21

 僕は絶えず痛みを訴えかけてくる顔を新しく変えることが出来ないまま(こんなにあれが羨ましいと思ったことはこれまでもそしてこれからもないはず)崩れるようにその場に座り込んだ。

 そして少し遅れて鬼塚さんが隣へ。


「......ごめん」


 彼女は立ったまま沈んだ声で静かに謝った。そんな言葉必要ないのに。


「いいよ。――でも僕、人生で初めて殴られたんだけど、やっぱ痛いね。って当たり前か」


 僕の言葉と共に腰を下ろした鬼塚さんは一体どんな表情を浮かべているのだろう。そんな事を考えながら言葉を並べていたけどやっぱり笑顔には程遠いような気がしていた。横を向いて確認したかったけど、暗い面持ちをしていたら、涙目やもっと言えば涙顔なんてしていたらと思うと中々顔を向けることが出来ない。


「でもアタシの所為で――」

「それは違うよ」


 だけど否定することに必死になり、ついさっきまでの揺れ動く感情すらどこかに飛ばしてしまう勢いで鬼塚さん方へ顔を向けた。最後まで聞くことなく途中で遮ってしまう程に彼女の言葉を全力で否定した。しかもほとんど考えることもなく反射的に。


「それは違う。これはただ――僕が格好つけたかっただけなんだよ。ちょっとでも良い所を見せてアピールしたかっただけ。だから鬼塚さんの所為じゃないよ。絶対にね」

「でもアタシが誰か呼んできたり一緒に走り出して逃げればアンタがこんなになることもなかったんじゃない?」

「あーっと......」


 それは言い返す言葉も無ければその必要すらない納得以外の何物でもない意見だった。


「――確かにそうかも。それは思いつかなかった。でも僕もさっさと鬼塚さんの手を引いて逃げればよかったのに何でしなかったんだろう。っていうか何で思いつかなかったんだろう」


 僕は見事に論破されたような気分だった。

 そして過去の自分にどうしてそんな単純な事が思いつかなったんだと問い質したい――まるでテストが終わってから思い出せなかった答えを思い出し後悔の大波に襲われるような気分。


「だから、ごめん。アタシ......」

「でもそれは僕も同じことだからさ。だから、こっちもごめん。ということでこれはプラマイゼロ」


 でも鬼塚さんはあまり納得していなさそうな表情を浮かべていた。


「まぁ何はともあれ僕は鬼塚さんが無事で良かったよ。それにこの手が綺麗なままで良かった。やっぱりこの手であんな奴らを殴るなんてもったいないよ」


 言葉を口にしながら僕は無意識に鬼塚さんの手を取っていた。穢れの無い人を殴るにはあまりにも綺麗過ぎる手。僕の守りたかった彼女の手。

 すると未だに慣れることのない疼痛とうつうが鼓動のように響くのを感じながら、僕は自分がしていることに初めて気が付く。

 その瞬間、顔中を殴られたとは別の理由が熱くさせた。


「あっ、ご、ごめん」


 周章狼狽しゅうしょうろうばいとしながら―と言うのは少し言い過ぎかもしれないが僕にとってはそれほどだった―だけどそっと離した鬼塚さんの手。同時に視線を上へ戻したけど目の合わない彼女の顔は避けるように背けられていた。


「鬼塚さん?」

「......何でもない」


 それは小さく堪えるような声だった(実際に何かを堪えていたかは顔を見れてないから分からないけど)。耳から入り込んできたその声は胸を霧のような微かな不安で包み込んだ。的中して欲しくない不安は先程の恐怖よりも嫌に心に絡みつく。

 そんな僕を他所についさっきまで触れていた手は鞄を漁っていた。

 少しだけガサゴソと中を駆け巡り再び顔を見せた手は何かを持っている。


「はい」


 鬼塚さんは言葉と一緒に手に持っていたハンカチを僕に差し出した。相変わらず顔は背けたまま。


「血ぃ。出てるから。これぐらいは」


 ここで断るのは違う気がしたから素直にそのハンカチへ手を伸ばす。


「ありがとう」


 その綺麗に折りたたまれた黄色かどうかまでは分からないハンカチを口元へ持っていくと一瞬、電気のような痛みが走る。


「ッつ!」


 これからしばらくこの痛みと付き合わないといけないって考えると溜息が零れそうだ。


「大丈夫?」


 至る所の痛みに嫌気が差していると鬼塚さんは向こうを向いたまま何やら口元辺りへ手をやりながら相変わらず心配そうに声を掛けてくれた。


「ちょっと痛いかな。でも大丈夫だよ」


 本当は結構痛かったけど流石に痛くないはあからさま過ぎるから少しだけ強がって見せた。別にそんな事をする必要もないだろうし、したところで何も変わりないはずなのに無意識的にそう振舞ったのは多分、自己満だろう。それか1種の暗示のようなモノなのかもしれない。強がることで本当にそうなのかもって思わせて少しでも痛みを減らそうとしたのかも(そんなことが可能なのかは分からないけど)。

