第7話 緑の瞳
街には一度だけ行ったことがあった。
十五年前、まだ六歳だった頃だ。
少年に連れられて街まで来た時、煉瓦造りの建物が通り沿いに所狭しと並んでいる風景を見て男は唐突にそのことを思い出した。
「あまり離れないでください。虹魔法が解けてしまいますから」
「わかった」
通りには客を呼び込む店員や品定めしている客で賑わっていた。人々の声が互いに溶け合い、がやがやと耳を圧迫する感覚に慣れず男は思わず背を丸めた。
石畳に向けられた視界の中に、ふと一本の花が差し出される。
「旦那様、お一ついかがですか?」
くすんだ色の衣服を纏った少女が男に籠の花を勧める。年齢は少年と同じかそれより若い。
何故勧められているのかもわからなかったが、断るのは悪いと思って花を受け取った。すると他の子供達も寄ってきて、男の手に蝋燭や魔除けを次々と押しつけてきた。
「旦那様、僕のも買ってください!」
「私が先よ! 旦那様、お願いです! 旦那様には一個おまけしておきますので」
すっかり子供達に囲まれてしまい、店を捜して歩く少年との距離が離れていく。先へ進もうとしても子供達は道を開けてくれず男は困惑した。
何故子供達に集られることになってしまったのかわからない。少なくとも子供の頃に来た時は誰も男の相手などしようとしなかったのに。
右往左往しているうちに腕の中は子供達に押しつけられた物で溢れていた。
「あの、旦那様? 品物をお受け取りになったのですから、お支払いいただけますよね?」
「ん……」
「そうですよ。早く払ってくださいよ、魔石を!」
品物を押しつけてきた手が何かを求めて差し出される。いよいよ困ったと男が空を仰いでいると、ようやく状況に気づいた少年が戻ってきた。
男の手に乗せられた品物を渡し主に叩きつけるようにして返し、男を子供達の輪から強引に引っ張り出した。
「何をやっているのですか!」
「だって、くれた」
「あの子達は商人ですよ。貴方から魔石を得ようとして商品を渡してきたのです。あのような価値のない物を押しつけているあたり、商人というより施しを得ようとする乞食と言った方が正しいですけどね」
「貧乏……困ってる? 助けようよ」
「今の有様を見たでしょう。一人助ければ自分も施しを受けようと他の子供も集まってくる。いくら魔石があっても足りませんよ」
少年の話によると貴族にはよくあることなのだという。男も少年から借りた服を着ているせいで貴族に間違えられたのだろうと少年は推測した。
確かに彼らが服装で商売の相手を選んでいるのだとしたら、幼少期の記憶にいる父親と母親が彼らに囲まれることがなかったのも合点が行く。
最初は茶菓子の店に立ち寄った。何度も通っている店なのかカウンターに立つ店員は少年を見た瞬間に柔らかい笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、フレデリック様。今日はどれに致しましょう?」
「プレーンと木苺と……そっちの棚にあるのは新作?」
「ええ。紅茶を混ぜ込んだものですよ。いかがですか?」
「ください。二つずつで」
店員の視線が男の方へ移る。まさか魔王だとばれたのではないかとドギマギしていると店員は気さくに挨拶してくれた。
「フレデリック様のご友人の方ですね。うちの商品がお気に召しましたら是非ご贔屓に」
「あ……ん……」
言葉を返そうとして、何と言えばいいのかわからなくなってしまう。結局何も言えないまま男は口を噤み、俯くしかなかった。
「すみません。この人、物凄く人見知りで」
「あら……。来てくれただけでも嬉しいわ。気に入ったらまた来てください、旦那様」
男は頷くので精いっぱいだった。落ち着きなく口元のストールを弄り、少年が品物を受け取って店の外へ向かうのを待つ。
明るい店員の声に送り出されながら、二人は通りに出た。
