第2話 来訪者
それから一週間が経った。
六時きっかりの時計の音を聞き、男は目を覚ました。今日もいつもと変わらない一日が始まる。
ゆっくりと体を起こし、ベッドを降りる。踏み出す足は寸分違わず同じ歩幅を保ち、体の動きは不自然なまでに無駄がない。
シャワーを浴び、朝の散髪を済ませ、食事を摂るまでの間、男の目は文字通り脇目を振らずに必要な物だけを見ていた。
朝の日課を終えてダイニングに腰掛けると、男は人形のようにじっと動かなくなった。
午前九時。そろそろ掃除を始めようと立ち上がった時、開くはずのない家の門が音を立てて開いた。男はその異変を敷地内に対流する魔力の揺らぎから感じ取った。
知らない魔力の気配が敷地内を移動している。
男は音もなく立ち上がり、玄関へと向かった。
男の家は平民のそれと比べると広い部類に入る。一人で住むにはやや広すぎる三角屋根の家と同程度の広さの庭があり、魔力の気配は庭の方からしていた。
プラチナローズ、その名の通りプラチナのような繊細な輝きを放つピンク色をした薔薇の茨の中に誰かがいる。
男は伸び放題になっている薔薇を払い除けながら、生け垣――伸びた蔓が絡み合い、もはや庭全体が一塊の茨と化している――の間を縫って進んだ。
「全く、何年剪定をサボればこんなことになるんだか」
侵入者は絡まった薔薇の蔓に手を伸ばしながら、煩わしそうに呟いた。子供だ。年齢は十歳かそこらの。
肌は上質な陶磁器のように一点のくすみもなく、瞳はルビーのように鮮やかな赤色をしている。肩すれすれまで伸びた髪は日の光を受けて輝き、毛先から半分までが金色、残りの半分が錆びたような茶色という特殊な色をしていた。
見るからに上質な生地で作られたコートには庭を通る際についたらしい茨の棘が無数に貼りついている。薔薇を盗みに来た子供かと思ったが、コートに刺繍された幻王家の紋章を見てすぐに違うと判断した。
一体何故王族がこんな所に来たのだろうか、無表情のまま考えていると、少年が男に気づき、振り返った。
「漆黒のローブに鼻から下を覆った大きなマスク、碧眼、黒髪……貴方が〈
少年は軽蔑するように言い、ふんぞり返って腕を組んだ。この少年のことを男は知っていた。数日前から男の家の周囲を嗅ぎ回り、門を執拗に叩いたり物を投げ入れたりして接触を図ろうとしていた子供だ。
正当な理由なしに他の〈
所詮は子供の悪戯だと放っておいたが、敷地内に入られてしまえばさすがに放っておくわけにはいかない。
男の家は〈
魔王と呼ばれるのも死の蝶と謳われる能力を有しているからではなく、〈
つまり許可なく男の家に入った少年の行為は立派な不法入国であり、単なる悪戯で済まされるものではなかった。〈
感情のない青い瞳に力が入る。男は右手に魔力を溜めて少年に放った。思わず防御の姿勢を取った少年の両手首に結晶で作られた錠が嵌められる。手錠からは同じく結晶で作られた鎖が伸び、その端が男の手に握られていた。
「結晶魔法? 制御が難しいとされる魔法でこれほど早く拘束するとは。魔王の名は伊達ではないようですね」
男はついて来いと合図するように二度ぐいぐいと引いた。
「はいはい、わかりましたよ。貴方のご命令に従います」
少年は拍子抜けするほど大人しくついてきた。これから何をされるのか理解していないのか、悪びれた様子もなく平然としていた。
過去にも悪戯で侵入してきた子供はいたが、手錠をつけられた時点で見逃してくれと泣いて頼んでくる子が殆どだった。
王族だから手加減してもらえるとでも思っているのかもしれない。
少年を連れて玄関を抜け、元々父親が使っていた書斎に入る。逃げ出さないようにドアに施錠魔法を施した後、ガラスの鎖を机に結わえつけた。
「凄い量の書物ですね。魔王様って術式学者だったのですか?」
「……」
「結構貴重な魔術書まであるじゃないですか。この著者、知っていますよ。地操術を完成させた偉大な術式学者ですよね?」
少年の言葉には全く耳を貸さず、男は足元にチョークで円を描き始めた。その手元を見て、少年は納得したように表情を歪めた。
「術式を描くのですか。円形ということは魂に作用する魔法ということになりますね。魂を構成するのは精神、記憶、生命力。魔王様は死の魔法を操ると専らの噂ですし、命を奪うような魔法だとか?」
「……」
「これだけ話しかけても無視ですか。全く失礼な人ですね。私は正真正銘の王子ですよ。国賓として丁重に扱われてもいいほどの偉い人間です。敬意を払ってくださいよ、敬意を。貴方だって十年前は〈
雄弁に話す少年に構わず、男は術式を完成させた。少年を術式の上まで引っ張り、術式に魔力を込める。術式が白く発光し、少年に浸透していく。少年の表情から力が抜け、その瞳がゆっくりと閉じられた。
これで終わりだ。
魔法の効果で意識を失った少年を外まで運び出そうと肩に触れる。ところが眠ったはずの少年が突然目を開き、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
