第4話 日記
日中、少年に見せた日記は今もつけているものだった。それは寝る前につけているため、日記を書いている時間はいつも少年が不在だった。
魔道具のランプの灯りの下でスケッチブックに鉛筆を走らせる。
こうしてたっぷり二時間かけて、その日に起きた出来事を精緻に記録していた。
薔薇の剪定方法を見せる少年を描いていて、ふと手が止まる。
自分の描いた絵の中に昼間感じたものと同じ違和感を覚えた。
絵は記憶の中にある光景とぴたりと一致している。しかし何かが違っているのだ。
絵を描く手を止め、男は前の頁を開いた。
手帳に何かを書き留める少年。
小生意気な目であれこれ質問を投げかけてくる少年。
家の中の物を勝手に手にとって調べる少年。
サンドイッチを頬張る少年。
以前まで誰もいない風景画だった日記は今では殆どが少年の行動を記録したものになっていた。過去の頁をめくるうちに男は夕方に覚えた違和感の正体に気づいた。
少年の髪の金色の部分が以前よりも短くなっている。一ミリにも満たないほんの僅かな変化だが、男にはハッキリとわかった。
髪は根元から伸びているのだから、毛先の部分の色が短くなるのはおかしい。つまり金色の部分が根元の茶色に侵食されているとしか考えられない。一体何故このような変化が起きているのだろう?
考えていると階下から物音がした。男はスケッチブックを机に置き、自室を出た。
物音は一階の書斎からしていた。ドアを開けると白いフワフワとした光が本棚を漁っていた。
本を開いては目的の物とは違うと言うように放り投げるので、床に本の山が出来てしまっている。
呼び止める代わりに男がつま先で床を叩くと、光は驚きのあまり飛び上がり、天井に貼りついた。持っていた本が勢い余って精霊の手から離れ、放物線を描いて落ちてくる。男は魔力を放って本を浮かし、手の中に引き寄せた。
男がたしなめるように目を細めると、光はシュンとした様子で降りてきた。
この光は精霊と呼ばれる存在だ。
人智を超越した存在であり、大地の意志とも人の霊魂が集まったものとも言われている。
普通は〈
精霊は反省するように光を明滅させると、男の持っていた本を開いた。
パラパラと頁がめくられ、ある項で止まる。そこには〈
本によると、〈
その昔、過剰な魔力を求めた〈
一方〈
この〈
その後も何故だか二人と同様の性質を持った人間が生まれ、〈
更に読み進めてみると、〈
〈
まさに少年のことだと思った。
金色の部分の髪の長さと金色が侵食される速度から逆算すると、少年の髪の色が完全に茶色に変わるまではあと二ヶ月半ほど。パスポートにあった生年月日から、少年は十三歳だとわかっている。本の記述とも合致している。
男を馬鹿にしに来ていると言った時、少年は妙な表情を浮かべていた。見下すような意地の悪い表情だったことは確かなのだが、とってつけたような違和感があった。
横柄な態度を取ったかと思えば、急に生真面目な様子になり、時々男の境遇に同情する。
少年の反応には一貫性がないのだ。まるではりぼての悪意で本心を隠しているように。
男の代償に対する強い拘り。一瞬見せた同情の表情、〈
得られた要素から思考を巡らせ、思い至る。
少年は本当にのっぴきならない事情で代償を調べに来ているのではないだろうか? 代償を調べたいと繰り返しているのは本心で、理由を知られたくなくてわざと攻撃的な態度を取るのではないか。
だとしたら気まぐれな悪戯だと無下にあしらわず、真剣に相手をすべきなのかもしれない。
精霊は床に積んでいた本を魔法で一気に元の場所に戻した。男も棚に出来た一冊分の隙間に本を戻した。
ダイニングにかけた時計を下ろし、後ろのダイヤルを弄る。納得のいく設定になったのか、男は満足そうに頷くと時計を掛け、自室に戻っていった。
◇
翌朝、男は〈
日課の掃除の様子を見るために入り口まで入れたことはあったが、中まで来ていいと言ったのは初めてだった。
魔道具のランプに火をつけ、入って左手の棚の前まで少年を呼び寄せる。天井まで伸びた棚にはびっしりとスケッチブックが並んでいる。
「いつもは一歩でも足を踏み入れたら怒るのに、急に入っていいだなんて。一体どういう風の吹き回しですか?」
「……」
「まぁ私としては好都合なのでいいですが。これって昨日見せてくれた日記ですよね? 日記を見ていいということなら、早速拝見します」
棚に伸ばした少年の手を男が止める。少年はわけがわからないと眉を吊り上げた。
「手帳、見せて」
「は?」
「……書いてた。代償、の、こと……見たい」
「別にいいですけど。貴方と関係のないことも沢山書いているので、この頁より前は見ないでくださいよ」
わかったと頷き、手帳を受け取る。少年は男が予想するより遥かに事細かに男の行動を記録していた。
潔癖症とも言える掃除の徹底ぶり、言葉のつっかえるタイミング、はいといいえの返答はジェスチャー、つまらないという概念のなさ、食事以外では外さないマスク……。
六頁に渡って書かれた項目を一通り読むと男は黙って手帳を返し、中段のスケッチブックを一冊取り出して渡した。