「また視線が気になって口が利けなくなったのですか?」
「違う。ん……知らない人、何、話す……わからない」
「本当に人見知りしていたのか。普通にこんにちはと返せばいいのですよ」
「変じゃない? つ、つっかえる。話すの、上手くない」
「まぁお世辞にも話し上手とは言えませんが、言いたいことは伝わります。会話なんてそれで十分じゃないですか。気にすることはないですよ」
「……」
「ほら、そうやってすぐに黙る。言っておきますけど、貴方のような人相の悪い人に黙られる方がずっと怖いんですからね。口を隠して表情が見えないから余計に」
「そうなの?」
「そうです。だから、もう少し楽に話してください」
「う、うん。わかった、頑張る」
次はフェンスの塗料を買いに店に入った。早速店主が迎え出たのを見て少年が男を小突いた。
「いらっしゃいませ。何をお探しで?」
「ん……」
「はい?」
「フェンス……て、鉄の……し、し……」
「えっと……鉄製のフェンスに塗る塗料が欲しいということで宜しいですか?」
「そ、そう」
「色は?」
「ん、これ……」
男は白い結晶を作って店主に見せた。店主は不思議そうな顔をしながらも結晶を受け取り、白い塗料の並んだ棚へ男を案内した。
「フェンスということは外用なので、雨に強いものがおすすめですよ。この中だと真ん中の物が一番近い色かと」
「じゃあ、それ……これ、で……」
少年が購入に必要だろうと言った魔石三つを差し出し、言う。店主は二つで十分だと一つを返すと、塗料を包んで手渡した。
「またどうぞ」
「う、うん……」
目的の物が手に入り、男は高鳴る胸を抑えて少年のもとに戻った。
「ちゃんと買い物出来たじゃないですか」
「でも、全然、話せなった」
「先程も言ったでしょう。通じればいいのですよ」
「変って、思われた」
「だから何ですか? 物は売ってくれたのですよね? 私からすればまともに口を開けなかった菓子屋の時と比べればずっとよく出来ています。少しは自信を持ってください」
「……」
「反論があるならどうぞ。聞きますから」
「君、優しい」
「は? 何で。代償研究を進めるためには貴方の協力が必要なのです。こんなところで心が折れられても困るのですよ」
「……」
「はぁ。それで、どうでした? 実際に買い物をしてみて何か感じましたか?」
「き、緊張、する……でも、楽しい。言ったこと、通じる……嬉しい」
「多くの人は日常的にそういう小さな喜びを得ようとするものなのです。満足に喜びが得られないと日々の生活に退屈さを感じるというわけ。退屈という感情、理解出来ましたか?」
「少し、は……。喜び、ある方が、いい。退屈、嫌、かも」
「そうですか。となると退屈さを感じない理由は代償ではなく育ってきた環境にありそうですね」
少年は男から言われた言葉を手帳にメモした。
「年齢から考えて、〈
「言われて、ない。出たくなかった」
「何かあったのですか?」
何故家にずっといたのか、考えたこともなかった。しかし考えてみればきっかけはあったはずだ。
ずっと昔の記憶を辿れば男にも友達がいた。街にだって来たことがある。少なくとも今よりは日常的に外に出ていた。
「ん……わからない。小さかった、から」
「ふぅん。まぁ、何か思い出したら教えてくださいよ。重要なことですから」
最後に茶葉の店に入る。これまでの店と比べて広々としており、茶葉の詰まった大瓶が両脇の棚に均等に並べられていた。
ここに来る客は好みの茶葉を吟味してから買うのだろう。大瓶の前には香りを確認するための小瓶が置かれていた。
「いっぱい、ある」
「この店は特に品揃えがいいのですよ。王宮御用達の店として有名なくらいですから」
「いらっしゃいませ。どのようなものをお探しですか?」
店主の女が声をかけてくる。そういえばどんな物がいいのだろうかと視線を泳がせていると、少年が男の背中を押した。
