25
この日も鬼塚さんは休み。僕は3限目にノートの数式と向き合いながら頭では別の事を考えていた。公式は無く途中式でさえ曖昧なそれを考えていた。まるで動画を戻して繰り返し見るように今までのことを思い起こす。何度も。何度も。
「そういえば......」
そう小さく呟きながら僕の頭には鬼塚さんがコンビニでのことを話していた場面が思い浮かんでいた。
だけど気になるのはそこじゃないのに勝手に切り替わり、彼女の言葉と突き刺すような目つきに思わず
そして今回も例外ではなく湧き上がったそれが嘆息として口から零れていく。
でもずっとそうしていてはこの数式でさえ進まない。僕は半ば強引に頭の中にある場面を切り替えた。丁度、何故動けなかったのかを彼女が話しているところへと。
確か彼女はこう言っていたはず。
『血の事で頭が一杯になって、アンタがあんな目にあってたのに自分の事で精一杯で......』
そして流れるように浮かんできた言葉が『最初の吸血衝動』だった。いつかの図書館で読んだ本に書いてあった言葉。確か吸血鬼は生まれてから一定年齢まで血を飲まなくて良くてその年齢に達すると最初の吸血衝動に襲われる。それを1人で満たして初めて成人しそれから定期的に血を飲むことになるとか。
「と言う事は鬼塚さんももうその衝動に駆られてるってことだよね」
血の事で頭が一杯になってたのなら(僕は吸血鬼じゃないしその衝動を味わったことないから正確性には欠けるけど)多分それは吸血衝動なんだと思う。
『16~18歳ぐらいまで血を飲まなくていいって言ってたけどもしそれ以上も飲まなかったどうなるの?』
『まぁ、死ぬね』
『最後は動くことすらままならなくなり死を待つのみとなるらしい』
僕の何気ない質問に彼女が返した言葉とあの書籍に書いてあった言葉がほぼ同時に蘇る。
その瞬間、僕の心臓は数学の授業中とは思えな程に活発になり始めた。
もし鬼塚さんがまだ血を飲んでいないのだとしたら。僕の顔は見えない糸に引っ張られるようにノートから空席へと動いた。無人の席を眺めながら―脳が勝手にそうしているんだろう―最近休みがちなのも早退するのもその所為に思えてしょうがない。同時に最悪の結末が捻じ込まれるみたいに思い浮かんできだ。そんな考えたくもない事がどんどん頭を埋め尽くしていく。
するとまるでそんな僕の心に反応しているように窓外では青く澄んでいたはずの大空に禍々しさを感じさせる
もしかしたら今こうしている間にも。まるで密室に大量の水か流し込まれるように不安は溢れ出し徐々に僕の心を呑み込んでいく。水位が上がり酸素が減っていくのと同じで段々と冷静さは追いやられていった。
だけどまだそうと決まって訳じゃなくて単なる想像でしかない。そう思うとさっきまで溺れかけていた心も幾分か落ち着きを取り戻し始めた。鬼塚さんがもう既に何らかの方法で血を飲んでいる可能性だってあるし、コンビニでの衝動も最初のモノとは限らない。
「はい。それじゃあ今日はここまで」
先生の声が聞こえるぐらいまでには落ち着けていた僕だったけど、依然と心では拭い切れない分の不安が、嫌にチラつく程にはその存在感を放っていた。
* * * * *
それからも寄せては返す波のように鬼塚さんの席は空席とを繰り返す日々。
そんなある日。いつも通りの朝。もうすぐチャイムが鳴りそうという時間帯で斜前は空席。僕は頬杖をつきながら何となく時計を眺めていた。
すると机の中からメッセージ通知の音が僕を呼んだ。その音にマナーモードにするのを忘れていたと、ほっとしながらもスマホを取り出す。
しっかいりとマナーモードにしながら画面に表示された緑色に囲まれた文字へ目を通すと、僕は思わず目を見張った。相手は鬼塚さん。メッセージ欄にはこう書かれていた。
『折角、こんなアタシを好きになってくれたのにごめん。でもちょっとの間だったけど色々楽しかった。最後にお礼だけでも言っておこうと思って。ほんとにありがとう』
まるで文章を途中から切り取ったような文だっけどそんなこと気にならないぐらい僕にとっては『最後』という文字に頭を支配されていた。もしかしたら単なるもう関りが無くなるという意味での最後かもしれないが、まだ心で息を潜めているアイツの所為で違う意味に見えて仕方ない。文字を見た瞬間、真っ先に頭へと浮かんでしまったその最悪の思考。
いや、落ち着け、そう自分に言い聞かせながらなんとか冷静を保とうとした。これはきっと僕の考えすぎで早とちりで――大丈夫、そう自己暗示でもするみたいに言い聞かせる。
でもそうじゃなかったら? だけどたった一言。その一言が頭を過っただけで僕の頭ではあの最悪の思考が存在感を大きくさせた。
最後、吸血鬼、血、最初の衝動、嫌悪。探偵が事件を解決する時のように単語が周りに浮遊し始める。何故か彼女がこのまま死んでしまうんじゃないかって、最後という単語からそんな不安を感じてしまう。
そしていつの間にか僕はそんな思考に囚われてしまったていた。それが頭を埋め尽くす程、嫌な汗のように溢れ出す困惑と焦燥。恐怖に心臓は震え、胸に何かが詰まってるようで気分が悪い。
そんな中、走馬灯のように鬼塚さんとの想い出が頭を駆け巡り始める。映画にショッピング、幽霊ビルでの会話。あまり多くは無かったけど、どれも僕にとっては掛け替えのない想い出だった。そしてそんな最後を飾ったのは鬼塚さんの笑顔。
もしこのままお別れなんてことになってしまったら僕は一生後悔する。償い切れない罪のように心に一生残り続ける気がする。それぐらいだったら......。
僕は気が付いたら席を立ち上がり走り出していた。丁度、開いた教室のドアから飛び出し廊下へ。
「おい! 走るな! というかお前どこ行くんだ!」
後で怒られるかもしれないけど耳に入ってきた先生の声は無視して、今は1歩でも多く前へ進んだ。
走って、走って、走って。
運動が得意と言う訳でも運動部って訳でもないからすぐに息が上がって汗が流れ始めた。でもなぜか足は動き続ける。息苦しさから少しでも解放されようとネクタイを緩め1つ目のボタンを開けた。
それから無我夢中で走り続け。――気が付けば幽霊ビルを囲う木々を抜けていた。いつもなら多少なりとも怖いはずなのに今はそんな事すら頭にない。ただ必死で、それだけ。
でもどうしてこの場所に来たのかは自分でも分からなかった。ここ以外思いつくとこがなかったと言えばそうだけど。ここに鬼塚さんがいるという根拠も無ければ自信も大してない。ただ気が付けばここまで走って来ていた。もしかしたら体か心のどちらかが(またはその両方が)僕をここまで導いてくれたのかもしれない。
僕はそんな宙ぶらりんの希望を胸に幽霊ビルへ入って行くと、騒がしく足音を響かせながら階段を駆け上がり真っすぐいつもの209へ。
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