直感で魔法が失敗したと理解した男は少年から距離を取り、身構えた。
「やはりそういうことでしたか。おかしいと思っていたんですよ。貴方は不法入国した子供に対して恐ろしい魔王の裁きを下している。裁きを受けた子は口を揃えて全身をガラスの刃で串刺しにされたと言い、絶対に魔王様とは関わってはいけないと全身を震わせて訴えてくる。ところが、その誰一人として体に傷が残っていない。わざわざ傷を負わせた後に魔法で治療していたのだとしても、傷が綺麗に治りすぎているのです。それこそ最初から傷など負わせていなかったかのように。いいえ、実際は本当に体を傷つけるような真似はしていなかったのでしょう。その証拠に処刑場となったこの部屋には一滴の血痕もありませんし、貴方は私に無害な魔法をかけるだけで一切怪我を負わせるような真似をしなかった。今描いた術式、効果は記憶改竄ですよね? 大方、記憶を書き換えて恐怖を与えるだけで処刑したことにしていた、というところでしょうか?」
少年は胸ポケットに入れていた魔法のケースから一冊の本を取り出し、中を開いた。そこには男が描いた物と全く同じ術式が描かれており、記憶改竄の効果をもたらすという説明が載っていた。
「どうですか? 私の推理に間違いがあればどうぞ。反論は受けつけます」
「……」
実際少年の言ったことは全て合っていた。男は不法侵入者に対して暴力を働いたことはない。記憶改竄の術式によって直近一時間の記憶を書き換え、恐ろしい目に遭ったように思い込ませていただけだ。
男には〈
もし噂が嘘だとばれてしまえば大変なことになる。最悪の場合、〈
「先程から唸り声一つ上げませんが、口が利けないのですか?」
「……」
「〈
少年を閉じ込めているうちは真実が広まる危険はない。
問題は何故少年に記憶改竄の魔法が効かなかったかだ。
記憶さえ書き換えてしまえば少年は何とでも出来るだろうが、魔法が効かないのでは手の打ちようがない。
「ん……」
少年の手から赤い滴が滴る。まさかと思いその手を開かせると、血塗れになった黒い金属の棒があった。
この金属は〈
少年の手が血塗れなのも記憶改竄の魔法を受けないようにずっと〈
少年は〈
「は……」
「え?」
「放して。早く」
「なんだ。話せるんじゃないですか」
「放して。お、おね、お願い」
「放せば記憶改竄の魔法をかけるつもりでしょう。従うわけがないじゃないですか」
「しない。しない、から、は、放して!」
男は持っていたチョークを足元に置き、両手を上げて更に後退した。男の鬼気迫る表情からその言葉に偽りはないと理解したのか、少年は金属の棒をハンカチで包み、ポケットにしまった。
「これでいいですか?」
「……」
男は慌てて部屋の外に出ると、薬箱を持って戻ってきた。気が動転し、震えが止まらない手で消毒液の入った瓶の蓋を取る。そんな男に、少年はぶっきらぼうに言った。
「別に治癒魔法くらい使えますよ」
少年は左手に灯した温かな光を右手の傷に押し当てた。傷はすぐに塞がったらしい。
それがわかると安堵し、男はその場に座り込んだ。
「魔王と呼ばれるくらいですから、この程度の傷など意に介さないと思っていました。もしかして血が苦手なのですか?」
「……」
「あれ? もしもーし。まただんまり決め込むつもりですか? 何とか言ってくださいよ」
「……いけない」
「何がいけないのですか?」
「話しちゃ、いけない。〈
「なんて言ったんですか? 代償で話せない?」
「……」
「また黙ってしまった。話しているのに話せないって、意味がわからないな」
通常、〈
〈
〈
「要するに、本当は話せるけれども話せないふりをしろと言われているのですか? 何故そのようなことを?」
男は声を出さずに首を振った。
「知らない、ということですか」
「い、言わないで。あの人、怒る、い、嫌……」
「あの人とは?」
「〈
「ふぅん。まぁ安心してくださいよ。私は〈
「代償、知りたい?」
「ええ。それさえ教えていただければ大人しく帰りますよ。貴方と会って見聞きしたことも誰にも言いません」
男は困ったように首を振った。少年は怪訝な表情で溜め息をついた。
「教えないというのなら仕方ありませんね。貴方が私と言葉を交わしたという事実を幻王様にお話しして……」
「ち、違う! わからない。知らない。教えられない」
「知らない? 自分のことなのに?」
「わからない。ん……本当。わからない」
「私としてはその妙にたどたどしい話し方が気になるのですが、それは代償と関係ないのですか?」
男は首を振った。確かに魔力を得た代償で何かを失っているはずだ。でなければ魔法を使うことは不可能なのだから。
しかし体に欠損はなく、感覚も問題ないので何が失われているのかは見当もつかなかった。教えてと迫られてもどうしようもないのだ。
「困ったなぁ。本人に訊けばわかると思ったのに」
「……」
