青年は突然空からやってきた男に度肝を抜かれた。地面に倒れ込む男に恐る恐る近づき、どうしたのかと声をかける。
返事をしない男の肩を揺すって顔を覗き込んだ青年は、男の瞳が夜の闇に反応し、淡い光を放っているのを見て悲鳴を上げた。
「〈
青年の叫び声を聞き、親子も恐怖に駆られて去っていく。男は彼らに構わず自分の首に手をかけた。
もう障害は何もない。今度こそ死ねる。全てが母親の望んだ、正しい状態になる。
「はぁ、はぁ……。やっと追いついた。急にどうしたのですか?」
返事はない。最早そのことは全く気にならなかった。俯いたまま動かない男を見てまた吐きそうになっているのではないかと少年は顔を覗き込んだ。
「首を押さえている? 痛むのですか?」
「……」
「え? 違う。自分で首を絞めているのか? 何で?」
「……」
「待ってください。待ってくださいよ、魔王様!」
夢中で男の手を引き剥がす。男も抵抗したつもりだったが、衰弱した手は呆気なく首から離れた。反対の手で押さえようとしたところ、そちらも少年に押さえられてしまった。
「首、爪を立てた傷だらけだ。まさか、死のうとしていたのですか? この五日間ずっと?」
「……」
「何故ですか? 話せないから? こっちが何を言っているかわからないから? 何を考えているのですか? そんな程度で死のうだなんて、どうかしています!」
相変わらず頭に入ってきた言葉は知らない音にしか聞こえず意味が理解出来ない。視力と引き換えになくした能力に嫌気が差す。
どうせ母親を殺したことを責めているのだろう。ぼんやりとそう考えながら近くの塀に背中を預けた。
「貴方がしたことは許せません。あんなに沢山の動物を殺して、灰にせずこの世界に留めておくなんて正気の沙汰じゃないです。それを罪の意識もなくやっていたというなら尚更、狂っているとしか言えません。ええ、実際貴方は狂っているのでしょう。代償として大事なものを失って、正常な判断が出来ないことを〈
「……」
「でも、だから死んでくれとは思っていません。そんなこと、口が裂けても言えません。だって人を殺したという意味では、私も……僕も同じなんですから」
怒っていた少年の顔が悔しそうにしわくちゃになる。思いがけない反応に男は少年がただ自分を責めるためだけに来たのではないのだと悟った。
何を訴えようとしているのか確かめようと、男は出来る限り目に力を込めて少年の表情に注目した。
「魔王様がお母様を処刑した日、本当は処刑場にいるべきだったのは僕でした。外について調べていたのは僕だったのです。死期が近づいて、自暴自棄になった僕は虹魔法で光を歪めて、外の景色を見ました。〈
堪えきれず、大粒の涙が少年の頬を伝う。わぁと声を上げて泣き崩れ、地面に額をこすりつけた。
まるで少し前の自分を見ているようだ。
激しく後悔し、どうすることも出来ず涙を流すしかなかったあの日の。
何故泣いているのか、長々と訴えてきた内容はわからない。それでも通じない言葉に込められた思いだけは深く胸に突き刺さった。
少年が泣いているのはきっと自分だけが原因ではない。それまでの、たとえば茶会の席で寂しさを零すに至った日々の積み重ねがあってのことなのだろう。
思い返してみれば、いつからか少年は帰るのを渋るようになっていた。澄ました顔で本音を隠しながら、男と過ごす時間に安らぎを覚えてくれていたのだ。
ひとしきり泣いた後、少年がゆっくりと顔を上げる。悲しみの次は怒りが込み上げてきたらしく、土で汚れた拳を男の胸に叩きつけた。
「くださいよ。そんなに要らないんだったら魔王様が捨てようとしている時間をくださいよ、ねぇ! 僕が生まれてきた理由を知るだけの猶予を、生きていてよかったと思えるような価値のある人生を僕にくださいよ。ねぇ、ねぇ、ねぇ! ずるいですよ! まだまだ生きられる癖に! あと五十年くらい生きられる癖に! 僕がどうやっても手に入れられないものを貴方は持っているというのに、それを自分で捨てるだなんて! 酷すぎます。本当に、本当に酷いとしか言えない……。クソ、羨ましい……大人になれて、よぼよぼのお爺さんになるまで生きられる貴方が羨ましくて羨ましくて、おかしくなりそうです!」
何度も拳を振り下ろされるうちに壁で支えていた体がずり落ちそうになる。男は倒れないようになんとか肘で体勢を支えた。
受け止めなければならないと思った。
男の残虐行為を目の当たりにし、心の底から嫌悪していた少年がまた来てくれたのには何か理由がある。言葉は通じないとわかっていても、怒鳴り散らさずにはいられない事情がある。
「あ……く……」
やはり言葉は出ない。どうしても尋ねたいことがあるのに空気を飲んだような音しか出ない。
それでもその小さな音は少年に男が何かを言おうとしていると気づかせた。
少年は顔を上げ、男の真意を読み取ろうと食い入るように見つめてくる。その真剣な眼差しに、男は一か八か賭けてみることにした。力の入らない手を伸ばし、まずは親指で左頬を伝う涙を拭う。続いて人差し指で右頬に伝う涙を拭った。
「それ、励ましてくれているのですか?」
「う……な……」
もしやり直すチャンスがあるのなら。
「ん……う……」
もし自分に悲しみを止める力があるなら。
「か……く……」
生きている状態が正しいのだと胸を張れるようになれるだろうか?