「この人、今度誕生日で。この人の好みに合う物を見繕っていただけませんか?」
「まぁ、それはおめでとうございます! 今まではどのような物を嗜まれていたんですか? ミント系? それとも甘い系?」
「あ、の……わからない」
「え? 貴族の方なのに?」
「ん……おかしい?」
「いえ、そんなことは。では飲みやすい物からご用意しますね」
店主は試飲用に淹れてくると言い、店の奥に引っ込んだ。男は不安げに少年を一瞥した。
「貴族じゃない、ばれた?」
「考えてみれば、茶会を経験したことがない貴族ってあまりいないかもしれません。まぁ平民が茶葉を買ってはいけないというルールはありませんし、大丈夫だとは思いますが……」
店主がトレーに二つのミニカップを乗せて戻ってくる。カップからは湯気が立ち昇り、花のような芳醇な香りがした。
「さぁどうぞ。熱いから火傷しないように気をつけてくださいね」
「いただきます」
少年は男より先にカップを手に取り、味見した。男もそれに倣いカップを手に取る。琥珀色の液の底に僅かに茶葉のカスが沈んでいる。
その中にある物が紛れ込んでいることに気づき、男は咄嗟にカップをトレーに戻した。
「どうかしましたか?」
「ん……んん……」
男は今見てしまった光景を振り払おうと頭を強く振った。しかし目をきつく閉じて忘れようとしても、一度目に焼きついた物が消えることはなかった。
「魔王様? 一体どうしたのですか?」
「魔王……?」
「あ、しまった……!」
恐怖に体が震え、よろめいてしまう。すると棚にあった瓶が衝撃で転がり落ち、派手な音を立てて割れた。
何が起きたのか想像しただけで頭がおかしくなりそうになる。男が力なく座り込み、そのまま破片の上に倒れ込んだ。
「え? しっかりしてください! ねぇったら!」
男の胸ポケットにいた精霊が飛び出し、扉の隙間から外に出る。その勢いでストールがはだけて男の口があらわになると、半開きになった口から白い泡が垂れているのが見え、少年は悲鳴を上げた。
何が起きたのかはわからなかった。恐怖が振り切れた瞬間体が動かなくなり、声も出なくなってしまったのだ。
この感覚を男は知っていた。代償研究時にマスクを外し、気絶する前に丁度今のような状態になったことがある。
このまま眠ってしまうのだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、誰かに体を抱き上げられる感覚があった。
僅かに残った力で瞼をこじ開けると、懐かしい緑の瞳が見えた。父親は既に灰になり、何があろうと駆けつけてくることはない。となればこれは夢だろうか?
「マスクはどこへやりましたか?」
「貴女は?」
「質問に答えなさい。事態は一刻を争うんですよ!」
そういえば前に同じようなことがあった気がする。
あれは確か六歳の時のことだ。
あの時も強い恐怖に駆られて体が動かなくなり、父親に名前を呼ばれながら何度も肩を叩かれた。その後強く口から息を吹き込まれるうちに体が動くようになった。
その時の記憶を追体験しているのか、硬い皮で口の周りを塞がれたかと思うと肺に強く空気が吹き込まれた。
「これで大丈夫です。じきに意識を取り戻すでしょう」
「どうしてわかるのですか? 貴女はこの人の知り合いなのですか?」
「私は〈
徐々に意識が覚醒してくる。ぼんやりとした頭のまま周囲を見渡すと、いつの間にか少年と店主以外にもう一人増えていた。
初老の女性で、質素なコートを身に纏っている。帽子を目深に被っており、表情は見えない。初対面のはずだが、声に聞き覚えがある気がした。
「な、何故〈
「貴女も察している通り、この男は正真正銘の〈
〈
男は彼女の瞳が父親と同じ緑色をしていることに気づき、息を呑んだ。〈