「決めました。貴方の普段の様子を観察させていただきます。あれだけの結晶を即座に作れるだけの魔力を持っているのなら、日常の中に代償のヒントが転がっていると思いますから」
「こ、困る。君、ここ、いちゃいけない」
「そんなの、貴方の権限でどうにでも出来るでしょう。住人が貴方だけとはいえ、貴方は一国の王なのです。不法侵入した人間に対して罰を与えることが出来るのも、貴方には王としての権限が与えられているから。許すのも許さないのも貴方次第なのですよ。だから入国許可をください」
少年は胸の内ポケットからパスポートを取り出し、男の足元に放り投げた。意図がわからず、男は目を瞬かせた。
少年はそんなことまで説明しなければならないのかと面倒臭そうに溜め息を吐いた。
「貴方の印を焼きつけてほしいと言っているのです。要するにサインですよ。王様ならそれくらいはやったことがあるでしょう?」
少年が何を言わんとしているのかわかった。
〈
少年のパスポートには王家の紋章が描かれており、装丁もどことなく立派だった。
表紙をめくると名前や生年月日、住所が書かれている。入出国記録が全くない。王子とは言っても正式に王位を継承しなければ〈
「早くしてくださいよ。いつまでも手錠をはめられたままなのは嫌です」
「……」
「従っていただけないのでしたら仕方ありません。貴方が話していたことを幻王様に……」
「わかった。やる」
正しいやり方はわからないが、男のパスポートに無数に焼きつけられた〈
「これが魔王様の印ですか。蝶のような形をしているのですね」
「……」
「これで私も不法侵入者ではなくなりました。なら外していただけますね?」
少年はガラスの手錠のついた手を振りながら言った。男は手をかざし、手錠を完全に消し去った。
ドアの外から掛け時計のボーンという音が聞こえてくる。
時計の音が鳴ったら次の作業を始めなければならない。
しかし少年の対処はどうしたらいいのかわからず、男は困ったように視線を泳がせた。
「私のことはお気になさらず。邪魔はしませんのでいつもの通り過ごしてみてください」
邪魔はしないと言われても不法侵入してきた相手を易々と信じるわけにはいかない。男は魔力を込めた両手を振り、家中のドアというドアに鍵をかけた。
「他の部屋は入るな、ということですか」
書斎の机の下から大きな瓶を手に取り、机に乗せる。真っ青な透き通った石が何百と詰められていた。
少年は興味をそそられた様子で瓶から石をつまみ上げ、意外そうにふぅんと嘆息した。
「魔王様も魔石って作るのですね。しかもこんなに沢山。質も一級品じゃないですか」
男は机から離れるように書斎の中央に立つと、目を閉じて意識を集中させた。
体が青白い光に包まれ、机に積まれた紙が魔力の波動を受けてバタバタと暴れ始める。
息が詰まるほどの魔力が部屋を満たし、風鳴りのような音がこだました。
体の中で十分魔力が高まったのを確認すると、水を掬うように丸めた両手に魔力を集めた。手の中で青い炎が立ち昇り、やがてクルミほどの大きさの青い石になる。
魔石と呼ばれる、魔力の凝集体だった。
一個、二個と出来上がった魔石が瓶に追加されていくのを少年は退屈そうに見ていた。
八個目を作った時、体がズシリと重くなる感覚があった。しかし魔法を使った後の魔石生成作業ならいつものことだと特に気にせず九個目を作る。
「まだ作るのか? 相当魔力が強いんだな」
少年が感心したように呟いても、男は恐るべき集中力で魔石を作り続けた。
十個目を作った時、急に意識が遠くなり、男は崩れるように椅子に腰を下ろした。
「え? 気絶した?」
様子を見ようと少年が男の顔を覗き込む。否応なしに瞼が閉じ、全ての感覚が機能しなくなっていく。暴力的な睡魔に身を委ね、男は静かに眠り始めた。
◇
時計のボーンという音とともに、意識が覚醒していく。
目を開けると空は夕焼けに染まり、窓の外で日の入りを告げる虫の音が響いていた。
ゆっくりと身を起こすと部屋の隅で古びた羊皮紙を広げている少年が目に留まった。男が目を覚ましたことに気づき、少年は羊皮紙を魔術書を入れていたケースにしまった。
「全く、貴方の非常識さにはほとほと呆れました。確かに我々〈
「なんで?」
「なんでって、気絶するのは誰だって嫌でしょう」
「……」
「反応うっす……。まぁ、今日の調査はこれで終わりにします。帰るので出国許可をください」
少年はパスポートを取り出し、急かすように男の手に握らせた。すんなり帰ってくれることに安堵を覚えながら、男は入国許可の印の隣に出国許可の印を焼きつけた。
「また明日来ます。それでは」
ぶっきらぼうに言い、少年はさっさと〈
嵐が去ったような気分だった。
何故誰も近寄らないこんな場所へ来たのか、魔王の裁きの秘密を調べていたのか、何が目的で〈
何か大事件が起こる気がする。
変化のない日常を掻き乱す少年の登場に男は胸騒ぎを覚えていた。
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