通じないとわかっていても少年は言葉を重ねて訴えてきた。ならばこちらも消えてしまった言葉を口にすることで、何かが変わるのではないかと思った。
独りよがりかもしれない。的外れかもしれない。
しかし、それ以外に気持ちを伝える方法が思いつかない。だからこれは賭けだ。男は胸の中に湧き上がった感情を絞り出すように口を動かし続けた。
「今、もしかして、生きていていいのかと訊いたのですか?」
「す……あ……」
「生きていていいのか、そんなことは私にはわかりません。でも、こんなところで死ぬのは許しません。僕より長く生きられる癖に先に逝くなんて、絶対に許しません!」
なんとなく、自分には残る余地が与えられたのだと理解した。罪を雪ぐ方法も、生きていて間違っていなかったと思える可能性も残されている。
ならばせめて今だけは生きてみよう。きっと求めている正しい答えを得られるはずだ。
氷が日の光で溶かされるような心地よさに包まれる。安堵からか強烈な睡魔が男を襲う。ここで寝てはいけないとわかっていても、体から力が抜け、地面に倒れ込んでしまう。
考えてみれば歩くこともままならないほど弱っているのだ。これ以上意識を保てそうにない。
「眠ってしまった……?」
「……」
「ってそうだ、マスク! えっと、紐が短い方が下だから……」
男が装着していた時のことを思い出しながら、なんとかポケットに押し込んでいたマスクを取りつける。
男の体が肺の伸縮によってゆっくり上下し始めるのを見て、少年はふぅと溜め息をついた。
「でもどうやってベッドまで運ぼう? 家の中ならなんとかなったけど……」
「お困りですか?」
タイミングを計ったように少年の隣で一台の馬車が止まる。しゃがれた老婆の声にどきりとしながら見上げると、深くかぶった帽子の下から緑の瞳が覗いていた。
「貴女は先日の……」
「覚えていてくださって光栄です、王子様」
馬車を見れば〈
しかし御者の表情は汚い虫でも見るような〈
「五日前の朝は突然のお手紙を失礼致しました。私のお願いを聞き、エグに会いに行ってくれたことに、心から感謝しています」
「エグ?」
「その男がかつて両親から呼ばれていた名です。再び言葉を失った今でも、その呼び名だけはどこかで覚えているかもしれません」
「どうしてそのようなことを知っているのですか? 貴方は〈
御者は答えの代わりに意味ありげな笑みを浮かべ、手頃な長さの棒を取り出した。
その棒を杖のように振ると、男の体がふわりと浮かび上がり、荷台の中に納まった。
「魔道具というのは非力な者にも力をくれる。便利な物です」
歌うように言って棒を少年に渡す。これがあれば家の中で運ぶのも楽だろうと伝えて。
「貴方もお乗りなさい。ここまで走ってきてさぞかしお疲れでしょうから」
「でも……」
「心配しなくても、ただ送り届けるだけですよ。ご遠慮なさらないで」
少年は黙って頷き、荷台に乗った。御者は静かに馬車を発進させた。
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