騒がしかった店内が静寂に閉ざされる。男のマスクだけが肺を押し広げようとすぅすぅ音を立てていた。
「あ……目が覚めたのですね。気分はいかがですか?」
「起きたんなら、出て行きな。魔王に売ってやれるような商品はうちにはないよ」
「待ってください。この人は噂にあるような極悪人ではありません」
「知っているんですよ。魔術兵として訓練を受けている息子がずっと昔にとんでもない力を持った子供を見たって。そいつは奇声を発するばかりで口が利けず、〈
「とんでもない力? どんな力ですか?」
「さぁね。何が起きたのか見ていてもわからないんだそうですよ。ただその男の前にいた人物は声も上げずに息絶える。どこへ逃げても、いくら防御を固めても、睨まれたら最後、必ず死ぬんだと。まるで呪いさ」
「そんな魔法、有り得ません。何かの間違いに決まっています」
「私の息子を疑うって言うんですかい? 酷いもんだねぇ。一応ご贔屓さんだから目を瞑っていたけどね、親が親なら子も子だよ」
悪意に満ちた言葉に少年の目の色が変わった。
「撤回してください! お母様を悪く言う人は誰であろうと許しません!」
「どうとでも言いなさいよ、斜陽の王子様」
少年はわなわなと震え出し、頭を垂れた。
もうこの場にいるべきではない、男はそう判断して体を起こした。まだ万全な状態ではなくふらついてしまう。しかし、辛うじて少年の手を引きながら店の出口へ向かうことは出来た。
外には先程の〈
コーチに二人で乗り込み、向かい合って座った。
「ん……大丈夫? 君?」
「別に私は何でも。それより魔王様ですよ。急に倒れるなんて、一体何があったのですか?」
「……脚、あった」
「脚? 何の?」
「薔薇、つく虫。小さい、緑の。し、沈んでた。ハーブティーの、中」
「薔薇につく虫って、アブラムシのことですか?」
「そう。脚、取れた。酷い、可哀想」
「可哀想って、あんな小さな虫はいちいち逃がすなんて出来ませんし、茶葉の収穫時に紛れてしまっても仕方がないですよ」
「可哀想。助けたかった。か、可哀想、だよ」
「昨日も私が虫を踏みそうになれば全力で止めていましたし、こんな小さな虫に対しても可哀想って思うなんて。変わっていますよね、魔王様は」
そんな人が人殺しなんてするはずがない。口の動きだけで少年はそう呟いた。
「ねぇ……ん、訊いても、いい? しゃようって、何?」
少年は暫く黙り込んだ後、ゆっくりと話し始めた。
「斜陽というのは、昔は華々しかった者が没落した様を表現する言葉です。最初は王位継承権を剥奪された私を嘲笑うお兄様達が呼んでいた名だったのですが、どうやら平民にも言いふらしているようですね」
「王位継承、ない? 幻王様、なれない?」
「別に〈
「兄さん、馬鹿に、する? 家族、なのに?」
「兄といっても腹違いですし、王族なんてそんなものですよ。プライドが高くて、態度は偉そうで、力を持った人には媚を売って、自分より弱い立場の者は蔑む。私のことも魔力が強いからと嫉妬して、事あるごとに嫌味ばかり。挙句の果てに大人になれないとわかった私に成人用の礼服まで送りつけて!」
吐き捨てるように言ってからはっと口を閉じる。少年の視線が男の着ている服をとらえていたのを男は見逃さなかった。
「それ、もしかして、これ?」
「……捨てるつもりでした。でも、仕立てた職人に失礼だから、嫌なら誰かにあげなさいってお母様が」
「そうだったんだ」
「なので、本当にあげますから。むしろもらってください。私のクローゼットにそれが入っているのが、忌々しくて仕方がないんです」
「じゃあ、もらう。大事に、する」
「……ありがとうございます」
馬車はゆっくりと揺れながら街の外を目指す。やがて煩いほどの喧騒も遠のき、のどかな鳥のさえずりが聞こえてきた。
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