第12話 反転
何を信じればいいのかわからなかった。
今までいいことだと信じてきたことが悪いことで、間違っていると思っていたものが合っていたのかもしれない。
欠けた物が怖い、その特異な感覚は男を狭いひとりぼっちの場所に閉じ込めた。
まともに関わったことがあるのは父親と母親と、教官を初めとする一部の〈
六歳の事件が起きた時、たまたま現場に居合わせた教官は男の秘めた類稀な才能を知った。男は教官によって重要な神経を切断することで命を奪う方法を教え込まれ、忠実にその技を自分の物にした。
そして家に帰った時、父親は息子を褒め、母親は酷く嘆いた。
そして父親は教わったことを忘れないように出来る限り沢山の〝ぬいぐるみ〟を作るように言い、母親は二度と作ってはいけないと言った。
あまりにも真逆の反応を見せる二人。
どちらを信じればいいのかわからず男は困惑した。
考えた末、男は自分の感覚によって正誤を判断することにした。
そうして導き出した結論は、体に傷がついてしまったら可哀想だ、体が消えてなくなるなんてもっての外だ、だから腐る部分を取り除いて保存してもらった方が幸せなはずだというものだった。
家に迷い込んできた動物を殺める度、父親は大袈裟なまでに褒めてくれ、母親は悲痛な声で泣き叫んだ。鬼気迫る母親の反応にやはり自分の行動は間違っているのではないかと思い悩むこともあった。その度に父親は違う意見の人がいるからといって合わせる必要はない、もし母親が怒れば自分が味方になるから安心しろと頭を撫でてくれた。
優しい言葉で冷静に諭す父親と感情任せに喚き散らす母親、どちらの傍にいたいと思うかは明白だ。
やがて男は母親の金切り声に一切耳を貸さなくなった。どうやら望んだ子供にはなれなかったらしいという罪悪感を殺しながら。
父親と母親、正しいと信じていた方と真実は逆転していたのかもしれない。
どうして気づくことが出来なかったのだろう?
思い返してみれば違和感は前からあった。
母親が死んだ時、男は母親の肉体が傷む前に血抜きをさせてくれと父親に頼み込んだ。しかし毒に侵された体で無理をしてはいけないと許してはもらえなかった。ならば自分の代わりに血抜きをしてくれと訴えると、父親はほんの一瞬だけ見たこともないような悲痛な表情を浮かべた。
その後すぐにいつもの笑顔に戻ったが、その時の表情が強烈に記憶に焼きついていた。
もしこの時の父親が本心だったとしたら?
考えれば考えるほど少年が拒絶した理由に納得がいく。
よかれと思ってやっていたことが残酷なことだったとしたら、一体どう詫びればいいのだろう?
◇
暗闇の中にぼんやりと光が見える。
瞬きを三度繰り返すと次第にダイニングの天井が見えてきた。鬱屈とした夢の残像が覚醒とともに消えていくのを感じながら、ゆっくりと体を起こす。
するとすぐ傍に粉々になった茶器があり、男は反射的に体を仰け反らせた。
「あ……あ……」
「やっと意識が戻ったか」
ふてぶてしいダミ声が聞こえた。まだ教官が家に残っていたらしい。
「まさかお前の代償回復に精霊が絡んでいたとはな。新任が勝手に〈
徐々に意識を失う前のことが思い出されてくる。
そうだ、精霊はどうなったのだろう?
精霊が消えた辺りを見たが、魔力の気配すら残っていない。
黒い粉を掴んだ手は火傷を負い真っ赤にただれていた。やはりこれは〈
魔力で出来た精霊の体で浴びてしまえば消滅しても不思議ではない。男は鋭い目を教官に向けた。
「何か言いたいことでもあるのか?」
「……」
「ふん。では一つ試すぞ。不満があるなら言ってみろ。今だけは口を利くことを許してやる」
「……」
男は黙ったまま睨み続けている。教官は足を庇いながら立ち上がると、脅すように〈
「言ってみろ。口が利けるとでもいうのならな」
「……」
「言え。これは命令だ。言わなければ打つ」
教官にいくら強く言われても、男は睨むだけだった。男の胸倉を掴み、突き飛ばしても、男は一切表情を変えなかった。
ただ睨みつけていた。迫りくる夜に反応して淡く光る〈
「ふん……」
教官は短く鼻を鳴らすと、ステッキをつきながら去っていった。
人がいなくなり静寂が訪れる。
孤独の寒さのせいで急速に怒りが鎮まっていく。
精霊を守れなかった後悔がこみ上げ、涙が溢れた。いつも守ってくれた精霊を守ることが出来なかった自分が不甲斐なくてたまらなかった。
「ん……んん……」
やり直す方法はないのだろうか? 不可逆の死に追いやった命達に納得してもらえる道は?
床に落ちた涙の滴に自分の顔が映っている。普段なら気にしないような微かな輪郭線が不思議とはっきりと見えた。
床の茶色の中に浮かぶ瞳の青さも嫌というほど見える。
〈
今でもこの青を見る度に母親のことを思い出す。
幼い頃、母親に抱いた嫌悪感をこの瞳に封じ込めてきた。別の色に変わればいいと願っていた青い瞳が水面の向こうから責めるように男を見ている。
母親の面影を感じる青を見ているうちに男はある発想に至った。
眠っている間に教官がつけたであろうマスクを外し、遠くに放る。その手を自分の首に強く押し当てた。
気道が閉まり、呼吸が完全に止まる。
血液が沸騰するような圧迫感が体の異常状態を知らせていた。
母親が死んだ時、男は一緒に死ぬはずだった。確かにあの時、一緒に死んであげるから毒を飲んで死んでほしいとお願いされたのだ。生き延びてしまったせいで他の誰かが悲しむことになってしまった。
ならばこれ以上悲しみを増やさないために今からでも死ぬべきだ。
死ぬのは簡単だ。
間違っても死なないようにと、どうやったら人は死んでしまうのか父親に教えられた時、全てを回避する方が死ぬよりも大変だと思えた。
少年は息が止まると苦しいと言っていたが、やはり苦しいという感覚は男には全く湧かなかった。失敗しないように指が食い込むほど気道を潰し、時が来るのを待つ。
不意に意識が遠のき、体が支えられなくなった男は倒れ込むように横になった。
この段階までくれば確実に死ねるだろう。謝罪の想いを胸に抱きながら、男は静かに目を閉じた。
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