「十歳の、時の」
「話が全く見えないのですが。何故私の手帳を調べたのです? この日記には何が描かれているのですか?」
「実験。代償、わかる……かも」
「待ってください。意味がわからないです。ちゃんと説明してもらえませんか?」
「……」
「またこれだ。困るとすぐに黙る。何か私にお願いしたいことがあるのでしょう? ちゃんと聞いていますから、話してくださいよ」
思えば人に何かを説明したことはなかった。言いたいことは頭の中に沢山あるのに何から説明すればいいのかわからない。
殆ど人と話してこなかったせいだ。人から説明されたことを理解出来ても自分から伝えることには慣れていない。
しかしここまで話を切り出しておいてやめるわけにいかない。思いついた言葉を兎に角口にしてみることにした。
「代償、調べた。十歳。〈
暫く沈黙が続いた。やはり伝わらなかったのだろう。落胆し、少年に渡したスケッチブックを棚に戻そうとする。
しかし少年は止めるようにスケッチブックを引き寄せた。
「代償、研究、自分ではわからない……。つまり、魔王様が十歳の時に〈
「そう、そう! 凄い、よくわかった」
「別に、集中して聞いていればわかりますよ」
照れ隠しするように、少年は口をへの字に曲げた。
「しかし一年も調べたのにわからなかったのですか? 〈
「大丈夫。出来る」
「何故そう思うのですか?」
「〈
「なるほど。つくづく嫌な人達ですね。誰のお陰で魔道具が使えると思っているのやら」
「……」
「調べさせてくれるのは私としては好都合ですが、何か裏があるのではないですか? 訊き出すだけ訊き出して、後で私だけ記憶改竄させるつもりなら働き損です」
「しない。僕、知りたい。代償、気になる。君……お願い、したい」
「まぁ、もし裏があったとしても言うわけないですし、代償について知りたいというのは本当のようですからね」
暫く考え込む間があってから、少年は納得した様子で頷いた。
「わかりました。そこまで言うのでしたら私としても好都合ですし、やれるだけやってみます。でも日記って絵だけなんですよね? 解説はお願いしていいですか?」
「する。やろう」
日記は全て男が見た景色をそのまま切り取ったようなアングルで描かれていた。男の手が描き込まれることはあっても、表情や体勢は日記から伺い知ることは出来ない。そのため男が当時のことを思い出しながら説明する必要があった。
最初の方にあったのは男の記憶力の良さや絵として描き出す能力を測るような実験だった。
渡されたモチーフを模写したり、モチーフをどこまで遠くに置いても模写出来るか調べたりといった内容だ。
男は常人には想像もつかないほど視力が良く、二十メートル離れた壁に止まっていた数ミリの虫をも正確に描き写すことが出来た。まるで間近で観察したかのように、体表にある細かな縞模様まで描き込まれている。
「どうやって部屋の隅に立ちながら遠い所の汚れまで掃除しているのだろうかと疑問に思っていましたが、見えているから近づく必要がなかったのですね」
「君、見えない?」
「見えませんよ。そんなに目がいい人は初めて見ました」
「六歳、もっと、見えた。〈
「どれくらい見えたんですか?」
「百メートル先、見えた。さっきの、虫」
「信じられないんですけど」
〈
「ところで、どの絵にも右下に記号のような物が三つか四つ描かれていますが、これは何ですか?」
「メモ」
「どういう意味があるのですか?」
「僕、気持ち。〈
左から記号を指さしながら説明する。
「気持ち?」
「嬉しい、蝶。悲しい、角砂糖。怖い、花びら。とか」
「よく覚えていられますね。法則性はまるでないのに」
「ん……法則、文字も、ない。『あ』、なんで、『あ』、書く……わからない」
「一応文字にはそれぞれルーツがありますが、まぁ言われてみればそうですね。外の国に行けば『あ』を表す文字は違っているかもしれませんし」
「……なんか、難しい」
「はぁ? 頑張って返したのに酷くないですか?」
「ん……ごめん。悪かった」
「それで、何故蝶が嬉しい気持ちを表すのですか?」
「蝶、見る……嬉しくなる。だから、嬉しいは、蝶、同じ。他も、同じ」
「ふぅん。要するに自分流に作った文字というわけですか。しかしここまで複雑に自分流の法則を作るくらいなら普通に文字で書けばいいのに」
「話せる、〈
「そういえば、そのわけのわからない制約があったんでした」
少年は日記をきちんと読むために男から記号の示す意味を教わっては手帳にメモした。
男が使っている記号は実に百を超えており、男自身も全てを説明するのは困難だった。そこで日記に登場した記号を優先的にメモすることになった。
「まるで子供が作った宝の地図に使う暗号みたいですね」
「難しい?」
「まぁ、慣れれば何とかなりそうです。ん? これは?」
頁をめくっていくと一風変わった絵が現れた。全てがぼやけており、集中して見なければ正面にある物が顔を覗き込んでいる人間の顔だともわからない。