 すると僕の言葉から少し間を空け、鬼塚さんの顔がゆっくりとこっちを向き始めた。その瞬間、一抹の不安がそよ風のように吹き心が微かに揺れる。もし合わせたのが潤んだ涙目だったとしたら、それこそ夜空を流れる流星のように頬を伝っていたら。そんな不安が胸を埋め尽くしていた所為か彼女と顔を合わせるまでの流れ星が煌めく程の時間は痛みすら忘れてしまっていた。

 だけどこっちを振り向いたその顔は泪に濡れていることもなく多少、沈んでいるぐらい。その少し沈んでいるのも気になると言えばそうだけど、とりあえず僕の心には日が昇り覆っていた不安が明けた。

 そしてさっきの不安が安堵へと変わる中、視界端に映る彼女の手の甲にあるものが僕の視線を引き寄せる。それは薄暗い所為か暗褐色にも見える丸い点と彗星の尾のように伸びた線。最初はそれが何か分からなかったけど思い当たる節はあった。


「あっ......。ごめん。もしかしたら手に僕の血が跳ねちゃってたのかも」


 もしこれが血以外なら話は別だけど、でも血なら僕以外に流してる人はいないから間違いないと思う。どのタイミングかは分からないけど。

 そう思った僕はハンカチでそれを拭った。


「よしっ」


 ちゃんとは見えないからもしかしたら拭き残しがあるかもしれないけど多分大丈夫だろう。


「......ありがと」


 鬼塚さんからの言葉に微笑みで返すと僕はあまり傷を刺激しないように立ち上がった。


「それじゃあ僕は先に帰るね。傷の手当てもしないといけないから」


 本当は、家まで送って行こうか? なんて言いたかったけど断られるのは目に見えてたから―だって僕は傷だらけだし―訊くのは止めておいた。

 ここまでなるべく何てことないと明るく振舞ってたつもりだったけどやっぱり鬼塚さんの表情は最後まで浮かないまま。

 そんな彼女は僕より少し遅れて立ち上がった。


「うん。――」


 鬼塚さんは最後に何かを言いかけたようだったけど、その言葉は直前で呑み込まれ姿を見ることなく神隠しにでもあったみたいに消えてしまった。


「それじゃあ、明日学校で。――気を付けて帰ってね」

「ありがとう。そっちもね」


 別れを交わすと僕は彼女に見送られながら家へと足を進めた。


                * * * * *


「はい。これでよしっと」


 母さんは使い終わった物を救急箱に仕舞いゴミを1ヶ所にまとめた。


「大したことなかったからいいけど。あんまり危ない事はしちゃ駄目よ?」

「ごめんなさい」

「まぁでも、誰か他の人の為だったのなら危ないとかは置いておいてよくやったわね」


 そう言って伸びて来た手に頭を撫でられるのは照れくさかったけど少し嬉しかった。多分それは自分に対する称賛もちょっとぐらいあったからなのかもしれない。


「だけどやっぱり小さい頃に格闘技でも習わせておけば良かったわ。そしたらそんな奴ら返り討ちに出来たのに」

「習わせようとしたの?」

「したわよ。でもあんたがあんまりやりたそうじゃなかったから」


 当時の事は覚えてないけど格闘技は僕の柄じゃない気がするから嫌がってる自分の姿が容易に想像できる。


「あぁ、そうだ。このハンカチ」


 朱殷色のシミが付いたハンカチの端を摘まむように持った母さんは強調してるのかひらひらと靡かせた。


「血塗れだし明日お金あげるからちゃんと新しいの買って返しなさいね」

「うん。分かった」


 母さんは僕の返事を聞くとハンカチをテーブルに置きゴミと救急箱を持って立ち上がった。


「しばらくは痛いかもしれないけど頑張りなさい。特に口の中は最悪だから」


 最後に脅すような言葉を残して母さんは歩き出した。

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