第8話 声なき者達
魔王だとばれないように手前で下ろしてもらい、徒歩で家まで帰る。すっかり夕方になっていたため、少年とはすぐに別れた。
小さな背中を見送った後、男は自室に戻り日記のスケッチブックを手に取った。
茶葉の店で倒れた時、思い出した光景はなんだったのか。その答えは日記の中にあった。
六歳になった日、男は誕生日プレゼントを買いに街に出掛けた。隣には父親と母親、それから当時の男と同年代の子供がいた。余程強烈なことがあったのか、普通は一頁に収める日記が四頁に渡って描かれていた。
日記を読むうちに男は当時何が起きたのか理解した。
同年代の子供は当時男が一緒に遊んでいた友達だ。男が得意の結晶魔法で蝶を作って飛ばしたのを見て感動し、仲良くなったのを覚えている。
この日は誕生日プレゼントを選んであげると張り切っており、あちらの店、こちらの店へと案内してくれた。
しかし頁をめくると様子が一転する。目の前には大怪我を負い、血まみれになっている子供とパニックを起こして震えている男の母親の姿があった。右下に描かれた記号の羅列から、男は怪我を負わせたのが自分だと理解した。
何故こんなことをしてしまったのかと日記をよく調べるうちに、子供の足元にある黒い点に気がついた。一見するとただのゴミだが、それは間違いなく踏み潰された虫の死骸だった。
潰れた死骸の絵を見た瞬間、忘れていた記憶が蘇った。
そうだ、仲良しだと思っていた子供が虫を踏み潰したのを見て男は激昂し、ガラスの刃で子供の胸に大きな罰印を刻んだ。血が大量に噴き出し、青ざめていく子供を見て今度は強い恐怖に駆られた。茶葉の店の時のように体が動かなくなり、倒れた男に父親が懸命に人工呼吸を施してくれたため大事には至らなかった。
男はこれ以降街へ行くのを拒み、家を出ることすらなくなった。
「ん……んん……」
当時のことを忘れていたのは無意識のうちに嫌な光景から自分を守ろうとしたからだろう。思い出しただけで男は恐怖に震え、日記を取り落とした。
沈黙していたマスクから強い風が吹き出し、男の肺を押し広げる。苦しさからマスクを剥ぎ取ろうとしても外れず、男は冷たい床に転げた。
異常に気づいたのか、精霊がやってくる。
大丈夫かと尋ねるように耳元で騒いだ後、精霊は日記をしまっている方とは反対側の、作業机に最も近い棚にかかった暗幕を剥がした。
すると無数のガラス玉の視線が男に注がれた。
棚に置かれた鳥、猫、ネズミ、蝶、トンボ、蝿。それらを見上げていると気分が落ち着き、荒れ狂う感情の波が引いていった。
棚に並んでいる〝ぬいぐるみ〟は男が子供の頃からこつこつと作ってきた物だ。毛や羽は本物の動物の物を使っているため、本物の動物に見える。
中には十年以上経っている物もあるが、毛が傷まないように特殊な薬品に浸しているため美しく保たれている。
男が魔力の塊を放つと、鳥は息を吹き返したように翼を広げて舞い上がり、男の腕に降り立った。瞬きをし、嘴で男の指を噛み、羽毛を振るわせる様はまるで生きている鳥のようだ。
しかし腕に伝わる冷たさと無音の鳴き声が作り物であることを物語っている。
鳥が動けるのはまだ生きていた頃の鳥の動きを男が完全に記憶し、魔法で再現しているからだ。鳥に意思はなく、結晶魔法で作られた目玉には何も映っていない。
男は欠けた形の物が苦手だった。
千切れた花びら、足を失った虫、割れた皿、歯の抜けた子供、或いは一生消えない傷跡。
それらを目にすると拷問でもかけられているような苦痛と恐怖を感じる。物心つく前からそうだ。
教官はそれを知っていて、何かある度に食器を割ってくる。毎回、取り乱さないように我慢するので苦労する。
家の中は安全だ。気をつけていれば虫を踏み潰すこともないし、何かを割ってしまうこともない。だからずっと家という狭い場所で生きてきた。
理由を忘れてしまうほど、長い間。
それが買い物もしたことがないような特殊な環境で育つことになった原因だったのだと、男は理解した。
一階で時計がボーンと鳴っている。そろそろ庭に出て水をやらなければならないと頭では理解していた。しかしどうしても自分の部屋から出たくなかった。
思い出してしまった嫌な記憶、ハーブティーの水面に茶葉のカスに混ざって浮かんでいた虫の脚、それらの光景がまだ瞼の裏に貼りついていた。男は撫でていた鳥を放つと、ぬいぐるみに向かって全ての魔力を放った。
ネズミが頭をもたげ、周囲の様子を探るように鼻をひくひくさせる。その後ろで猫が空っぽの口を大きく開けて欠伸をしたかと思うと、目の前のネズミに飛びかかった。ネズミは転がるように棚から飛び降り、その後を猫が追う。
箱からはトンボが舞い、コオロギやバッタが床を跳ね回る。
男は無数のぬいぐるみ達の動きの一つ一つを人間離れした集中力で再現しながら、同時にぼんやりと眺めて安らぎを得ていた。
一つの意思によって完成された世界。
自然の摂理が展開されているように見えて、その全てが虚構であり演出だった。
誰も傷つけず、傷つかない絶対的に安全な空間。外には決して存在し得ない無音の世界に酔いしれるように、男は満足げに微笑んでいた。
ぬいぐるみ達に魔力を吸い取られ、男は力なく倒れ込んだ。魔石を作りすぎた時のように意識が朦朧とし、強い睡魔に襲われる。
服を着替えることもせず、男は本能の要求に身を委ねるようにその場に横になった。
すると標本箱に納められた沢山の蝶が男の体に群がり、蜜を吸うようにぜんまいの口吻で突っつき始めた。忙しない口元とは対照的に優雅に閉じたり開いたりする三角形の羽を男は恍惚とした目で眺めていた。
やはり蝶の羽は美しい。
黒く縁どられたまだら模様の中に光る青や緑の神秘的な色が躍っている。だから蝶を見ると嬉しい気持ちになるのだ。
決して傷つかない閉じた世界で、大好きな蝶に囲まれて、男は至上の愉悦に浸っていた。
やがて魔力不足により男は意識を失う。部屋を動き回っていた動物達も徐々に動力源である魔力を失い、一頭、また一頭と倒れていった。
精霊は男が完全に眠ったのを確認するとぬいぐるみを棚の元の位置に戻し、男の体をベッドまで浮かせて運んだ。
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