どうしてこんな絵を描いたのか思い出せず、男は右下の記号の列を見た。禁止を意味する黒い四角と気絶を意味する白丸、そして絵に描かれた黒い塊を見て理解した。
「マスク、外した」
「マスクって今つけている黒いの? 食事の時以外はずっとつけていますけど、外したらどうなるのですか?」
「気絶する」
「何故ですか?」
「わからない」
「それ、魔道具ですよね? どんな術式が刻まれているのですか?」
マスクを外し、少年に見せる。マスクの内側に刻まれた涙型の術式が淡く発光し始めた。
「外して平気なのですか?」
一度だけ頷く。少年はマスクを受け取り、ケースから取り出した魔術書と照らし合わせた。
「確かにこの形状は風でしょうが、細かく条件づけがされているようですね。えっと、『エグバートの……が……した……』? 何だこれ、暗号化されているのか? これはなんと書いてあるのですか?」
「……」
「魔王様? あの、聞いています?」
「ん……ん……」
話そうとして思うように口が動かないことに気づく。まるで見えない手に口を塞がれているように上下の唇が貼りついてしまっているのだ。
何とか言葉を返そうと唇を指で引っ張っていると、少年がマスクを返してくれた。
「もしかしてマスクがないと話せないのですか?」
「……わからない。あ、口、開いた」
「おかしいですね。発動条件は設定されているようですが、マスクには風が出る術式しか刻まれていない。なのにマスクを外した瞬間口が利けなくなるなんて」
「話しちゃ、いけない」
「いや、もう話しているじゃないですか。今更何を気にしているのです?」
「……いけない。ん……いけないって、思う。凄く」
「強迫観念? 前に誰かに口を利いて嫌な目に遭ったとかですか?」
「……ん」
「まぁ、どうしても話したくないのであれば無理強いはしませんよ」
口を噤んでしまう男に困惑の表情を浮かべながら、少年は手帳にペンを走らせる。
「食器……割られる」
「は?」
「話す、と。い、嫌で……」
「なるほど。余程嫌な思いをしたのでしょうね」
男は日記をめくり、記号のメモしか描かれていない白紙の頁が出てきた。
「この日は何をしたのですか?」
「食器、割られた。怖くて、描けなかった」
「確かにあのバリンという音は心臓に悪いですが、わざわざ代償研究と名目を打って食器を割られた時の反応を見ていたのか? 〈
「今も、割られる」
「何のために?」
「わからない。怖がると、がっかりする」
「ふぅん。何かありそうですね」
少年は何かにつけて食器を割られていることを手帳に記録した。
「食器のことはともかく、気絶の話ですよ。条件が設定されているとはいえ風の術式が刻まれているということは、呼吸の補助のためにつけているということですよね? 呼吸器に病気でも抱えているのですか?」
そういうことはないと首を振る。
「マスク、風、出ない。出るの、たまに、だけ」
「まぁ、その風で呼吸をしているのだとしたら片時も外せないでしょうし、見たところ普通に息は出来ていますよね。今のところ外した時の弊害は上手く話せなくなるだけだけど、多分それは過去のトラウマが原因。うーん、繋がらないなぁ……」
「代償、わからない?」
「現時点では。ただ見ていて思ったんですけど、やはり〈
「……」
「〈
「わからない」
「まぁそうですよね。しかし、魔王様ほどの魔力ならかなりはっきりとした形で代償の影響が現れるのではないかと思うのですが、何で見えてこないかな」
「ん、どういう、意味?」
「自分では気づいていないかもしれませんけど、魔王様は相当魔力が強い方ですよ。普段からあれだけ魔力を使っても魔石を連続して十個も作れる。掃除で魔法を使わなければ十個作っても気絶せずに済むでしょう。〈
「君、詳しい」
「これでも歴史とか魔法理論とかの話は好きですから」
〈
夕べ立てた推論が男の思考を遮る。自分に関係することだから興味を抱き、詳しくなったのかもしれない。
実際少年と話していると子供だということを忘れるほど知識が豊富で考察時の視点も鋭い。
やはり本気で代償について知りたいのだろうと思った。知りたい事情はわからず仕舞いだが。
「もう少し調べさせてください。目星をつられれば何かしらわかるでしょうから」
ボーンと時計が鳴る。少年は違和感を覚えたのか、胸ポケットから懐中時計を取り出した。男が普段昼食を食べる五分前を示している。
「あれ? 今日って魔石作りました?」
「君、来る前」
「掃除は?」
「夜」
「一日のスケジュールを変えたのですか? 日記を一緒に読むために?」
男は頷いた。
「意外です。私が来たばかりの頃はあんなにも変えるのを嫌がっていたのに」
「ん……トイレ、時間。行ってくる」
「そういう報告はいちいちしなくていいですから」
その後、代償研究時のことを記録した日記を最後まで読んだが、結局これといったヒントは得られなかった。
少年はもう少しじっくり考える必要がありそうだと、研究で行った内容を全て手帳に書き写した。
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